第5話 クエンチ
クエンチ、2008年9月19日(金)
セルンの大型ハドロン衝突型加速器が最初のビームを周回させたのは、9月10日だった。その日は避けての出張だった。世界中から人が集まり、お祭り気分なので、宮部さんと湯澤さんの調査、私の取材どころの話ではないだろうということだった。しかし、別のイベントがまだあった。
2008年9月19日、今日の磁石励磁試験だ。5テラ電子ボルト相当まで電流を上げていく試験である。このレベルの出力を出すのは人類初であった。宮部さんと湯澤さんもパーツの高負荷試験になるこの磁石励磁を見学するのが、今回の目的の一つ。人類が初めて5テラ電子ボルトの出力まで到達するイベント。
しかし、2008年9月19日、磁石励磁試験で大規模な事故が起こった。一歩間違えば、プロジェクト全体が致命的な打撃を受ける事故だった。
大型ハドロン衝突型加速器は、超伝導磁石同士を直列につないでいる。その数は数千ヶ所。その内の一か所に200 nΩ程度の大きな接続抵抗があったのだ。溶接がうまくできていなかったのだろう。5テラ電子ボルトまで電流を上げていく途中で、その箇所の発熱により超伝導状態が維持できなくなり常伝導に戻ってしまった。この状態をクエンチという。
あいにく磁石の接続部はクエンチに対する保護がいちばん弱い部分であって、熱暴走が発生した。接続が熔けて、アーク放電が発生し、ビームパイプとクライオスタットの真空壁に穴を開けた。この事故により、大量の液体ヘリウムが流出した。超電導が破れたためだ。
LHCは8セクターに分かれている。1セクターあたり保有するヘリウムは15トン。合計120トンの液化ヘリウムが循環して超電導を保っている。クエンチが起こると、液化ヘリウムは流出して、爆発的に気化する。LHCの弱い部分が破断する。コライダーのトンネル内はヘリウムで充満する。
『ビッグバン・セオリー』のシェルドンがヘリウムガスを吸い込んでキンキン声になったレベルの量じゃない。
熱膨張した大量のヘリウムが流出した。その「突風」によって多くの磁石がずれ、結局39台の偏向磁石と14台の四重極磁石の交換が必要となった。ビームパイプに穴があいたため、数キロにわたって、内部が煤や断熱材の破片で汚染された。
日本企業は、これらの設備の多くを供給していた。収束用超伝導四極磁石は東芝、超伝導ケーブルの製造は古河電気工業、電磁石用特殊鋼は新日鉄住金、川崎製鉄、極低温ヘリウム冷却設備はIHI、シリコン検出器・光電子倍増管・光検出ダイオードは浜松ホトニクスといった多くの企業が関わっている。それら装置・部品の設置はセルンの責任とは言え、宮部さんと湯澤さんも調査しないといけなかった。
結局、このクエンチの発生によるシステムのリペアは、2019年5月までかかった。大型ハドロン衝突型加速器は復旧はできた。しかし、復旧できないものもあったのだ。
クエンチが発生した時、宮部さん、湯澤さん、森さん、加藤さん、島津さん、アイーシャさん、小平先生、そして、私は、島津さんとアイーシャさんのオフィスにいた。
壁面に100インチの液晶プロジェクターを投影して、セルンのコントロールルームの様子を見ていた。カウンターが、0.325テラ電子ボルト、1.536テラ電子ボルト、2.868テラ電子ボルトと徐々に上昇していく。
私たちが座っていたのは、ユニークな机だった。テーブル表面が、磨いた銅版の長テーブルだった。「アイーシャさん、このテーブル、珍しいね?銅版なの?」と彼女に聞いたら「注文した銅版が余ってしまったのよ。銅は知っている通り、銀の次の良導体で、何か実験に使えるかな?と思って、ワークショップでテーブルのサイズに寸断してもらってこれを作ったの。ちゃんとアースも取っているのよ、ほら」とテーブルの脚から壁沿いにある動力盤につながるケーブルを指す。「これで帯電防止してるのよ」この話を聞いた時、私は深く考えなかった。
カウンターが動いていく。私たちは固唾を呑んで数字を見守った。みんな何が起こるか知らないで、テーブルに両手をつけて、体を乗り出して、プロジェクターの画面を見つめている。数字が5テラ電子ボルトに近づいていこうとした時、LHCのトンネル内の画面が真っ白になった。ヘリウムの気化。
「クエンチだな」と小平先生が冷静に言った。クエンチ?超電導の破れ?え?
その時、みんなが手をついていた銅版から静電気なのか?(アースをとっているのに?)両手からショックが体に伝わった。みんなテーブルから飛び下がった。私はチェアごとひっくり返ってしまった。加藤さんも同じく。
島津さんが「アイーシャ、このテーブル、アースをとっていなかった?」と頭を振って聞いた。「とってるわよ。動力盤の緑のアース端子に!こんなこと起こるなんて!」と彼女も頭を振っている。
おかしい。これ、単なる静電気とかのショックなの?え?何かが私から行ってしまって、何かが私に入ってきた?え?え?
頭が猛烈に痛い。脳が内部から圧迫される気がする。何かが脳内で展開しているような・・・私の20才の頃の記憶。原宿の宮部さんたちの家。え?私、20才の時、こんな経験していたかしら?してないわ!1983年?私は1976年の生まれよ!1983年じゃあ7才じゃない!20才のわけがないわよ!みんな頭を振り、後頭部を押さえている。私だけじゃない!
みんな座り直した。テーブルには触れないようにしている。小平先生がこめかみを揉んで後頭部を押さえながら「諸君、私が感じていること、体験したことは、私だけなのか?それとも、諸君も同じなのか?」とみんなを見回して聞いた。みんな口々に「たぶん・・・」「同じかも・・・」と言う。
「宮部くん、キミは説明できるかね?クエンチで何が起こったのか、は後で考えよう。ワシの頭の中の『アレ』はキミの頭の中の『アレ』と共通するのかね?」アレって・・・2008年じゃなく、1980年代のアレ?ってことよね?
宮部さんはまだ頭を振っている。「何か、私から出ていった感じがしています。私の記憶データというか。それから入ってきた記憶も。私自身なのか、似姿なのか、ひどく若くて・・・1970年、私が12才の時、学校の近くの競馬場跡地の公園で落雷があって、それで今のこの世界の記憶が彼に転送?転移?されてしまったというか。しかし、しばらく明確に記憶が蘇ったわけではなくて・・・1978年になって、学生のぼくとメグミと、いや、加藤博士と一緒に神楽坂を飯田橋駅に行く途中で、やはり落雷があって・・・でも、おかしいんですよね。1970年って、ぼくは・・・私は、1才です」私と同じだ。ありえない年齢の自分の記憶が今あるということだ。
「そうなの。1978年のこと。私は20才で、明彦と・・・宮部博士と坂を降りていく途中で、真っ黒い積乱雲が神楽坂の家並みの上からモクモクと湧いてきた。大雨になりそうなので、喫茶店に入った。ちょうどその時、土砂降りの雨が降ってきた。雷を伴っていた。喫茶店の窓から覗くとかなり高い位置から雷光が落ちてくるのが見えて、ちょっと遅れて雷鳴が轟いた。明彦が私の手を握って『大丈夫だよ』と言った。それで、明彦の手から静電気か何か?が伝わって、手のひらからピリッときた。頭の中がピリっとしてきて、それで、なにか頭の中にいっぱい入ってきて、思い出すことがたくさんできた?そんな感じだった。私は『白衣を着ていて、スラッとして背の高い、髪の毛が肩まであるヨウコさん?その人の姿が浮かんでさ・・・』と明彦に、いや、宮部博士に言ったの。洋子が・・・いや、島津博士が見えたのよ。今と同じ姿だった」
「私の話は後でするけど、今の話では、そのメグミは、彼女は、1978年で20才ということは1958年生まれでしょ?でも、あなたは1971年生で、現在、2008年で37才よね?生まれ年が異なっている。時代も70年代」と森さんが加藤さんに聞く。
「変よねえ?それで、明彦から『メグミ、もしかしたら、キミは今晩から高熱を出して寝込んでしまう』と駅で別れ際に言われて、その通り寝込んだ。そうしたら、脳みそが躍動しているような。万華鏡をクルクル回して、筐体の中をビーズの破片が花開いてドンドン変わっていくような感覚が起こった。そして、湯澤くんが何か説明しているのよ」
加藤くん、よく人間の脳細胞は9割が使われていない、なんて言われているけど、あれは違う。脳が働くときには、ニューロン(神経細胞)の樹状突起から細胞体をへて、軸索を通り、次の樹状突起へとインパルス(電気信号)が流れる。このつながりの構造が常に再構成されて、人間の記憶を構成している。単純なコンピューターのハードディスクやメモリーとは根本的に異なるんだ。そして、マルチバース間の記憶転移が発生する時、シナプスの構成構造と保持している記憶データが送られて、受けての脳内でデータ展開が起こり、その脳を再構成する。その際に、急速なデータ展開により、脳細胞が発熱し、強い頭痛が起こったりする。
「こう言っていた」と湯澤さんを振り返って加藤さんが言う。
「俺はそんな説明したことないぜ?おまけに脳科学なんて専門外だ」と湯澤さん。
「なんとなく、それは2010年のことだったような気がする。場所は・・・KEKよ!」
「そんなバカな!今は2008年、2年後のことだよ?」
「加藤くん、もう一度、整理しよう。その1978年に起こった、キミがは20才で、宮部くんとどうなったか、日時、できれば時刻まで、詳しく、説明できるか?一人一人に聞いて整理してみよう」と小平先生が加藤さんに聞いた。
「日時、時刻は鮮明にハッキリと覚えています。何があったのかも・・・でも、これは・・・ねえ、明彦、じゃなかった、宮部くん、あなた、私が知っていることをあなたも知っているの?この話を詳しくしていいの?」
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