第4話 量子脳理論 改訂版
2008年9月18日(木)
アトラス
私たちは、アイーシャの運転するSUVで、アトラス搬入口に向かった。アイーシャに青色のヘルメットを渡された。
大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は直径8.6キロ。周長は27キロでほぼ山手線と同じ長さだ。深さ106メートルの地下に設置されている。LHCの円周の途中に設置されているアトラスへは、搬入口の横のサービスエレベーターで降りていく。
106メートルと言われてもイメージができない。日本の地下鉄のうち、地上から最も深い場所にある駅は都営地下鉄大江戸線の六本木駅で、ホームが地下42.3mの深さにある。エスカレーターで降りると猛烈に長いのを3回乗り換える。3分半くらいかかる。つまり、もし、LHCの深さなら7~8基のエスカレーターで8~9分かかるという深さ。もちろんエスカレーターなどない。
六本木駅よりも2.5倍深い場所に、大型ハドロン衝突型加速器が山手線並の27キロにわたって設置されているのだ。気が遠くなる。
トンネルの中は自転車で移動するそうだ。もちろん、山手線の長さだから、途中のサービスステーション間を移動する程度。映画のターミネーター3で、ターミネーターT-Xが軍事基地のシンクロトロンの磁力に吸い付けられるシーンがあるが、あのシンクロトロンはせいぜい直径が数百メートルだろう。セルンのLHCはその数十倍の大きさなのだ。
私は、火、水、木曜日と山手線並のセルンのステーションを回って、106メートルの地下に降り、宮部さんと湯澤さんが各種装置を調べるのに同行した。もちろん、各種装置の調査など記事にして雑誌に掲載しても専門過ぎて誰も読むはずもない。時々、別行動でセルンのスタッフにもインタビューをした。
宮部さんと湯澤さんは、主に日本の供与で制作されたパーツを確認していく。文科省の依頼事項だから。アトラス本体も半分くらい日本製で出来ている。しかし、この取材はキツイ。セルンの大型ハドロン衝突型加速器と各ステーションに取材する人たちが散らばっていて、山手線みたいな場所をグルグルと回らなければいけないのだ。宮部さんと湯澤さんは、巨大な装置によじ登ったりしていて、ロッククライミングをしているようだ。
セルン、日本語では、欧州合同原子核研究機関は、ヨーロッパの機関だ。創設国は、スイス、 フランス、 ドイツ、 イタリア、 イギリス、 ギリシャ、 スウェーデン、 オランダ、 ノルウェー、 ベルギー、 デンマーク、 ユーゴスラビアだ。C・E・R・Nは、フランス語の『Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire』の頭文字に由来する。意味は、なんてことはない、「欧州核研究所設立準備理事会」。英語では『The European Organization for Nuclear Research』。でも、意味はともかく、頭文字を合わせた『セルン』という語感がこの組織にはしっくりくる。何か、自由でギリシャのアカデミアを思わす、なぁ~んて雑誌に書くのがコツだ。
でも、研究しているのは素粒子物理学でしょう?なんで『ニューク』を入れたんでしょう?謎でした。実は、『Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire』は開設準備の時の団体名称(準備団体だから既に解散)で、別名称の『欧州素粒子研究機構(ELPP、European Laboratory for Particle Physics)』に変えればいいんだけど、E・L・P・Pってダサい、と私のように考えた人がいたんでしょうね。だから、セルン、CERNをそのまま踏襲している。
セルンはヨーロッパの機関だが、日米を外して、こんな巨大プロジェクトが完遂できない。メイン設備である大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は、ビーム衝突点付近に使用される強収束超伝導四極電磁石(舌噛みそうだが)の開発・製作はアメリカと日本が協力して分担している。
日本側の開発は主として宮部さんの所属する高エネルギー加速器研究機構(KEK、この短縮名称はダサい!)で行われ、超伝導・低温工学センター、機械工学センター、加速器研究施設、素粒子原子核研究所からの開発メンバーが協力して実施した。LHCには多くの超電導磁石が使用されているが、その中で、衝突点用強収束四極磁石は性能要求が数桁高い。ここで、『215T/mの強磁場勾配を直径70 mmの口径内に発生する事』なんてペロッと書いても良いのだが、一般向け科学雑誌で『テラ per メートル』なんて書くと単位の説明をしないといけなくなり、制約のある誌面を圧迫するのだ。詳しく知りたきゃ、論文を読めば良い。
宮部さんと湯澤さんとは別行動で、セルンスタッフの素粒子物理学者に取材して、島津さんとアイーシャさんのオフィスに戻ってきた。このオフィスは居心地がいい。それに、アトラス搬入口も近くにあるのだ。
量子脳理論
「お帰りぃ~」とアイーシャが日本語で言う。「ちょうど紅茶を淹れたのよ。お飲みなさい」とマグカップを渡された。彼女の故国のセイロンのウバ茶という紅茶。スリランカ式で甘くて、疲れた体にはピッタリの飲み物だ。
「ねえ、アイーシャ、昨日の夕食の後、湯澤さんと親しげにお話していたけど、彼、プレイボーイだよ。宮部さんと違うよ」と余計なことを言ってしまった。告げ口女だな。
「え?レイコちゃん、研一を狙ってるの?じゃ~あ、競争しちゃおうかな?」
「狙ってません!」
「ウソよぉ。昨日の夜は、研一と量子脳理論の話をしていただけ」
「量子脳理論??」
「そう。脳のマクロスケールでの振舞いや意識が、その意識・知性・思念の持つ量子力学的な性質が深く関わっているとする考え方なの」
「理解できませんが・・・」
「仮説よ、仮説。学会からは認知されていない。意識というものの基本構成単位としての属性が、素粒子各々に付随しているんじゃないか?という考え方に基づいていて、波動関数の収斂において、意識の基本的構成単位も同時に組み合わされ、生物が有する高度な意識を生じる、としている。その一つの理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフが言っているのは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。その意識はニューロンを単位として生じていなくて、量子過程が起こりやすい構造から生じる」
「・・・」
「難しいわね。そうだなあ、私の国のスリランカは、大部分が小乗仏教徒で、生まれ変わり、リーインカーネーション、輪廻転生を信じている。私もそう。死後の世界もあると思ってる。臨死体験ってあるでしょ?死にかけて、あの世を見て、また生き返ってきたという体験。ペンローズ=ハメロフは、脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質で、重力・空間・時間にとわれない性質を持つ。通常は脳に納まっているが体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける、または、別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない、と言っているの。仏教徒の私にはシックリくるのよ。たとえ、証明されていなくてもね」
「・・・メモして、じっくりあとから調べてみます」
「面白いわよ。でも、人間の意識・知性・思念はどういう仕組になっているのか、まだ誰も証明していないの。それが素粒子、量子力学に絡んでいる、なんて考えるとワクワクしちゃう。昨日の夜は、研一とはその話をしていて、盛り上がったのよ。あ!それで、今度、デートしないか?とは聞かれたわ」
「やっぱり!」
「でもね、レイコ、私が思うに、この宇宙は一つじゃない、マルチバースで構成されていて、別のユニバースには、私と似た存在がいる。量子脳理論なら、そういう存在との記憶がなんらかの拍子で転送されちゃう、なんて思えてくるのよ。そして、宇宙には、実体を持たない、純粋知性みたいな、意識・知性・思念だけの存在もいるんじゃないかと思えてくる。ドキドキしない?別の宇宙の自分に会ってみたい」と少女マンガのキラキラ眼で、アラフォーの南アジア美人は言う。やっぱり、私たち、オタクかも。こりゃ、結婚できないね?
「あ!ところで、今晩のご予定は?」とアイーシャさんが聞く。
「これといってありません。セルンを見学してまわろうかな?と思ってますけど。もっとあの半球状の『Globe of Science and Innovation、ビジターセンター』も見てみたいの」と私。
「あれはいつでも見られるわ。レイコ、あのね、私と洋子が借りているコテージで7時くらいからバーベキューをしようと思うんだけど、もしよかったら、みなさん、いかがかしら」
「あ~、それ、いいですね。図々しくご招待にあずかろうかしら?」
「明彦と研一にも聞いてみてちょうだい」
「ホテルに戻ったら、二人に聞いてみます」
ホテルに戻って、宮部さんと湯澤さんに予定を聞いて、アイーシャさんのバーベキューの話をした。「おい、明彦、ご招待にあずろうじゃないか?免税店で買ったグレンフィディックがいっぱいあるし。麗子ちゃんもいいよね?」と湯澤さん。アイーシャさんと仲良くしたい湯澤さんにとって、私はお邪魔じゃないんだろうか?でも、頷いた。
島津さんとアイーシャさんのコテージに行った。日本からお客さんがたくさん来ていた。島津さんもアイーシャさんも何も言ってなかった。サプライズ?日本の物理界で名のしれた人たちだった。
カミオカンデでニュートリノの研究をしている東京大学宇宙線研究所の小平一平教授と加藤恵美博士。宮部さんと同僚の高エネルギー加速器研究機構(KEK)の森絵美博士の三人が先にコテージにいた。
小平教授が宮部さんと湯澤さんに「おまえら、文科省にうまく取り込んで、省予算で出張を組みやがったな。おまけに、担当は洋子にアイーシャときたもんだ。さらに、こんな可愛いマスコミの人まで一緒。お前らだけにいい目はみせんよ。わしらも、明日のLHCの5テラ電子ボルトの磁石励磁試験を見学させろ!と大学とKEKにねじ込んだんだ。どうだ?メグミと絵美、ふたりの美人も連れてきたぞ。美人が5人。ハレムだな、ここは」と言う。
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