第1話

菫(すみれ)は昭和19年に産まれた。西暦は1944年で終戦の前年だが、西暦では覚えていない。息子が誕生日の日付を訊ねた時、西暦では答えられなかったから元号でしか覚えていない。という事実を初めて自覚した。

終戦直後の日本の教育は酷いもので、特に田舎では倫理や道徳を教えてくれる人は菫の周りにはいなかった。昭和20年代生まれの児童、生徒の道徳はここでは無いに等しかった。

菫は自分の幼年期を他人に話すことはなかった。それどころか自分の事を他人が話すのを嫌がったし、家族にさえ話さなかった。例えば家族が「母さんは魚卵が好きだね」と言うと、菫は「わたし、魚卵好きかな?どうして?」等と聞き返したり、ある家で保湿機を使っていて「この保湿機、うちで使っているのと同じだ」と言うと、「うるさい、女みたいにペラペラ喋るもんじゃねえ」と言ったり、人にどう見られているかを指摘されるのさえ嫌がった。魚卵は菫の大好物だったにもかかわらずにもだ。そして風呂嫌い、脇毛も生やしていた。誰も脇毛や脛毛を剃るなんて教えてくれなかったし、知ったところで剃るものか、と思っていた。一言で言えば天邪鬼だ。瞬間湯沸かし器みたいな

一度怒ると何処だろうと相手に怒鳴ったったという訳ではなく、分別があって相手を見て文句を言った。それに自分の事を他人に話されるのを嫌いだったのは、今の自分の自信のなさだったからだろう。

それでも菫は女子高校を卒業して、地元の大手の地方銀行の内定をもらった。自分の容姿は窓口係になったのだから、器量は良い方だと分かった。

四つ下の妹の時雨(しぐれ)とは顔は似ていなかったが、二人とも美人だと言われていたから、菫も容姿についてのコンプレックスはなかった。

菫が女子高校を卒業すると、しばらくして癌で入院していた父の佐藤喜実次(きみじ)が亡くなった。

銀行に勤める筈だったが、家業の床屋になる為に渋々理髪の専門学校に入って、理髪師の免許を取った。弟子たちも数人いたが、姉妹のどちらが婿養子を迎えて家業を継いでもらうのが菫と時雨姉妹の母のよしこの目算だった。それは菫の役割になった。その事が気に食わなかった菫だったが、母の願いに抗う事は出来ずに従った。後にそのことが火種となって母との関係は燻り続けた。

その後、よしこは佐藤家に迎え入れる婿養子の理髪師を探していた。良い見合い相手はそれほど簡単には見つからなかったが、そのうち婿養子になる相手を探して四方八方手を伸ばしていたよしこに吉報は届いた。

東京にちょうど(当時の徒弟制度でまだ丁稚奉公のような形で働いていた)修行中の藤原義窪(よしくぼ)という男で、当時人気の流行歌手の西郷輝彦似のいい男だった。しかも、七人兄弟の下から二番目で婿養子にうってつけの人物だった。

菫は見合い相手の写真を見て。一目で気に入った。自分に相応しい彼の写真をとても喜んで見た。

話しは順調に進んだ。菫は東京で修行中の吉窪の写真を見ているといい気分になった。彼との生活を想像している時が喜びだった。

そして彼と文通するのが楽しみになった。ほとんど一方的にそれでも慎み深く菫は手紙を送り続けた。近況などを書いて送った。菫は専ら文学少女だったので、何かを書くのが楽しかった。そして東京の藤原吉窪に何回か会った。こちらから東京にに菫が行ったり、吉窪がこちらに来ることもあった。菫は吉窪をひと目見た時から気に入った。口数の少ない男で学はなかったが、肌感が合った。笑顔も素敵だったし、菫が身近に知っている男性は父の喜実次くらいで喜実次のように背が低くなく、自分が吉窪を見上げて喋るのが頼もしくて好感を持った。

しかし、家業には興味も失せて理髪師の仕事はできるだけサボっていた。何しろ自営業で暴力的な父も亡くなり、いなくなった。父の喜実次は母のよしこを普段から罵倒して時には暴力も振るっていて、人前でもよしこを馬鹿にしていた。それを見ていた菫もよしこを内心軽蔑していた。よしこは田舎暮らしで、そこから早く抜け出したかった。地方の都市への憧れから、結婚式まで会ったこともなかった佐藤喜美次を相手てとして結婚した。だから結婚相手の性格も知らずに籍に入った。よしこの夫の喜実次は酒こそ飲めなかったが、突然怒り出したりするいわゆる瞬間湯沸かし器の様な性質だった。特に姑はいなかったから耐えられたが、よしこには喜美次の相手以外の自分の人生を思い描けなかった。いびり倒されていた結婚生活はよしこの夫が早く亡くなったことで終わった。よしこは内心ほっとしていた。夫が死んでも涙も出なかった。悲しみよりも解放感を覚えていた。年で終戦の前年だが、西暦では覚えていない。息子が誕生日の日付を訊ねた時、西暦では答えられなかったから元号でしか覚えていない。という事実を初めて自覚した。

終戦直後の日本の教育は酷いもので、特に田舎では倫理や道徳を教えてくれる人は菫の周りにはいなかった。昭和20年代生まれの児童、生徒の道徳はここでは無いに等しかった。

菫は自分の幼年期を他人に話すことはなかった。それどころか自分の事を他人が話すのを嫌がったし、家族にさえ話さなかった。例えば家族が「母さんは魚卵が好きだね」と言うと、菫は「わたし、魚卵好きかな?どうして?」等と聞き返したり、ある家で保湿機を使っていて「この保湿機、うちで使っているのと同じだ」と言うと、「うるさい、女みたいにペラペラ喋るもんじゃねえ」と言ったり、人にどう見られているかを指摘されるのさえ嫌がった。魚卵は菫の大好物だったにもかかわらずにもだ。そして風呂嫌い、脇毛も生やしていた。誰も脇毛や脛毛を剃るなんて教えてくれなかったし、知ったところで剃るものか、と思っていた。一言で言えば天邪鬼だ。瞬間湯沸かし器みたいな

一度怒ると何処だろうと相手に怒鳴ったったという訳ではなく、分別があって相手を見て文句を言った。それに自分の事を他人に話されるのを嫌いだったのは、今の自分の自信のなさだったからだろう。

それでも菫は女子高校を卒業して、地元の大手の地方銀行の内定をもらった。自分の容姿は窓口係になったのだから、器量は良い方だと分かった。

四つ下の妹の時雨(しぐれ)とは顔は似ていなかったが、二人とも美人だと言われていたから、菫も容姿についてのコンプレックスはなかった。

菫が女子高校を卒業すると、しばらくして癌で入院していた父の佐藤喜実次(きみじ)が亡くなった。

銀行に勤める筈だったが、家業の床屋になる為に渋々理髪の専門学校に入って、理髪師の免許を取った。弟子たちも数人いたが、姉妹のどちらが婿養子を迎えて家業を継いでもらうのが菫と時雨姉妹の母のよしこの目算だった。それは菫の役割になった。その事が気に食わなかった菫だったが、母の願いに抗う事は出来ずに従った。後にそのことが火種となって母との関係は燻り続けた。

その後、よしこは佐藤家に迎え入れる婿養子の理髪師を探していた。良い見合い相手はそれほど簡単には見つからなかったが、そのうち婿養子になる相手を探して四方八方手を伸ばしていたよしこに吉報は届いた。

東京にちょうど(当時の徒弟制度でまだ丁稚奉公のような形で働いていた)修行中の藤原義窪(よしくぼ)という男で、当時人気の流行歌手の西郷輝彦似のいい男だった。しかも、七人兄弟の下から二番目で婿養子にうってつけの人物だった。

菫は見合い相手の写真を見て。一目で気に入った。自分に相応しい彼の写真をとても喜んで見た。

話しは順調に進んだ。菫は東京で修行中の吉窪の写真を見ているといい気分になった。彼との生活を想像している時が喜びだった。

そして彼と文通するのが楽しみになった。ほとんど一方的にそれでも慎み深く菫は手紙を送り続けた。近況などを書いて送った。菫は専ら文学少女だったので、何かを書くのが楽しかった。そして東京の藤原吉窪に何回か会った。こちらから東京にに菫が行ったり、吉窪がこちらに来ることもあった。菫は吉窪をひと目見た時から気に入った。口数の少ない男で学はなかったが、肌感が合った。笑顔も素敵だったし、菫が身近に知っている男性は父の喜実次くらいで喜実次のように背が低くなく、自分が吉窪を見上げて喋るのが頼もしくて好感を持った。

しかし、家業には興味も失せて理髪師の仕事はできるだけサボっていた。何しろ自営業で暴力的な父も亡くなり、いなくなった。父の喜実次は母のよしこを普段から罵倒して時には暴力も振るっていて、人前でもよしこを馬鹿にしていた。それを見ていた菫もよしこを内心軽蔑していた。よしこは田舎暮らしで、そこから早く抜け出したかった。地方の都市への憧れから、結婚式まで会ったこともなかった佐藤喜美次を相手てとして結婚した。だから結婚相手の性格も知らずに籍に入った。よしこの夫の喜実次は酒こそ飲めなかったが、突然怒り出したりするいわゆる瞬間湯沸かし器の様な性質だった。特に姑はいなかったから耐えられたが、よしこには喜美次の相手以外の自分の人生を思い描けなかった。いびり倒されていた結婚生活はよしこの夫が早く亡くなったことで終わった。よしこは内心ほっとしていた。夫が死んでも涙も出なかった。悲しみよりも解放感を覚えていた。

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