第31話 薩摩、沈黙す
京の朝は静かだった。
御所の東を流れる鴨川には、うっすらと氷が張り、葦の間に宿った雪が、まだ解けきらずに残っていた。遠く東山を越えて差し込む朝陽は、白く染まった都の町並みに、わずかな金の筋を落としていた。
二条城の一角、北の丸。
徳川家康は縁先に腰掛けて、冷えた茶をすすっていた。膝の上には、昨夜届いたばかりの書状。中山忠能からの報告である。朝廷内部のいくつかの家が、徳川の態度を“穏健”と受け取った、という文言がそこにはあった。
「……まだ、間に合うかもしれぬな」
家康は低く呟いたが、その声は冬の空気に溶けていった。
雪は、止んでいた。だが空は、まだ灰色に閉ざされている。
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一方、薩摩藩邸。大仏前屋敷。
西郷吉之助は、庭に積もった雪の中に足を踏み入れたまま、じっと動かずにいた。背に羽織った袷(あわせ)の裾には、雪が降りかかっている。
「何も、申されませぬか?」
背後で控えていた大久保利通が問うた。だが吉之助は応えない。
「徳川公より、再び朝廷へ使者が出されたとのこと。中山家、三条家に加え、久我家までもが“会談やぶさかにあらず”と申しております」
それでも、吉之助は雪を踏まず、前にも進まなかった。
やがて、彼はぽつりと口を開いた。
「……江戸に火をつけて、笑って済む時代ではなかと。今は、民の腹が鳴る時代じゃ。ならば、我らが成すべきは、刀を抜くことではなか」
利通は、目を伏せた。薩摩がここで刀を収めれば、倒幕の勢いは削がれる。それは誰の目にも明らかだった。
「されど……そのままでは、徳川の治世が続きます」
吉之助は、首を横に振った。
「家康どんは、過去より来た人間かもしれん。だが、今この都で息をし、民と対し、朝廷に礼を尽くしおる。ならば、わしらと変わらん“今”の者じゃ」
空はますます低く、白雲が屋敷の屋根をかすめて流れていく。
やがて、吉之助は踵を返し、部屋に戻った。
「利通。しばらく、“沈黙”で応じよう。今は、相手の“志”を見極める時じゃ」
その声は、深く、重かった。
まるで、薩摩という巨きな山が、風雪の中で動かずにいるような静けさであった。
**
同じ頃――。
御所にほど近い、中山家の屋敷。
本多正信は、夜更けにひとり、公家たちとの会談のために文机に向かっていた。硯の墨は凍えそうなほど冷たく、筆の先も思うように進まない。
それでも、彼は書く。
「西郷殿より、いまだ返答なし。
しかしながら、その沈黙こそ、誠意の表れと存ずる。
我らが急ぎすぎてはなりませぬ。
今は、雪の下に芽吹く“志”を信じるほかなし」
文を終えると、正信はそっと障子を開けた。
庭に立つ一本の梅が、雪の枝の下に、小さくも赤い蕾を結んでいた。
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