第30話 雪下の決断

洛中を覆う雪は、一夜にして厚くなった。町人たちは雪かきをしながら、ひそひそと噂を交わしている。


「徳川の殿様が、御所に上がったらしかばい」


「ほんなこつ?まるで、秀吉公の時分ごたるな」


その声は、時代の境界をまたいで響いていた。だが誰一人、その実相を知らぬ。


**


二条城。


井伊直政が、冷気をまとって本丸に戻った。袴の裾にまだ雪がついていた。


「殿。公家方の一部に、動きがございます。中山忠能殿に続き、正親町三条殿が“徳川寄り”と見なされ始めておりまする」


家康は頷きつつも、筆を止めなかった。


「風が吹いたな。風は、誰かが起こすものではない。流れを読む者が、自ら帆を広げる。それが、朝廷というものよ」


「……では、このまま政(まつりごと)を掌に?」


家康はふと、硯を見下ろしながら小さく笑った。


「のう、直政。“天下を取る”というのは、かように面倒なものか」


**


一方、薩摩藩邸。


西郷吉之助は、仏間にこもり、ただ無言で香を焚いていた。


「家康どんは、逃げぬようじゃ」


背後から声をかけたのは、大久保利通である。


「御所に自ら出向き、公家の心を掴んでおります」


「ほんなら、わしらも“心”を出すほかなか。血の雨を降らせるのではなく、理(ことわり)で戦うのじゃ」


吉之助の眼差しに、一瞬、かつて西南の地にいた若き頃の“猛き魂”が宿った。


**


その夜――。


徳川家康は、榊原康政とふたり、庭の雪を踏んでいた。言葉少なく、ただ庭石の影を歩いていた。


「康政よ」


「は」


「もし、我らが戦わずして泰平を得たなら……儂は、徳川の旗を降ろしてもよい」


康政の足が止まる。


「……いかがいうことで?」


「天下とは、旗印ではない。人の和と秩序が保たれ、民が年貢を納め、子を育て、老いても飢えぬ世。儂が求めるのは、それのみよ」


康政は、ただ頭を垂れた。


この男こそ、戦国をくぐり抜けた“狸”でありながら、最後には“理想”を選ばんとする者であることを、心で知った。


**


夜更け。御所の一角にて、内密の書状がしたためられる。


それは、中山忠能から三条実美への書状であった。


「徳川公、誠に穏やかな政を望み、決して武威をもって朝廷を脅かす意なし。

いま一度、会して話し合うべき時にて候――」


そして、雪はまだ降り続けていた。

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