第四章
初春の波紋
穏やかな、でも少し焦燥感に煽られる日々を送る毎日。――御影堂邸の窓から、外に白い花弁が散っているのが見える。もうすっかり3月も下旬だった。
「…桜、ちょっとずつ咲いてきましたね」
「ちょっと前なら桜の樹の下の死体になりに行ってきますとか言って出かけてそうだよね、この時期のお前」
「それは正直諦めてないです、その前に災厄……レーテーさんをどうにかするのが先決でもあり…でも外に出ないことにはエンカはせず、しかしまだまだ準備不足という…。」
いつものヒュプノスの軽口。…にも、いい反応をなかなか返せない。煮詰まってきているのかもしれない。
うーん、と悩んでいると、後ろで事件の記事を読んでいたタナトスから声が掛かる。
「…ずっと家の中にいて外に出ていないだろう。たまには外に出てもいいんじゃないのか。」
ベッドでべしょりと身体を横たえていたオネイロスもそれに賛同して、ゆらりと片手を上げる。
「それ、おれも賛成。にいちゃんたちが行くなら歩くのまだ慣れてないから浮遊してふよふよついていきたい。重力に負ける…。」
「ん、今日はそういう感じ〜?そっか。じゃあ全員で出かけちゃお。いちお、傘も持ってきなよ。はいこれ、お前の分」
ヒュプノスがわたしに手渡してきた傘は――
薄いビニールが淡く虹色に光っている、星形のマークとユニコーンのあしらわれた、傘の先端…石突きも月の形をした如何にも女児用といった傘だった。ただ、そのサイズは大人のものだ。
「なんかめちゃくちゃ幼稚園児の傘をキラッキラにしたみたいな傘ですね、なんですかこれは。またユニコーンだ。わたしのことガキだと思ってるでしょ。思ってましたね、はい」
わたしのその反応を見て、小馬鹿にしたような顔で笑うヒュプノス。と、もう慣れっこという様子でそれを見ているオネイロス。
「実際ガキだろ。あーあ、かわいい〜って喜んでくれないんだぁ。睡魔さんのお手製なのに」
「また訳わかんないハンドメイドしてるの、にいちゃん。でもその傘、おれも欲しいな…かわいい」
タナトスがヒュプノスから黒い蝙蝠傘を受け取ってふー、と息をつく。
「……外を歩く時は、どんなに屋台が繁盛しているだとかあちらこちらでイベントがあったとしてもはぐれないようにな。お前達はしっかりしているが、好奇心が旺盛だから…。」
「団体行動ですね。学校とかもこんな感じなんだろうな…あんまし行けなかったですけど。」
「共学だとしても今男女比率と年齢差ヤバくない?男3人と女1人。年齢的には教員2人、3年の先輩1人、幼稚園児1人だよ」
「学校だって言ってるのにわたしのこと幼稚園児って言うのほんとガキ扱いが過ぎますってば」
そんな軽口を叩き合いながら外靴を履いて傘を片手に、鍵をポケットに仕舞って歩き出す。
穏やかな陽気に、春嵐が過ぎ去ったあとの雨の匂いが心地よかった。
黒が強いグレーの路面に何個かできている陽光で煌めいた水たまりの中、桜の花びらが沈んでいる。そこを今、4人で歩いている。…いや、1人は浮いている。
「…田舎だからほんっとに人がいませんね、インターネットの身内鯖で通話繋いで歩いて外カメで歩いてもいいくらいです」
それを聞いたオネイロスがふわ、と笑う。
「そういうの嬉しいね、その映像を通して外に連れ出してもらえた気持ちになれるから…。今度外に出たらおれにやって、シオン」
「SNSアカウント全般、夢境さんはちゃんと持ってますもんね。交換しますか今度」
「うん、うれしい。ありがとね」
その会話が聞こえているだろうタナトスが、オネイロスと――遅れてわたしの頭をぎこちない動作で撫でる。
「わ、どうしたのにいちゃん。急だね」
「…一瞬かなりビビりました。えっ、愛?」
「…すまない、私にもよくわからないんだが急にこうしたくなって……驚かせてしまったな」
「お兄ちゃん、ほんと嬉しそうでよかった〜!…こういう平和ボケしたのもたまにはいいかも」
水たまりに浮いた桜と、桜の花弁でできた絨毯が目に美しい。わたしがふふ、と笑って水たまりに浮いた花弁を眺めていると――
――その白い花弁の一つが、鮮やかな黄色に染まった。
「………!」
それを見て一気にぞわ、と怖気立つ。
敏感になっているのかもしれないが、そうだ、ここも……水たまりも水場と言えば水場なのだ。レーテーは見ている。干渉せずに、わたし達のことを見ている。
早く言わなければ、と思ったがわたしが声を発したらきっとこの黄色が消えてしまう気がした。そうして思案して声を発さないうちに、じわじわと黄色の花弁が動いて広がっていく。…どうしよう、どうしたら。わたしが、なんとかしなきゃいけないのに。
その後ろで、小さく息を吸う音がした。
「……」
ざくり。
「……え。」
ごく小さな切断音の後に、黄色の花弁が真っ二つに裂けて水たまりの中に沈んでいた。
タナトスがぽつり、と言葉を発する。
「今、精神と肉体の繋がりを断った……これで、この眷属がレーテーの通信機として機能することは無くせただろう。」
「いや〜適材適所!ボクだと丸ごと焼き尽くしちゃうからね、私怨で♡」
「……マジで怖かった。これ、回収はするけど家の中には持ち込まないようにしようね」
「…小娘。お前が思うよりずっと、私達は強いからな。だからちゃんと頼りなさい」
タナトスにそう言われて、わたしは。
「……こわかった…。」
あまり声は出さなかったものの、緊張の糸が切れてボロボロ泣いたので一斉にあやされた。本当に、子供になったみたいだった。
本当に、ヒュプノスの言う通りわたしはまだまだ子供なんだなと思って、4人でゆっくり歩いて帰った。
――苦しかった。生活もままならない、生きる楽しみとする明るい未来もない。そんな毎日が連続することが耐えきれなかった。
苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて――それで、川の畔で死のうとした。その時だった。
「…あらあら、まあまあ。どうしたの?そんなに酷い顔をして…。」
幼い子供特有の高い声、でも少しばかり柔らかくてたおやかな印象を受ける話し方。その話し声の主が、すぐ近くにいる。
もう、何でもよかった。話を聞いてくれるなら、子供だろうが大人だろうが化け物だろうが。
「苦しくて、生きてられなくて。頭の中がずっとぐちゃぐちゃで気持ち悪くて捨てたくて…」
相手はしばらく俺の話を聞くためなのか、沈黙していた。それから、数分。いや、数十分は経ったかもしれない。
その聞き手がこちらの足に手を沿わせてきた。
その姿はというと――鮮やかなターコイズブルーの長髪に桃色…薄めたマゼンタの瞳をした幼女だった。黄色と白のロリータ服を着て、頭にも花のあしらわれたヘッドドレスが付いている。
…髪色や瞳の色も人間離れしていたが、何より彼女を人間でないものとして位置づけるのはその耳元についた黄色い鰭と左頬の鱗だった。
「………」
こっちが呆気にとられて言葉を発せないでいると、その奇怪な姿をした幼女はふわりと微笑んだ。
「ねえ、わたくしね、あなたを助けたいの。話を聞く限りならあなたは人の為に頑張ってきてその結果あなただけが傷付いてる。そんなのって、不平等じゃない。少しでも、あなたの気持ちが軽くなるお手伝いがしたいわ」
幼女とは思えない語り口調で話しかけてくる相手に圧倒されながら、恐る恐る彼女に問う。
「手伝い…?」
「そう、お手伝い。…あなたの要らない記憶、わたくしが食べてあげる。」
それは、あのときは何より救いだった。でも、今思えばあれは破滅だった。
「わたくしの名前はレーテー。よろしくね、かわいい人!」
目を開けるだけ開いてこちらを覗き込む彼女。
この毒婦に、通行人Aたる俺は全てをめちゃくちゃにされたのだ。
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