弐九ノ舞


 

 


 ――無頼派……

 黒亀5級は声は出さず、首を傾げる程度の礼で、すぐに足を崩しあぐらを組む。

 俺は一呼吸いれて、初手7六歩と指して角道を開く。ほぼノータイムで黒亀5級も角道を開き、俺は8六飛車と飛ぶ。 

「振り飛車かよ……」

 と、呟くような声音が響いた。嘲るような、侮蔑したような言い分だった。

 ――振り飛車殲滅主義者か?

 アマでもプロでも振り飛車を心底嫌う居飛車党の一部を揶揄して、振り飛車殲滅主義者と呼ぶ俗称があるが、この口振りだとこの男は根っからの主義者かもしれない。

 ――振り飛車を舐めるなよ

 俺は角を飛ばし交換を行う。

「角交換?」と、黒亀は鼻で笑うと角を交換に応じる。

 互いの駒台に角が載り、互いノータイムで駒組を進める。冷静にならなければならないということは理解していた。が、振り飛車殲滅主義者に舐められている、というよりバカにされたような態度が、知らず知らず俺の心の中に怒りを産み出していた。

 軽く囲いを終えると駒がぶつかり始める。黒亀五級の指し回しは回しは意表を突かれるというか、常道の筋ではないものの結果的に常道の狙いにたどり着くという読みにくい奇手が多かった。狙いは読めるが、その結果にたどり着くまでのアプローチが常道ではない。

 序盤はノータイムだったものの、黒亀五級の手筋を読み始めると少しずつ持ち時間の差が広がり始める。逆に黒亀はこちらの手筋を読まないかのように、自由に「自分の指したいように指している」感じだった。

 ――なんだ? この指し回しは?

 こんな感覚の将棋を今まで指したことがない、見たことがない。深く考えずにまるで、ここに指した方が良さそう、といった感じで指している。が、決して読んでいないわけでない、俺の指し筋もこんな感じでくるだろうということを読んでの動きだ。

 これが理論的に筋立て指されたものならば、恐ろしく柔軟な将棋観を持っている。しかし、感覚で指しているのならば……信じられない。

 ――こんな将棋がナチュラルに指せるのかよ?

 衝撃というしかなかった。少なくとも今自分が築いていた将棋観というものを少なからず根底から揺るがされたような衝撃だ。ソフト将棋、将棋道場、ネット将棋、アマチュア大会、今まで数えきれないほどの対局をこなしてきたが、俺の経験の中で、これほど将棋観を揺るがされた棋風はない。

 心中を覆っていた、振り飛車殲滅主義者への怒りの火は鎮火し、衝撃と実力の差というものが汚泥のように心中に堆積していく感覚があった。

 ――才能?

 そう、これは修練を積んだからと言って身に付く類いのものではない。明らかに自然に生まれ持った自身の世界観の中で構築された棋風。一体この男盤上の風景はどう見えているのか?

ぶつかりあう中盤、徐々に俺が押されていく。悪手という悪手は指していないというのに、追い詰められていく戦慄が俺の背に走る。

「もろいね、振り飛車はもう終わった戦法だろ?」

 本当に微かに聞こえる程度の声で俺に黒亀5級は囁く。

 振り飛車は終わってなどいない、しかし、だ。

 ――終わっているのは俺……か?

 黒島五級の攻めを受ける。が、この受けは単に延命措置を施しているに過ぎない。ただ詰みを避けるだけの苦しい受けだった。五里霧中の受け、大海原、敵の本隊がどこにいるのかもわからぬまま、無数に飛んでくるミサイルをただ迎撃しているだけの状態。

 ――こっちの迎撃ミサイルがなくなっちまう……

「手数稼ぎはもういいよ」と、あくびをしながら黒亀は呟く。

 ――美濃棺桶にっ、くそっ!

 敗勢を自覚する局面に突入した。これからの一手一手、俺は敗北を確かめる儀式を始めなければならない。

 悪手は指さなかった。が、この圧倒的な差はなんだ? 思い出王手すらできない、形作りさえ許さぬ怒濤の寄せ。

 小学生名人戦ベスト4、修行、一次試験全勝、俺の積み上げて来たものが崩れていく。この間、俺の原動力になり自信の根拠になった受けのイージスも事態を打開するどころか、迎撃ミサイルを発射するだけで、相手の本隊に反撃する余裕もきっかけもつくれなかった。そして煉獄の門の前に立つことはおろか、浮き足立ち集中を欠いた。

 奨励会とは、やはり修羅の集まりなのだ。俺はその事を軽視していた。

 ――何が、振り飛車をなめるな、だ……

 俺は振り飛車の底力を見せるどころか、ますます乏しめる結果になった。舐めていたのは完全に俺だ。

 立て直すことも、局面を混乱させる手も策もなく23手詰のカウントダウンが始まり、俺は抗う意思すら放棄せねばならなかった。

「参りました」

 持ち時間を使いきることもできず、しかも向こうは半分以上残っていた。

 黒亀五級はすぐに立ち上がると言った。「振り飛車の観想戦などやる必要性がない。居飛車ならともかくな」

 俺は何も言えずただ全ての感情を飲み込むけだった。

「まぁ、振り飛車なんぞ、美濃棺桶の中でもがいてなって感じだな」と、黒亀五級は嘲笑した。「奨励会試験ごときで着物着て、大層にしていると思えば、この程度とはな? 入れ込み過ぎで恥ずかしいよ、お前」

「……」

「お前の実力じゃ上には行けねぇよ、さっさと将棋止めろ。もっとも、居飛車ならそこそこいけるだろうが、今の時点で振り飛車使っている程度じゃお先が知れるな」

「黒亀5級、感想戦最中に関係のない私語は慎むように」と、試験官が声を発した

「幹事、関係のないことなんて言ってませんよ。全部関係のあることなんですからね。さて、例会一勝ありがとう。あと二戦も健闘してください、っと」

 俺を見下すような視線で眺め口角をあげると、駒も片すことなく俺の前から消えた。

 俺は無言のまま駒を片した。

 ここで狂ったように咆哮し生の感情を発散できればどんなに楽だろうか。悔しさに身を任せ咽び泣きたい衝動を堪える。

しかし、俺はどんな顔をしていただろうか? 悲痛に満ちた苦悶の表情だろうか? それとも怒髪天を突く表情だったか? それとも無表情だっただろうか?

 心中には悔と同居するかのように自身に対する静かな怒りが沈殿していた。なぜ、敗北したのか、それは誰のせいでもない、俺の力がないからこそ。黒亀五級にいいように言われるのも、嘲笑されるのも、すべて俺の未熟さが原因。そしてなにより許せないことは俺が負けることによって、俺の戦法の振り飛車が乏しめられることだ。

 ――今の俺では証明できない……

 しかし、いずれ証明する。いや、しなければならない、振り飛車の使い手として、振り飛車の底力をだ。

 負けたことに対する悔しさ、自分自身への不甲斐なさが怒りとなって脳を火照らせる。この苛立ちを放熱したい衝動に駆られる。いっそ盤を叩き割りたい。

 俺は静かに深く息を吸い、体内の中に揺らめく負の炎が鎮火するのを待つしかなかった。

 ――まだだ、まだ終わっちゃいない……

 呼吸を整え、加速する脈動を抑える。三回ほど繰り返したところで、対局室に声が響いた

「あ、負けました」

 微かに落ち着きはじめた鼓動が、その聞き慣れた声に反応し、鼓動が再び加速した。

 ――伏見がやられた……だと?

 俺の心が再び乱れる。あまりの演算量の多さに脳が飽和したかのような感覚だった。

――待て、たしか伏見の相手は……

 電脳戦士・田村だったはずだ。

 ――伏見をやった相手に俺は……

 あの伏見を下した男に俺は勝てるのだろうか? 強烈な不安と言い知れぬ恐怖。あのアマ大会不敗で鳴らした伏見でさえ簡単に黒星がつく。

 ――これが……奨励会の実力?

 負の炎の煽りを受け闘志の炎まで失いそうになっていることに気がついた。




 一局を終えた昼休み、結局俺は詰め込むだけの食事を水で流し込み、残り時間を全てつぎ込んで乱れた心を鎮めることに苦心した。

 休憩は受験生は赤城の間、奨励会員は蒼龍の間と対局者同士相部屋にならぬよう配慮されていた。受験生の中で、一勝した人物もいるのだろうが、皆、一様に黙々と持参した食事を口にし、雑談をするものはいなかった。伏見の姿はなくどうやら外にでているようだった。もっともアマの大会でもそうだったが、対局が始まるとお互い言葉を交わすことはない。 

 目を閉じても最悪の結果しか瞼の裏に写らない。俺はひたすら、乱れる思考の中で必死に「何も考えない」ことに徹した。「何考えない」ことを考えることで、短い昼休憩の間になん何とか次の対局に向かうだけの力は取り戻すことができた。

 盤の前に座り先程と同じように扇子と水を置く。

 しかし、心が完全に萎えてしまっていた。俺の振り飛車はやはり通じないのだろうか、次の相手は最先端の戦法、定跡を使いこなし、今や序列A級、いやタイトルホルダーまで打ち破るソフト将棋を用いて研究を重ね、電脳戦士の異名を持つ奨励会期待のホープだ。あの伏見を打ち負かした人が弱いわけなどない。

 確かに俺もソフト将棋で練習してきた経験はある。しかし、飽くまでも俺の棋力を形作る根本的な理念は、最新戦法でも、勿論ソフト研究から生まれた先進戦法で得たものでない。江戸から昭和後期に掛けて、現代将棋ではもう盤面に出てこないほどの古臭い将棋をひたすら並べ得た古臭い理念が骨格になっている。

 ――怖い……

 ここまで将棋で恐怖を感じたことはないほど、俺は怖かった。それは何に対する恐怖なのか? まさに俺の将棋、今まで積み重ねてきた振り飛車、すなわち俺の生きてきた全てが崩れていくような、そんな恐怖を感じたからだ。

 少し前に読んだ中国の古い歴史家司馬遷の名前を捩った、有名な歴史作家の戊辰戦争、特に北越戦争を舞台にした大作を思い出した。

 ――刀でガトリング砲に挑むようなものじゃないのか?

 太股に置いた手が微かに震えていた。体温が落ちたのか一瞬大きく体が震える。その肌寒さで俺は心細くなり、負の感情が覆われた思考の演算に意識を囚われていく。

 分速二百発という弾幕の中をたった一本の刀で挑むかのような、そんな近代装備と古代装備のような戦いになるのではないか。

 奥歯がカチカチとなる。気を緩めると怖さで失禁しそうだった。

 ――くそっ

 体を動かせば少しでも気が紛れるかと思い、俺は扇子に手を伸ばし微かに震える手で広げた。

 広げた白い扇には美しい毛筆の字が踊っていた。印刷されたものではなく、墨汁特有の艶が光に照らされ鈍く光る。

 ――涓滴……女流六段栗林杏樹……

 衣擦れの音がし、目の前に田村5級が最短、最小の動きで鎮座する。まるで、機械のような動きだ。

 田村5級は体があまり丈夫でないという話を聞いている。最小限の動作というのは、自分のエネルギーを無駄なことで消費したくないという意識から行われているように思えた。その意識は、やはり体にかける負担を少しでも軽くしたいという思いからのことであると容易に想像はできた。しかし、電脳戦士という異名の連想から効率と実績を優先する機械的な徹底した冷徹なマシーンのような印象を与えた。

 視線が交差すると互いに軽く挨拶をし、盤上に駒を並べ始める。並べる手つきでさえも効率を優先した工作ロボットのような動きだった。

 さっきまでの俺ならば田村5級の一挙一動に対して、ネガティブな解釈を行い終わりなき思索の渦に飲み込まれていたはずだ。しかし、今の俺の脳裏を過るのは、お師さんの揮毫した二つの文字だ。

 ――涓滴……

 俺は何度もその言葉を心の中で繰り返した。

 ――涓滴、涓滴か。

 俺は何度も心中で涓滴と呟いた。

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