拾八ノ舞

――ん……来栖女流と指してたんだよな……

 俺は布団の上で目覚めた。遠くで蝉が鳴く澱んだ声聞こえていた。遮蔽物を挟んだような曇った音だった。

 息を吸うと鉄分の血液の香りが漂う。四肢に鉛を括りつけたような怠さと、筋肉が断裂したような痛みがあった。おまけに頭の重く、体は日焼けしすぎた夏の日のように芯から熱い。

 ――前にも……確か

 同じだった。しかし、前と異なって眠気はあるものの、目を閉じていられないほどのものではなかった。

「お師さん……」

 隣には脇息にもたれ瞳を閉じるお師さんがいた。手には開いた扇子が握られていた。

 ――そうか、俺はまた鼻血を出して倒れたのか……

 微かにエアコンの稼働音が聞こえる。障子を通して青紫の光が部屋に射し込む。何か急に俺の中に不安が満ちていくようだった。

「起きたか? 具合はどうだ?」

 お師さんの声が聞こえ、俺は視線をお師さんに向ける。脇息に肘を置き、お師さんが頬杖を突く。「わたしも少し眠っていたようだ」

「体がだるいですけど……前よりはマシのようです」

「うむ、早めに声を掛けたのがよかったのだろう。しかし、もう少し早くにとめるべきだった」

「すいません」

「謝る必要はない……仕方ないことだ」と、お師さんは微笑んだ。

「俺は……僕は、また鼻血出して倒れたんですね?」

 お師さんは頷いた。

「前回も聞いたように、今までなかったのだな?」

 僅かに聞こえる程度の声だった。が、頭を動かすと鈍痛が走る今の俺にとっては、丁度よい刺激だった。

「はい」

「体は辛くないか?」

「はい、この間よりは……」

「ならばよい……休め」

 お師さんは、努めて穏やかな声で言った。

「……変な音が聞こえて」と、俺はお師さんにあの時の自分に起こった出来事を話し始めた。訳も分からぬ事態を理解して……欲しい、という気持ちが俺の口を動かした。お師さんなら何か知っているかもしれないという希望を持ってのことだった。お師さんは俺を咎めることなく、黙って俺の言葉を聞いていてくれた。

「全速力で走っている感じで息苦しく、心臓の鼓動が頭に響いて、頭蓋が破裂しそうなほど脳が膨れたように興奮した感じでした。眼球が膨張した感じが不快で汗が吹き出し……けど脳裏に駒の動きが、読みが次々と浮かんでくるんです。そして、それはいつしか、どういえばいいんですかね? 駒の動きを図形で指し示してくるんです。幾重にも図形が重なり、指すべき場所が視えてくるんです。まるで自分の力でない……なにか外部に仕向けられた感があって、鼻血出して倒れて……何か病気なんですか? 僕は?」

 お師さんは扇子を動かし、黙ったまま風を送る。

「体はつらくないか?」と、お師さんは再度尋ねた。

「はい……」と、だけ答えた。

 重苦しい疲労はあったが、この間のように眠気はなかった。むしろ今は、話をしていたかった。宵闇の寂しげな光のせいだろうか、弱っている俺の心のせいだろうか、今はお師さんの声が聞きたかった。

 しばし沈黙が続いた。俺はお師さんを眺めた。お師さんも俺と瞳を交差させ黙ったまま、時折気が付いたかのように扇子を動かした。

 やがて、扇子を折りたたみ、お師さんは一呼吸すると話始めた。

「貴殿はフローという言葉……心理状態というのかな? 聞いたことはあるか?」

 聞いたことのない話だ。俺は正直に知らないと声を出して答えた。

「ふむ……フロー、とは連続集中状態のことを指した……医学ではないな。心理学用語だ」

「心理学の言葉?」

 心理学とはメディアを通して聞くことはあるが、どういう意味なのだろう。俺のあの『状態』と関連があるのか。

「何かに集中するあまり一時間、二時間があっという間に経過している。このような体験は多々あるだろう? これが連続集中状態の『フロー』と呼ぶ。中でも特に集中力が高まった状態を『ゾーン』もしくは『ピークエクスペリエンス』と呼称する」

 連続集中状態という下りはよくあることだ。棋譜並べや詰将棋、それが対局時はより顕著に現れる。

「このゾーン、ピークエクスペリエンスというのは連続集中状態の中で突然、人外の感覚状態、もしくは常態外の身体状態になることを指している。

 具体的な体験例では野球選手やサッカー選手がボールが止まって見える、動きがスローに見える等だ。特にアスリートでの体験例が多く種目を問わず陸上選手、スピードスケート、レーシングドライバーやライダーにも多い……様々だ。

 特に超一流のアスリートは、この『ゾーン』を意識的に利用し、身体、精神のパフォーマンスを向上することができると言われている」

 俺はそんなことがあるのだろかと、疑問に感じた。が、確かにあの瞬間、脳の中心から後頭部にかけて、思考が圧縮されるように次々と読み筋が浮かんだ。全くもって自分の力を超えたような異質な力だった。

「先に述べた連続集中状態であるフロー。これは棋士、奨励会員は当然、アマ上段者ならば、誰しもが経験し身近な体験と言えるだろう」

「対局時は……連続して集中していられる時間が長いです」

 お師さんは頷く。「そうだ、まさしくあの状態がフローだ」

「じゃあ……ゾーンやピークエクスペリエンスは?」と、俺はフローの先にある状態を問う。

「……その先を多くを語る者はいない」

「つまり?」

「先に言ったようにフロー状態は、それなりの熟練者であるなら自在に集中状態に入れる。いい例が対局でな……」

 俺はお師さんの言葉を待った。

「いわゆるゾーン等の現象や言葉が広く社会認知される以前より、このゾーンについて、棋界では二つの認識について伝承があった」

「伝承?」

「そう二つの認識についての伝承だ」

 俺は唾液を飲み込んだ。

「伝承ではその二つを『菩提』、『煉獄』と呼んだ」

「菩提と……煉獄」

「菩提……仏教では悟りの意味とされるが……完全なる叡智という意味も持つ。

 そして煉獄はキリスト教の説でな。日本では黄泉、黄泉平坂の意と同義。天国と地獄の間にある浄化の世界と言われている」

「二種類ですか? ゾーンに二種類ある?」

 単に状態を指し示す言葉ではない、そんな意味のある言葉に思えた。

「そう、いわゆるゾーンの表出の仕方というのかな。残念ながら、わたしも伝承の域をでることは知らぬし、『片方』しか体験していないのでな、詳細を語れるほどの知識はない」と、お師さんは瞳を閉じて語った。

 お師さんは片方と言った。片方のことは実体験としてあるという意味だ。

「菩提と呼ぶ認識。かつてわたしが体験した認識だ。菩提の門までは今でも足を踏み入れることができる。が、門を開くことは難しく、今までの練習、棋戦、何千何百というあらゆる対局の中で菩提の門を開いたのはたったの五回だ」

 練習を入れた数千回の対局の中でたったの五回の体験。希少な体験だということか。

「菩提の門を開いた際、伝承にあるよう、人外の認識力を手に入れた。ほんの数秒間で恐るべき量の予測を瞬時で弾き出し、盤上のあらゆる可能性を知覚する。視え方は人それぞれのようだ。わたしの場合は、脳裏に棋譜が流れ、指し筋がぼんやりと光って見えたがね……同時に奇妙な高揚感と、まるで悟りを掴んだかに思える多幸感と快感……わたしはあの認識こそが涅槃寂静というものだろうと、そう実感した」

「涅槃寂静……」

 茶室に掲げられていたあの掛け軸。無常、無我を認識し煩悩を寂滅した者がたどり着く境地。

「神に等しき存在に近づいたと錯覚したよ。盤上という宙に未来を感じることができたのだからな。先人たちがこの認識を菩提と呼んでいたことに、納得もゆく」

「神と等しき存在……」

「比喩だよ」と、お師さんは笑う。「しかし、そう勘違いしてしまう。そして、人の欲求として……この時点で駄目なのだがね……その認識に至りたいと思ってしまうのだよ」

 お師さんは、少し寂しそうな表情を見せた。

「あの神々しい認識を掴んだ後、わたしは菩提の門を開くため、どのようにして菩提の門に近づくかを研究、修行してきた。が、神と邂逅できたのはたったの五回……いや五回もできたと言うべきだろう」

 その表情は神々しく、達成感に溢れていた。人がこれほど清らかな顔ができるとはにわかに信じがたい。が、お師さんの表情には見る者を納得させる説得力があった。

「たった数回だが、間違いなくわたしはあの時、神に最も近付いた瞬間だったと思う。そしてそこにたどり着いたことに誇りを抱く。だからこそ、今もその真理を追及している」

「菩提に近づくことにですか?」

 お師さんは頷き言った。「感覚として一番近いのは、瞑想……禅を組んでいる時だ」

「禅……」

「ジョギングに坐禅、私が毎日取り組んでいるトレーニングだ。ジョギングも座禅でもわたしは貴殿に酸っぱく呼吸を伝えていたな」

「腹式呼吸ですか」

「ジョギングはLSD……ロングスローディスタンスといってな、一定のスローペースで長時間走ることで有酸素運動の能力……持久力を上げるトレーニングの基礎をこの二週間貴殿に課した。いずれは九十分間走ることが目的だ」

 この二週間、腹式呼吸法を習い、その呼吸法でランニングを行った。毎朝10キロ等走れるわけがないと思いながら、三日目には連続して走り続けることができた。

 ゆっくり走り、ゆっくり呼吸することで酸欠状態が解消され連続して運動が可能になる。長時間負荷のかかる状態ため心肺機能が強化される。その結果一度に送り出す血液、酸素量が増え持久力が上がる。

「対局でバテないようにするためのもの、と思っていました」

「無論それもある。が、長時間の過負荷がかかるジョギングは、苦しく、辛いものだ。しかし、しばらくすると、気分が高揚し、しんどさも気にならなくなる。ランナーズハイという状態になるのだ。貴殿も感じていたであろう?」

「はい、確かにランナーズハイと教えていただきました」

「脳内麻薬というのかな……そういうものが分泌され、苦痛を和らげるという効果がある。その影響で多幸感や快感を覚える」

「菩提と似ている部分がありますね」

「左様、似た状態なのだ。同じく坐禅においても、同様に呼吸を大事に無心になることを訓練した」

「はい」

「禅による瞑想の中、無心になることにより多幸感や快感を感じる状態がある。これが私の手にした菩提と似た感覚だったのだ。わたしはわたしの持つ菩提の経験から、そこに至る方法を呼吸によって気付かされた。そしてこの鍛錬の結果、五回の内、二度は偶然、三度は意図的に門を開くことができた」

「……」

「今の話を聞いて菩提と禅の関連性に気が付くか?」

「菩提は、お師さんの話を聞くに、超集中状態の中でも余裕というのでしょうか……快の感覚が多いように思います」

「菩提は無心の状態の中にその神髄がある。貴殿が手にした認識とは異なるものだ」

「菩提とは違う認識……」

「煉獄……それが貴殿の得た認識」

 微かな沈黙が二人の間に流れた。

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