六ノ舞

「でも若さぁ。ホムペやと、この奨励会受けんのに、棋士の師匠の推薦がいるって書いあるで?」

 夏至、北半球では一年の内に最も日が長い一日の暮れの頃、俺の横で、タブレットを見ながら菜々緒さんが言った。

 菜々緒さんはこの店で一番の古株で母の右腕だ。彼女は母不在時の責任者のチーママに就いている。学生の頃からバイトではいり、母の育児も手伝って、幼少の俺を風呂に連れて行ったり食事を食させてくれたりと随分世話になった。恥ずかしい所散々見られいるので、頭があがらない。

 菜々緒さんは椅子にもたれると、俺に顔を向ける。店内の光が髪が反射して、ミルクティ色髪が映え、百倍マシのまつエクで盛られた瞳が俺の瞳と交差する。

「若、師匠なんておらんへんやんやろ?」

 この店の従業員の方から俺は「若」と呼ばれている。オーナーの息子である俺の立場を揶揄して、若旦那と呼び始めたのが菜々緒さんだ。今では略されたが「若」がここでパブリックネームだ。

「それに受験費用もいるし……受かっても会費がいるみたいやね。三万円……私大の試験代くらいやね。受かっても入会金が十万で会費が月額一万? プロ養成学校っていっても、お金かかるんやね」と、言って菜々緒さんは若草色の箱から『もなか』を一つ取ると、丸っと食べて、箱を俺の方に寄せた。

「まぁ、まだ棋士じゃない棋士候補生だから……」

 俺は手を合わせると、化粧箱から瓢箪の印がはいったもなかを頂戴させてもらった。

「受けるのも大変、合格した後も大変、行くも引くも地獄……よっこいせ」

 菜々緒さんはカウンターの上に胸を置いた。この店にいる従業員は皆、何故かお胸が豊作だ。俺はついつい、カウンターに乗った胸を凝視してしまう。

「若、お盛んなのはオッケーやけどそんなに凝視せんとって、こそっと見るんがマナーやで」菜々緒さんは胸を凝視しした俺の鼻を軽く摘まんで、お仕置きをする。

「すんません……」

 そんなつもりじゃなかったが今の菜々緒さんの服装が服装だ。言い訳すると後が怖いので俺は素直に謝る。

「ママので見飽きとるやろ? で、若を推薦してくれる人っていうか師匠いんの?」

「変な誤解を生むこと言わんで下さい」俺は即座に否定して続ける。「師匠はいないよ」

「いーひんって、締め切り七月の終わりやろ? 見つかるんかいな?」

 ドアが開いて、鈴が鳴ると同時に「おはようございまーす」と元気な挨拶が響き、ホステスさんが出勤してくる。

「若、チーママ、おはようございます」

「おはようございます」と、俺は言って頭を下げる。チーママの菜々緒さんは軽く手を上げ「おはようさん」とだけ言った。

「道場の指導棋士の人にお願いして探してもらうのが筋だけど……そんなにすぐに見つかるものじゃないみたいだし、最近そんなに道場にも行ってないから」と、俺は腕を組んで言った

「じゃぁ、受けれんやん、どうすんの?」

「俺は今年の名人戦で、ベスト4に入ってるから……」俺は菜々緒さんが見るタブレットに指を滑らせて当該の場所を彼女に見せた。「この師匠推薦無しの級位受験を受けようと考えてる。将棋院主催の全国大会ベスト4に入った基準をクリアしてっから、これで受験資格があるんだ」

「なるほどねぇ、でも合格後一年以内に師匠を見つけることって書いてあるね。見つかるん?」

「多分、合格したら院で紹介してくれると思うけど……と、いうか菜々緒さん受かるの前提で話進んでない?」

「若、受かる気もないんに試験受けるん?」と、菜々緒さんは眉を上げて呆れるように言った。

 菜々緒さんの圧に俺は戸惑う。「いや、そういうわけじゃないけど……」

「そうよ、しゅーしん」と、着替えを終えて和服に身を包んだ母がカウンターに入ってきた。「やる以上は勝つのよ。そのためには師匠を持つのが一番」

「ママさぁ、若は師匠なしの試験受けるゆーてますで」と、言ってもなかをマルっともう一個食べる。これで五つめだが、食べすぎじゃないだろうか?

「そうなのしゅーしん?」と、母は俺に問い掛ける。

「今から師匠探すのは無理だよ」

「いいえ、ママにいい案があります」

「いい案?」と、菜々緒さんと俺は揃って母に尋ねる。

「んー」と母は俺と菜々緒さんの想定外の反応にたじろぐと、咳払いをして居住まいを正した。「ママにいい案があるわけじゃないけど、宗杏先生に相談すれば解決します」

「でも、ママさぁ、宗杏先生って、お茶の先生やん」と、すかさず菜々緒さんのツッコミがはいる。

 母は長年茶道を嗜んでおり、時々名前のでる「宗杏」というのが母の茶道の師だそうだ。俺はどのような人なのかは全く知らないのだが。

「宗杏先生は将棋のことにも大変習熟されてる人なの。今までも色々相談に乗ってもらったことがあるし……そうそう、あの十八冊もある将棋の百科辞典も、しゅーしんが去年からやってる江戸時代の詰将棋も宗杏先生が教えてくれたのよ。それを一通りすれば強くなれるっ一押しだったのよ」と、母は鼻高々で言った。

 なるほど、母は誕生祝い等に将棋の指南書の類いを俺のために用意してくれたのだが、その選択がやけに玄人というのか、手堅いというのか、剛直というのか、古典的な理由がわかった。年配の愛棋家が勧めてくれていたのなら合点がいく。

 三年生の頃に母から送られた将棋の百科辞典は江戸期から昭和初期にかけての大棋士の棋譜を解説した十八冊もある長編の『日本将棋列伝』。昭和中期の古書で内容も最新型の戦法ではないが、現代将棋の原点となったもので、俺も一年以上費やして何度も棋譜を並べた。無双、図巧の詰将棋セットは現代語に訳された『詰んでみせろ、詰むわけない』という名書は去年母から送られたものでただいま苦戦中だ。

「宗杏先生ならきっと良い考えを授けて下さるわ。だから、心配ありません。そこはママに任せて」と、母は親指を立てて言った。

「わかったよ、母さん」俺も微笑して母に答えた。

「で、菜々緒さん」と、急に母の声音が冷たいものに変わる。

「はい?」と、適当に答えて菜々緒さんは今日六個めのもなかを口に入れる。「ママも食べたいん? 二日目で皮がやわこくなって、めっちゃ美味いで」

「下着姿でしゅーしんを誘惑するのはやめなさい」

 俺は頬杖を突いて何も言わず、よそ見した。そう、蒸し蒸しすると言って、着替え前の菜々緒さんは下着姿のまなのだ。

「今更何言うてんのママ、若なんかうちの裸、嫌ほど見てますやん」

「そういう意味ではありません。しゅーしんももう男なのです」

 ――そこかいっ?

 俺は頬杖からずれ落ちる。開店前とは言え、店を半裸で徘徊するなと咎めるのが筋だろうに。

「男って……こんな餅肌、ぷりぷりで髭も生えてへんような若のどこが男ですかいな」と、言って、菜々緒さんは俺の首に腕を掛けて、顎下を撫でる。

「確かに髭は生えてません、しかし、この間松茸ご飯を炊きました」

「母さんっ、何ちゅうことを言ってるんすかっ」俺は血の気が引いた。悪気はないのかもしれんが、それは言うべきことではないだろう。言い方をもう少し考えていただきたい。

「若、ついに男になったんか。じゃあ約束通りおろさなあかんやん」菜々緒さんがヘッドロックを掛けてくる。

「何を……?」俺は菜々緒さんの腕の中で頭部に異次元の柔らかさを感じながら問う。

「筆をやん」と、菜々緒さんはあっけらかんと言った瞬間、母の凍り付くような声音が響く。

「しゅーしん、菜々緒さん、その話を詳しくお聞きしなければいけませんね」

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