伍ノ舞
「奨励会を受験させて欲しい」
俺は母にそう言ったのは、梅雨も半ばに差し掛かった六月。その日は俺が好きな、トンカツとマカロニサラダがカウンターに並んだ日だった。
それまで母は食事をとる俺の姿をカウンターに頬杖を突いてニコニコ見ていた。だが、俺の言葉をきいて、頬杖を解いた。
俺は持っていた箸を箸置きに置いた。お互いの視線が交差する。十秒、二十秒、三十秒、四十秒、五十秒、六十秒沈黙の時間が流れた。
「奨励会に行きたいんだ」もう一度俺は繰り返した。
「……本当に、そう思っているの?」俺には普段絶対に見せない表情で母は俺を凝視した。母でない大人の人間として俺に対峙していた。
母の問い掛けに、俺は頷いた。
「あなた自身が決めたこと?」
こんな母の声は聴いたことがないほど冷たい声音だった。冷静に俺の言葉を受け止め、冷静に言葉を口にしている。言葉こそ丁寧であったが『お前は情報に流されて、軽い考えで口にしてるだけじゃないか』と、いう叱責に取れた。
「きっかけは、伏見の手紙だ」
母が言葉を飲み込んだのがわかった。自分の発言をキャンセルして、俺に話を続けるように体勢をやや前にした。
「将棋が好きだ。このまま普通に趣味として将棋を続けることが、正しいっていうのはわかってる。けど、もうそんなレベルじゃないってことを自覚してるんだ。今以上に将棋のことを知りたい。そのためには今以上の『場所』に行かなくちゃいけない、そう思った」
「……子供の頃、丁度、この店を開店した頃……常連さんがここで指して置いて行った厚紙の盤とプラスチックの小さい駒。それまでブロックしか興味を示さなかったあなたは、その駒が気にいって毎日毎日、ルールも全く知らないまま駒を並べて遊んでいたわ……」
「母さんが、ルールを覚えて指し方を教えてくれたんだよ」
「そうね、駒の動かし方を覚えてあなたと丁度、店が開くまでここで指したわね」マホガニー製のカウンターを撫でるように、母は少し声音を柔らかくしていった。「すぐに勝てなくなってしまったけれど……」と、言って母はうっとりと、懐かしむかのように目を閉じた。
何故、将棋というものにのめり込んだのかはわからない。が、将棋が好きになった理由は単純だ。将棋を覚える前はブロックや折り紙に熱心だった。図形など形あるものがパズルのように見え、将棋もまた、駒がもつ移動範囲を図形と見立てて組み立てるパズルのように思えたのだ。
将棋は俺にとってブロックや折り紙の延長。しかしブロックや折り紙は一人で組み上げるものに対して、将棋は相手がいる。相手よりどれだけ美しい図、つまりは棋譜を描けるか。勝つということは美しい棋譜を描くことと同義だ。それは俺にとって途方もない達成感を与えてくれる。
だから将棋を好きになった理由は答えられるが、のめり込んだ理由はわからない。美しい棋譜を描く。それが至上のものになっているだけ、それだけなのだ。
「伏見が奨励会に……棋士を目指すと聞いて俺の中で考えがまとまった。ここで挑まないと、俺はこの……逃げた気持ちを抱えながら、この先……何故俺はあの時、自分の力を試すことをしなかったのか……後悔する時が必ず来る」
「あなたが奨励会に行くと、そう言う日がくると予感していたわ。わたしは深く将棋のことはわからない。けど、あなたが目指そうとする道、奨励会に入るということが、どれだけリスクの高いことか容易に想像できる」
母は無意識に自分のことを『わたし』と言っていた。そして、努めて冷静に、己の感情を制御し淡々と言葉を続ける。
「棋士になるなんて宝くじ当たる確率に等しい。あなたは聡明で、周囲と相容れない部分があって、他の子と違い随分と大人びた子だった。望めばもっとハイレベルな教育、学校も自由に選べるわ。親として、その道を進めさせるべきだと思っている。棋士になる可能性よりもっと簡単な道で、あなたは大成できる可能性のほうが遥かに高いわ。そしてそれをあなたは理解している」
聡明、という言葉がどういう部分をもってその評価なのかはわからない。単に勉学という意味ではよいと言えたが、素行という意味では周囲の同級生と比較して個性的というか、浮いていた。それは自他ともに認めるところだ。
なんせ将棋と勉強以外のことは興味がなく殆ど知らないと言っていい。ゲームも、おもちゃも、カード遊びも、サッカー、野球、ルールも知らなければしたこともない。それにこの年になって自転車の練習してないため乗ることもできない。
そんな一風変わった俺だ。周囲との違和は大きい。最初は物珍しがって一緒に指した同級生も、次々に現れては消える娯楽の一つとして将棋を通り過ぎていく。俺は一人そこに留まり、将棋を指し続けた。
俺はやがて『将棋マン』、『機動戦士ショギダム』、『人造人間ショーギダー』、『将棋創世記ショギピーダ』、『ショーギバトラーシューバイン』と周囲から揶揄われ、将棋を通してでしか周囲と繋がれない俺の周囲からは人が消えた。
だが不思議とそれを寂しいとかツライと思うことはなかった。俺の中に確固たる揺らぎない『世界』がある。将棋で同じ世界に通じる人間がたくさんいた。それが実際の対局であれ、姿の見えないネット対局であれ、将棋という言語を使い繋がれた。それは同じ価値観を共有した一つの文化圏に生きる同種と言えた。そして伏見のように敵でありながら、同じ方向を見る……強敵(とも)がいた。
「わたしもね……奨励会のこと色々調べたわ。夢を叶えるにはあまりに狭すぎる門、何故あそこが『修羅の国』と呼ばれているかわかったわ。そんな場所に……自らあえて地獄の業火で身を包もうとしていること、止めなければならない」
母は冷静な声で続けていたが、顔は紅潮し痛みに苦しんでいるようにも見えた。母が言うことは重々理解できる話だった。何もおかしいことは言っていない、俺も母が言っている道を進むことこそが正道だと思っている。
「本当は止めるべき、母としての責務がそうさせる。けど、あなたの親として、あれだけ好きな将棋にすべてを賭けようと決心したあなたを応援したい、大好きな将棋で輝いているあなたをもっと大きな舞台でみんなに見てもらいたい……」母の言葉は段々、詰まり始め、涙が目に溜まっていた。
母はカウンターを出て、俺の席に近づいて言った。「怖いの……大好きな将棋で傷付き崩れていく姿の可能性の方が高い場所に、手放しで行ってらっしゃい、そう言えないの。聡明でも大人びていても、あなたはまだ十歳のわたしの子なの」
母は涙を流して、俺を抱きしめた。嗚咽を堪え、震えていた。
「自分の息子の可能性を信じられない、駄目な親ね……やっぱり、一人で育ててるからかなぁ。わたし、あなたのことが大好きなのに、応援してあげることもできないのかしら、でも応援したい。
わたしだってここまで来るのに血の滲むような試練を乗り越えてきた。あなたを一人で育てることを決心した時も、この店を開けようとした時も、挫けても、倒れても『一人』で立ってきた。それは自分でも誇りに思うこと」
母は優しく抱きしめ俺の髪を撫でた。「だから、きっとわたしの子だから、乗り越えていってくれると信じている。だから、あなたを信じる。厳しい世界で負けても……倒れても、きっと立ち上がって、歩いて行くことを信じてる」
母は俺の肩に手を置いて、俺の目を見つめて言った。「自分の決めた道をあなたは進んでいけるのね? あなたが決めた、あなただけの道を自分の力で歩いていく覚悟があるのね?」
「ずっと、考えてきた。どういう結果になるかは全く分からない、でも覚悟はしている」
母は頷くといった。「行きましょう、奨励会に」
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