第9話 希望の明かり
白い光を抜けた先、そこは夜の森だった。
でも、あたりが見えないということはない。
なぜなら、森中を蛍のような光が漂っているんだ。
『そこは真っ暗な森の中、てらすはあわい光のつぶ』
「フウさぁん」
なにがいるかわからないから、あまり声は張り上げられない。
扉の先から声がしてた……だから、この森にいるんだよね?
不安がうっすらと胸の中にもやを作ったとき、がさっと正面の草むらから音がした。
わたしは剣を突き出し、自然と息を止める……と、その草むらから、見たことのある黒いリボンがひょっこりと頭を出した。
「どなたか、いらっしゃるのですか?」
ころころとした声、紫色のローブ、外側にはねた桃色の髪。
「フウさん!」
「あら?どうしてわたしの名前を?」
フウさんはきょとんと首を傾げる。
あ、そうか、今のわたし、まだシズクの姿なんだ。
「あの、わたし、今姿がちがうけど、アイです!」
フウさんは赤紅色の瞳をパチクリ。
「本当に……?」
「うん、姿や声が入れかわる変な世界にいたせいで、今は見た目がちがっていて……」
そのとき、シズクだったわたしの声は、突然わたし自身の声に戻った。
「あ、姿が!」
フウさんが声を上げて、わたしは自分の体を見る。
体がへにゃりとゆがみ、青色のコートは消えかけ……みるみる元の姿に戻りつつある。
そこで、はっと気づいた。
「いけない!フウさん、変身?の魔法、使えるって、相談室で話してたよね⁉︎」
「え、はぁ、まぁ……長くて三十分ですが」
フウさんはわたしの慌てっぷりに、意味がわからないという様子。
「充分だよ。あのね……わたし、もう元の姿に戻ると思うけど、後でまたこの男の子の姿に、変身させてほしいの」
「いいですけど、どうして?」
「後で説明するから」
はぁ、とフウさんはつぶやいて、首を傾げる。
でも、元に戻ったわたしの姿を見て、ほっと顔をほころばせた。
「それにしてもよかった、もう会えないかと。獣人の街に、この森に繋がる扉があったのです。すると、中からアイさんの声が聞こえたものですから」
そうか、この森の扉が、わたしたちを引き合わせてくれたんだ。
じっとわたしを見ていたフウさんの瞳が、じんわりとにじむ。
「一人にして、申し訳ありません」
わたしは剣を強く握りしめた。
「大丈夫、一人じゃなかったわ」
剣だけは消えてない。きっと、シズクは三人の影のようには吸収されてない。
まだ、あのかいぶつの中に……。
「アイさん、この世界は、哀の保管庫がとても近いです。一緒に行きましょう」
フウさんはわたしに近寄り、すっと手を差し出した。
もう迷子にならないようにと。
でも……。
「その前に、どうしても助けたい人がいるの。わたしを守ってくれた人……お願いフウさん、力を貸して」
フウさんの小さな手を両手で握り、まっすぐに目を見つめる。
すると、フウさんは上品にほほえみ……赤紅色の澄んだ瞳は、わたしを安心させるように、すっと淡くなった気がした。
「助けなきゃいけない人がいるのなら、放っておくわけないです」
「――ありがとう」
一人じゃなくて二人なら、ずっと心強い。
「とりあえず、まずは、開けたところに出たいんだけど……」
「それなら、さっき通ってきた道から、草原が見えました。すぐ近くです」
フウさんが後ろを振り返り、指さす。
「なら、そこに行こう」
くるりときびすを返すと、なにかに足を取られた。
「うわぁ!」
フウさんに支えられ、持ちこたえる。
足元を見ると、そこには分厚い白い線が。これは……。
「糸?」
「アイさん、よく見てください。ここ、そんな糸ばかりなんですよ」
フウさんがあたりをゆっくりと指さす。
目を凝らしてよく見ると、森は無数の糸に絡まっていた。
木から木へ、糸が伸びている。
「気を付けなくては、ひっかかってこけてしまいます。切って進みましょう」
そう言ってフウさんは、懐から黒い持ち手の短剣を取り出した。
「な、なんでそんなもの持ってるの?」
「魔法は、薬草や獣を使うことも多いので」
フウさんは淡々と答え、糸を切っていく。
あぁ、そう……。
わたしもフウさんを見習い、糸を切り始めた。
簡単に切れるもろい糸もあれば、硬い糸もある。
切った糸は、すぐ元通り繋がってしまう。
あんなに切って進んできても、後ろを見ると、もうふさがってる。
「はぁ、はぁ……」
腕が痛くなって、息も荒くなるけど、関係ない。
今は立ち止まれない。
しばらく進むと、フウさんの言った通り、広い草原に出た。
でも、そこはさっきの森の中の比にならないくらい、糸が絡まっていて。
「こんなにも糸が……これじゃあさっきの森の方がましですね。戻りますか?」
草原に木はあまり生えていないけど、草原を取り囲む森から、無数の糸が伸びているようだった。
たしかに、糸はすごく絡まってるけど……ここは森の中より、光の玉が多くて、周りがよく見える。
「フウさん、ここでいいよ。変身の魔法、かけてほしい」
「わかりました」
フウさんは、人差し指をすいすいっと円を描くようにわたしの胸の前で書くと、たちまち薄いもやがわたしを包み込み……あっという間にシズクの姿になった。
「それで、どうやって助けるのですか?」
「えぇとね、その前に……」
わたしはフウさんとはぐれてからのことを、一つ一つ説明した。
「それでは、今のその姿はシズクさまという方なのですね」
「そう。それで、これはわたしの考えというか、勘なんだけど、そのかいぶつのこと。そいつ、たぶんわたしじゃなくて、シズクを狙ってるんじゃないかって。シズクの名前を、なぜか呼ぶから」
わたしの姿じゃなくて、シズクの姿だったら、きっとまた現れる。
そんな自信がある。
「わたし、シズクに伝えたいことがあるの。だから、わたしはあのかいぶつに近づく必要がある」
わたしはこの剣を、うまく使いこなせない。
あのかいぶつは、シズクにしか倒せないんだ。
「フウさんにはその間、邪魔な周りの糸を切っていてほしいの」
フウさんは真剣な顔で、あごに手を当てる。
「……わたしはまだ見習いですので、攻撃的な魔法はほとんど習っていません。でも、アイさんよりは……」
わたしよりは、戦える。
きっと、フウさんはそう言いたいんだろう。
それでも……。
「少しでいいの。ほんとに、少しだけでいい。無理だと思ったら、すぐに離れて、フウさんに任せる」
フウさんは目をつむり、うぅーん、とうなる。
「お願い!」
わたしは深々と頭を下げた。
「……わたしがいいと言うまで、アイさんは頭を下げ続けるのでしょう?お客さまに、そんな恰好させられません。……かいぶつに近づくのは、三分だけですからね」
フウさんは困り眉で、複雑そうに笑う。
「ありがとう!」
そのとき、風向きが変わった。
見ると、五十メートルは離れた先、そこに黒い影が集まり始めていた。
……来た。
「行こう!」
フウさんが短剣で道を切り開き、わたしは影の元に走った。
影はコートのような服を着た、ずんぐりとした形になり、小さなわたしを見下ろす。
「シズクを返してもらうから!」
そう宣言すると同時に、かいぶつが糸を踏み荒らして、動き始めた。
伸びてきた右腕を、ギリギリかわす。
さっきはシズクの強さも全部入れかわっていたから、もっと速く走れた。
でも、今は見た目がシズクでも、心も体力も全部わたし。
強くない。
「シズク!いるんでしょ!」
立ちふさがった糸を切り、かいぶつの周りを走りながら、声を張り上げる。
「きっと、声が聞こえてるよね?」
目の前に飛び込んできた腕を、とっさに剣で切りつけた。だけど、切ったところはすぐにふさがっていく。
な、治った……。
今度は左腕がわたしの方へ伸びてきて、地面に倒れ込んでよける。
立ち上がろうとするけど……右足が動かない。
見ると、その足首に糸が絡まっていて……。
どうやって倒す?
かいぶつはまた、右腕を伸ばし始めてる。
わたしは必死に頭を巡らした。
シズクだったら、どうやって戦う?でも、シズクはかいぶつとは戦わずに、逃げるという選択をしていた。
だから、わからない。シズクは、シズクは……。
「アイのはただの見栄だ!」
脳に響く声。わたしは、はっと息が詰まって、強く胸を抑えた。
「アイはほんとの気持ちは隠して、お父さんに都合のいい自分を見てもらおうとしてる!」
心臓が脈打つ。
これはさっきの記憶。シズクの放った言葉。
「アイのだってさ、友だちなんて言わないでしょ」
荒くなる息を、一生懸命整えて……。
足に巻きついた糸を切ると、立ち上がった。
……シズクは正しい。
わたしは剣を握り直し、向かってくる腕に構えた……だけど、右腕は急に方向を変えて、周りの糸を切っていたフウさんに向かった。
「フウさん!」
フウさんは短い悲鳴を上げたものの、しゃがんで間一髪よけ、腕は空振り。
よかった、ギリギリセーフ……。
ほっと息をついた、そのとき、わたしの体がぐんっと引っ張られた。
振り返ると、わたしの体に巻き付く黒い腕。
しまった!
気づいたのも遅く、かいぶつの長い腕がわたしを持ち上げる。
「大丈夫……大丈夫……シズク」
手で強く殴ってみたり、体をねじって暴れてみるけど、びくともしない。
剣を腕に突き刺すと、剣は吸収されるように中へと沈んでいき、わたしは驚いて引き抜いた。
逃げられない、ダメだ……。
絶望と共に、わたしの青いコートの袖がすぅっと薄くなり始め……。
あぁ、変身が解けていく。
かいぶつが、わたしを顔の前へ持っていく。
こんなところであきらめちゃいけない、終わりなんかじゃない。
シズクに伝えたいことが、いっぱい――……。
その瞬間、わたしの周りを漂っていた淡い光が、わたしを取り囲むようにして集まり始め……そして、強く光った。
わたしは不思議なことに、少しもまぶしくはなかったけど、かいぶつには効き目があったようで……かいぶつは顔を背け、わたしをまっすぐに空高く放り投げた。
わたしの体が、ちょうどかいぶつの真上で宙を舞う。
スローモーションのように周りが見える。
フウさんが驚いた顔で、わたしを見ているのが見えた。
落ちていく中、たくさんの淡い光がわたしを取り囲み、わたしに触れ……。
すると、唐突によみがえる、ある一つの記憶。
一年前……今の学校に転校する前、友だちが一人もいないわたしが、さみしそうにうつむいてる。
わたしは、思ったことははっきり言葉にする性格。
嫌いなものは嫌い、どうでもいいことはどうでもいい、と。
みんな、話しかけたらこたえてくれる。けど……休み時間も、放課後も、わたしはいつも一人だった。
あるとき、クラスメイトの女の子が、学校で禁止のアクセサリーをつけて、みんなに自慢していて。
みんながかわいいって騒ぎ、アイちゃんもそう思うでしょって。
わたしはそう思わなかった。
持ってきちゃいけないものを、平気で持ってくること自体、腹が立った。だから、そのままを伝えた。
そしたら……。
「アイちゃんって、ほんと、気が強いよね。言葉がきついってゆーかさ。みんな、アイちゃんが嫌いだって、気づいてる?」
そのときの、みんなの顔。
苦笑いした顔、ぷすって噴き出した子、気持ちの悪い空気。
全部全部、覚えてる。
転校して、今度こそ失敗しないように、うそをつき始めた。
だれにも見られたくない素顔を隠した、硬い硬い仮面を、ただひたすらに、守り続けて……。
一瞬だけ駆け巡った記憶、でもそれは、ずっと重たく鮮明だった。
――白黒の世界で、ほんの少し抱えた、シズクの『さみしい』という気持ち。
わかるよ、わたしも、一緒だから。
かいぶつは地面に屈み込み、両手で目を覆っている。
淡い光が、わたしを守るように、やさしく下ろしていき……。
そして、大きなかいぶつの頭の上にふわりと着地すると、淡い光は散り散りにばらけた。
かいぶつはわたしの姿が見えなくなって、あたりを見回していて。
わたしは振り落とされないよう、そのかいぶつの頭に膝を突き、剣をゆっくり刺した。
剣は吸収されるように沈む。
わたしの足も、沈んでいく。
そんな中……わたしは落ち着いた声で、話し始めた。
「……シズク、わたしね、ずっと見て見ぬ振りしてたよ。自分の気持ちに声を殺してた。怖いよね、目をつむってしまいたいこと、逃げ出したくなること、いっぱいあるよね」
わたしは常に前進だなんて言いながら、結局逃げてたんだ。
気づいていたのに、向き合わなかった。
「でもわたし、逃げるのはやめるよ。前を向きたい……一人でじゃない、シズクと一緒に」
そう、わたしと同じさみしさを抱えた、きみと。
「シズク、一人で行かないで。一緒に立ち向かおう。大丈夫、もう一人じゃないんだよ」
わたしは力いっぱい、剣を押し込んだ。
シズクになら伝わる、まっすぐな気持ちは、すっと心に入るから。
それを教えてくれたよね。
体がもう、胸のあたりまで沈みかけていた。
「アイさん!」
フウさんが叫んだ、そのとき。
かいぶつのおなかがスパンっとはじけた。
そして、中から青いマフラーを巻いた男の子が飛び出すと、わたしの元へ軽やかに跳ぶ。
その子は肩まで沈んだわたしの肩を抱くと、勢いよく上に引っ張り上げた。
「シズク……」
「おまたせ。届いたよ、アイの言葉。一緒に、決着をつけよう」
そう言って、シズクは無邪気に笑った。
おなかを切られたかいぶつは、理解ができないというように、自分のおなかを見つめてる。
シズクと肩を組んで、かいぶつの頭の上へ膝をつく。
さっきとちがって、足は沈んでいかない。
「アイ、一緒に」
シズクは、剣をわたしの目の前にかざした。
「うん」
わたしとシズクは剣を強く握りしめると、高く振り上げた。
淡い光たちが、剣にまとい、光り輝く。
「「せーの!」」
声を合わせて剣を突き刺す。
すると、刺した部分から黒い粟粒がもれ出し、それと同時に、森に絡まっていた糸たちがバラバラになって消えていく。
シズクに抱えられ、地面に降り立った。
かいぶつは地面に丸まり、徐々に動きを止め、そして……。
「え……?」
「どうしたの?アイ」
「今、かいぶつがなにか言わなかった?」
「さぁ?」
うっすら聞こえたその言葉。
「よかった」と、そう言った気がした。
二人、その様子を黙ってじっと見ていたら、おーいと声がした。
「お二人とも、おケガはありませんか!」
フウさんが必死に声を張り上げてる。
「大丈夫だよ!」
わたしたちの元まで来たフウさんは、息を整えると、わたしとシズクの顔を交互に見つめ、ほっと胸をなで下ろす。
「話は聞いてます。シズクさま、ですね」
はじめまして、とフウさんはぺこりと頭を下げた。
「あぁ、きみがアイの言ってた子かぁ。はじめまして」
シズクは人なつっこい笑みを浮かべて、手をひらひらさせる。
「あ!そうだ、アイ、これ」
シズクは慌ててコートのポケットに手を入れると、わたしに手を出して、と言った。
渡されたのは、あの赤いガーベラのヘアピン。
「よかった、あったんだ」
わたしはヘアピンをぎゅっと胸に寄せた。
「大事だって言ってたもんね」
「うん、ありがとう……」
わたしが大事だって言ったこと、覚えてたんだ。
胸が温かくて、わたしの気持ちに寄り添うように、淡い光たちも深い橙色になる。
「……このヘアピンね、お父さんが買ってくれたの」
しみじみと、お父さんに買ってもらった日のことを思い出す。
「お母さんが話してくれた、ガーベラの花言葉は『希望』、『常に前進』だって。そのときお父さんが『常に前進』だなんて、わたしらしいって言ったの。それから、つらいことがあってもその言葉を思い出すようになった。『常に前進』、それがわたしらしさなら、立ち止まってちゃいけないって。本音を隠して友だちに合わせるのも、がんばれた」
でも、そんなの……。
「……ちがうよね。うそをついているわたしは、わたしじゃない。わたしらしさなんかじゃない。ほんとはずっと、嫌だったんだよ。もう考えないようにしていたのに、シズクを見ていて、その素直さに、心がぐちゃぐちゃになった」
シズクはなにも言わない。
うつむいて、話していたわたしだったけど……ゆっくり息を吐いて、真剣にシズクを見つめた。
「わたし、作った顔で笑わないよ。自分の気持ちで友だちにも、お父さんにも話してみるよ」
わたしは前髪にヘアピンをつけ直して、再びシズクを見つめ、はにかんだ。
無理して笑った笑顔じゃない。
心からの言葉、心からの表情。
なのに、なんで……なんで、涙があふれてくるの?
ぽろぽろと、流れる涙は止まらない。
「嫌われたら、どうしよう……」
ぽつりと言葉が口を突いて出た。
すると、もう抑えがきかなくなって、涙はぬぐってもぬぐってもなくならない。
「……きっとどんなに恐ろしいと、自分にはできないと思うことでも、必要なのは、ほんの少しの勇気だけなんだ」
シズクが小さな声で、そうささやいた。
まるで、自分にも言い聞かせているように。
そして、わたしをやわらかい笑顔で見つめた。
「友だちなら、そんなことで嫌わない。お父さんだって、話を聞いてくれる。ぜったいだよ」
シズクはコートの袖で、わたしの涙をぬぐった。
シズクを知ってるからわかる。
その言葉はどこまでも曇りない、まっすぐなもの……。
とてつもなくうれしくなって、涙は余計止まらなくなった。
そんなわたしの頭を、シズクがやさしくなでた、そのとき。
突然、地面がぐらぐらし始めたんだ。
「なに?」
シズクに支えられながら、意味がわからず周りを見渡す。
「どうやらこの揺れ、かいぶつを中心に起きてますよ」
フウさんが地面に手をつき、かいぶつを指さす。
かいぶつは、波紋のように体を震わせたかと思えば、今度は形をぐにゃぐにゃと変形させ始め……そしてとうとう、真っ黒な四角の空間に姿を変えた。
天井からはたくさんの注射器がぶら下がり、無数のチューブが絡まり……。
ずっと先まで黒い道は続いてる。
周りを取り囲むのは森、その中にできた、真っ黒なゆがみ。
「アイさん、保管庫はきっとこの先ですよ!進みましょう」
フウさんはうれしそうに、黒い空間を指さした。
やった、もうすぐ楽の雫が見られるんだ!
「わかった!行こう、シズク」
「……うん」
シズクは笑ってたけど、なんだか表情が暗い。
それに気づいたのは、もっと後になってから。
*
暗い通路を、チューブに引っかからないよう、進み続ける。
中に進むにつれ、ベッドが並んでいたり、薬が漂っていたりして……。
安全を考えて、先頭をフウさん、次にわたし、後ろにシズク。
わたしたちは、黙って歩いていたのだけど、突然シズクが、わたしの白いセーターの袖を掴んだ。
「アイ……あの、ぼくさ……うそつきだし、嫌われ者だし……最初はニンゲンが珍しくて、強引に話しかけたんだ。あのクマたちと一緒……」
え、なに?急に。
ちらりと振り返ると、シズクは少しうつむいてはいるけど、ほほえんでいて。
「なに言ってんの。シズクはたしかに強引だったけど、わたしを守ってくれたじゃん」
「……さっきのケンカでもさ、アイのことなんにも知らないのに、えらそうに言ってごめんね」
「いいよ、わたしもえらそうだったもの、ごめんね」
「うん……」
どうしたんだろ、シズク。なんだか、様子がおかしい?
でも、もうすぐ保管庫にたどり着ける喜びが、わたしの心をいっぱいにして……その変化を、わたしはあまり気に留めなかった。
しばらく歩くと、目の前に真っ黒な扉を見つけた。
なんのデザインもない、無機質な扉。
「あった!きっとこの先よね」
わたしとフウさんは、駆け足で扉に飛びついた。
なのに、シズクは急に立ち止まって……。
「ここから先は……いけない」
「えっ?」
驚いて、わたしはシズクを振り返る。
「ずっと考えてたんだ。どうして自分のことを、こんなにも覚えてないんだって。そんなときにかいぶつの中に入って……ぼくがいったいなんなのかも、やっと、わかった気がする」
シズクはやわらかな笑みを浮かべ、目をつむった。
「そっか……それは、いいことだね」
でも、ここでお別れなんて、どうして?
「雫を直せば、世界は元に戻るんでしょ?なら、ぼくは、そのときをここで待ってる」
「でも、それは、世界が扉を隔ててとなり合わせになっているのが直るということ。シズクさまは、この森に取り残されてしまいますよ……?お店に帰ったら、シズクさまの住んでいる世界まで、導くことができますから、一緒に行きませんか?」
「そうだよ、シズク。一緒に行こう?」
うつむくシズクを、わたしたちは必死に説得するけど……シズクのおだやかな表情は、変わらなかった。
「わかるんだ、行っちゃダメだって……。それに、これからは、一人旅、してみようと思ってさっ!」
そして、いつもの元気な口調に戻った。
なにか隠してる、そんなのすぐ気づくよ。
でも、その伏せたシズクの笑顔からは、「聞かないで」と、必死にうったえているように見えた。
「シズク」
わたしは、だらんと落としたシズクの両手をやさしく掴み上げると、そっと握った。
「さっき、白黒の世界で言ったこと。こんなにしんどい状況でも、楽しいって、わたし言ったでしょう?それはたぶん、一番はシズクといたからだと思う」
「え?」
うつむいていた真っ青な瞳は、やっとわたしを映す。
「どこまでもまっすぐなシズクといたら、わたしもまっすぐになれた。自分らしさについて気づけた。素直にぶつけてくれるきみとの会話は、とっても気持ちがよかった!ありがとう、シズク。シズクと友だちになれて、わたしすごくうれしいの」
「友だち……」
シズクが、ぎゅっとわたしの手を握り返す。
「友だちは離れてたって、ずーっと切れない絆で繋がってるの。そうでしょ?シズク」
「うん……うん!」
シズクはうるんだ瞳でうれしそうに笑った。
握った手を、ゆっくり離す。
「ありがとう、アイ。さよならなんて言わないよ」
「わたしも言わない。またね」
「またね」
お互いに手を振った。
フウさんもぺこりと頭を下げ、扉のノブを掴む。
わたしはフウさんの開けた扉の中へ、足を踏み入れた。
真っ黒な渦の中を落ちながら振り返ると、うれしそうに、でも泣きながら手を振っているシズクの姿を、閉まっていく扉の隙間から見た。
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