第三章 2



 ロレーナから馬車で一週間ほど行った場所に、その静養地はあった。海からは離れた、草原に温泉が湧く暖かい土地である。

「温泉ですってアルバ。虎は入れるかしらね」

 馬車のなかでアルバに話しかけるアレクサを見ていると、無下に嫌だとも言えなくなってくる。アルヴァロッドは気を取り直して、婚前旅行だと思えばいいと考えていた。

 窓の外をアルバと話しながら眺めている彼女を見つめながら、この旅行が平和なものであれと願う。王子にはなるべく近寄らないようにして、寒いから家のなかに閉じこもって温泉に浸かって、冬をやり過ごせばいいのだ。そうしよう。

 そうしてようやく目的地に到着すれば、すでに王子は王族の持ち物である館に着いていて、にこやかに公爵一行を出迎えた。

「やあ来たね。君たちが来るのを今か今かと待っていたよ」

 馬車から下りると、その館は白と青を基調にした曲線を描く建物である。

「公爵ご一行の館はこっち」

 と案内されたのは、そこから少し行った緑と白に統一された建物で、こちらは長方形が特徴的な形をしたものであった。カーテンから絨毯、調度品に絵、浴室のタイルに到るまで、すべてが緑と白である。

「主寝室がここ、その他の寝室が五つあるよ。浴室は各部屋についてるからね」

 そこに荷物を置いていると、王子はさらに言った。

「時間になって食堂に行けば、召し使いが食事を要望通りに作ってくれるから。温泉は外に行けばあるからご自由に。じゃねー」

 あっさりと行ってしまった王子の背中を見送って、アルヴァロッドは肩透かしを食らった気持ちになった。

 本当に静養に誘っただけなのか。まさかな。

「旦那様、お風呂行きましょうよ」

「そうですわよ、疲れた身体をほぐしに参りましょう」

 アレクサとローレンに誘われて、ふっと相好を崩す。

 杞憂か。

「そうだな。支度しよう」

 まずは、荷解きだ。部屋を決めて、それから湯に入りに行った。

 アルバは熱い湯に尻尾をちゃぽんと入れて、興味津々である。

「うーん気持ちいいですね」

「ずっと馬車で座っていたから、ほぐれますわねえ」

「それにしても旦那様、どうして王子殿下のことが絡むとあんなに警戒なさるのかしら」

「小さい頃はあんなに仲がおよろしかったのに」

「殿下は旦那様のこと親友って呼んでいらっしゃいましたけど」

「案外旦那様もそう思ってらっしゃる節があるんじゃないのかしら」

「男の方ってよくわからないわ」

 一方のアルヴァロッドは、ウリエンスと湯に浸かりながらこんなことを話していた。

「どうも王子がなにを考えているかわからん。ウリエンス、ここにいる間アレクサの警護を頼む」

「は……」

「私のことはいいから、彼女の側にいてやってくれ」

「かしこまりました」

 湯から上がってしばらく休んで、そうこうするうちに夕飯の時間となった。召し使いがやってきて、夕食の要望はなにがいいかとあらかじめ聞いてきた。

 暖かい土地とはいえ、空気は冷たい。真冬の、一番寒い季節である。

 なにか身体が温まるものがいいと言ったら、鍋物が出てきた。

「米酒を半分、水を半分、昆布でだしをとったものに鯛と鱈と牡蠣を入れましてございます」

 ロレーナはそもそも、海の国だ。だからここにいる者は全員、魚を食べ慣れている。

「ロレーナで獲れた魚を早馬で運ばせました。鮮度は抜群でございます。それに旬のキノコ、椎茸、白菜、春菊、豆腐、ねぎを入れました。薬味と共にお召し上がりください」

 温泉から上がってその身体が冷めた頃に、また身体が温まった。

「残っただしに、米と溶き卵を入れて雑炊にします」

 それを食べて腹がいっぱいになると、また汗をかいた。

「汗をおかきになられたのでしたら、また温泉にお入りください。寒いのがお嫌でしたら、寝室内の浴室にもお湯はご準備できております」

 今晩は、殊更に冷える。誰ももう一度屋外に行こうという者はおらず、そのまま寝る運びになった。

 アレクサはもう一度お風呂に入ろうかな、と思い、寝所の浴室に入ろうと考えていた。

 その彼女を、アルヴァロッドが呼び止めた。

「アレクサ」

「はい?」

「ちょっと来てみろ」

 寝室に入ったはずのアルヴァロッドが、なかから手招きしている。不思議に思って近くに寄っていくと、そのままなかへ招き入れられた。

「いいものを見つけた」

「なんですか?」

 驚いたことに、室内は灯かりが灯っていない。家具に足をぶつけないように注意を払いながら歩いていると、手を引かれた。

「こっちだ」

 そろりそろりと歩くうち、彼は窓際までやってきた。そしてそこにあるソファに座ると、隣にアレクサを座らせた。

「上だ」

「?」

 言われるままに見上げるとそこに天井はなく、代わりに一面の星空が広がっていた。

「うわあ……」

「昼間は気がつかなかったが、天窓になっているんだ。夜になると星が見える。あの王子もこういうところには気が利くものだな」

 口元に笑みを浮かべて言うアルヴァロッドをちらりと見て、アレクサは前から気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ旦那様」

「なんだ」

「殿下のこと、お嫌いなんですか」

 聞かれたアルヴァロッドは、そんなことを聞かれるとは思ってもみなかったのか、いささか意外という表情である。彼は戸惑ったように視線を左右に泳がせて、それから、

「……嫌いではない」

 と言葉を飲むように言った。

「じゃあ、なんであんなに邪険にするんですか?」

「そうでもしないと、付けこまれるからだ。うまいんだあのお方はそういうのが。そうやって、私は何度も痛い目に遭ってきたんだ」

「でもそれでも幼馴染ってことは、ずっと一緒にいたってことですよね。嫌じゃなかったんですね」

 そう言われて、アルヴァロッドはぐっと言葉に詰まった。

「……だから、嫌ではないと言っているだろう」

 アレクサはふふ、と笑った。

「なあんだ旦那様、殿下のこと好きなんですね」

「誤解するな。私は」

「もう、素直じゃないんだから」

 アルヴァロッドは苦い顔になった。

「ほんとは好きなのに、好きって言えないんですね」

「もう黙っていろ」

「だって」

「うるさい口だ」

 アルヴァロッドはアレクサの頬に手を置いた。そしてそっと唇を重ねた。

「あまりうるさいと、黙らせるぞ」

 突然のことにアレクサは真っ赤になってしまい、すぐには口がきけない。

「もうやめよう。他の男のことを話題にするのは」

「は、はい」

 アレクサは恥ずかしくて両手で顔を覆い、すぐ横にいる男の顔を直視できない。

 星だけがそんな二人の姿を見つめている。



 翌朝、アレクサは早くに起きて一人で温泉に入りに行った。

 朝靄が立ち込めて、霧のようになっている。

 早朝なので、誰もいなかった。アルバがついてきて、尻尾だけ湯船に垂れた。

 髪を上げて熱い湯に入ると、寒さに震えていたことがよくわかる。空を見上げると、今日もいい天気だ。

 ふと、ゆうべのことが思い出されて、また顔が熱くなった。

 私ったらまたあのことを考えている。ずっと考えっぱなしだわ。どうしよう……私、破廉恥なのかしら。

 顔も熱いし、身体も熱い。なにがなんだかわからなくなって、のぼせそうになったので湯から上がることにした。少し身体を冷ましてから着替えて外に出て館に戻る途中、後ろから声をかけられた。

「アレクサちゃん」

 振り向くと、王子アレクサンダーがいた。

「殿下」

「朝から温泉? いいね」

 彼はアレクサに追いつくと、そのまま並んで歩き始めた。

「どう? あの館の住み心地」

「とっても快適です」

「そう。よかった」

 それから食事のことや、温泉の話になった。

「温泉といえばさあ、もうアルヴァと入ったかい」

「え?」

「ここ、混浴もあるんだよ」

「そそそそんなことはしません」

 真っ赤になって両手を振るアレクサを見て、アレクサンダーはからからと笑った。

「照れちゃって、かわいいね。アルヴァのやつ、今の君を見たらどんな顔をするかな」

 アレクサはそんなアレクサンダーを見上げて、ゆうべアルヴァロッドが言っていたことを思い出した。

「旦那様は、殿下のことお嫌いではないですよ」

「――」

「むしろ、お好きです」

 王子は呆気に取られている。

「旦那様、いつかおっしゃっていました。殿下はいつも笑っている、太陽のようなお方だって。本当にその通りですね」

 じゃあ、私はこれで。行ってしまったアレクサを見て、アレクサンダーは顎に手をやって、

「ふーん」

 と呟いた。

「これは、なかなか面白くなりそうだな」

 言うや、彼は自分の館に戻っていった。

 こんなに上機嫌になるのは、久しぶりだった。

「ロクサーヌ夫人を呼んで」

 帰るなり、彼は召し使いにそう申しつけた。

「王子、お呼びですか」

 そしてお目当ての女がやってくると、アレクサンダーは両手を広げて彼女を出迎えた。

「ロクサーヌ、待っていたよ。君に頼みたいことがあるんだ。君にしかできないことなんだよ。ぜひやってくれ」

「わたくしにしか、とおっしゃいますと、どこのどなたを誘惑しますので」

「話が早くて助かるなあ。難攻不落の天然の要塞、ダイアモンドよりもさらに硬いと巷で噂の絶えない硬派の男、僕の幼馴染にして親友のアルヴァロッドだよ」

「ウィグムンド公爵様……ですか」

「おっと、嫌とは言わせないよ。君が賭け事で作った借金の肩代わりをしてあげたのは誰だったか、もう忘れたかのかい。その筋の男といけない関係になってしまって付け狙われた時に、金を払ってかたをつけてあげたのは誰だったのか、忘れたのかい」

「……よろしゅうございます」

「それでこそ君だ。恋多き女よ」

「手段は選びませんが、それでよろしいのですね」

「その言葉を聞くとぞっとしないけど、まあいいよ」

「ではそのように」

 ロクサーヌが出ていくと、アレクサンダーは白ワインを取り出して杯に注ぎ、一口飲んだ。そしてにやりと笑った。

 さてアルヴァ。あのかわいい子を、僕から守れるかな。お前はお前を守れるかな。

 その晩、アレクサンダー王子はウィグムンド公爵とその婚約者を夕食に誘った。アルヴァロッドは自分がいるからと、特に共も連れずに二人だけでその招待に応じた。

 王子には、連れがいた。

 年の頃は二十歳そこそこ、黒髪に紅も塗っていないのに唇が艶やかな紅色の、大理石のような白い肌の美女である。切れ長の瞳の瞼の端が化粧もしていないのに赤く、ぞっとするようななまめかしさがあった。

「紹介しよう。僕の友人、ロクサーヌ夫人だ。若くして結婚したが、ご夫君が事故で亡くなられてはからは独り身を貫いている」

「はじめまして」

 と差し出した手はほっそりとして骨ばっていて、思わずくちづけしたくなる色っぽさである。アルヴァロッドはそれを握るに留まり、席についた。

 会話はアレクサンダーとアルヴァロッドを中心に進み、会食は和やかに終わった。アレクサは自分の知らないアルヴァロッドの幼少時代の話を聞けて楽しく時間を過ごし、ロクサーヌは終始口元に妖艶な笑みを浮かべて席を彩った。

 アルヴァロッドとアレクサが館を辞して、王子は夫人に尋ねた。

「どうだい、落とせそうかい」

「確かに難攻不落の要塞ですわね。ですが、この世に落とせない砦はございませんわ。このロクサーヌ、必ずやあの殿方をものにしてみせましょう」

「その言葉を聞きたかったよ」

 じゃ、よろしくね、と言って、王子は部屋に入っていった。

「楽しかったですね」

「ああ」

 それにしても王子はなにを考えてあの夫人を同席させたのか……アルヴァロッドはそんなことを思案していた。

 翌朝、アレクサはアルバを連れて温泉へ行った。どうやらこれが彼女の日課となろうとしているようだ。早朝で誰もいないのも、気分がよかった。

 アレクサンダーはいち早く、それに気づいた。

「やあ」

「あ、殿下」

「散歩かい」

「ええ、朝は気持ちいいですね」

 ひゃう、と足元でアルバが鳴いた。アレクサンダーはそれに微笑みかけた。

「この虎、君が飼ってるんだってね」

「はい、まだ小虎の時に偶然拾って、育てています」

「よくアルヴァがそれを許したものだね」

「お母さんがいなかったもので、それで」

「ふうん」

 アレクサンダーはかがんでアレクサの顔を覗き込み、彼女の青い目を見つめると、

「じゃあ、君がお母さんってわけだ。かわいいね」

 と言った。その、明るい青い瞳に微笑みかけられて、アレクサは思わずどきりとする。

 王子の常套手段である。

 ふふん。僕のこの微笑みに勝てない女がいたら見てみたいもんだよ。

「じゃあ、まあ明日の朝」

「え、あ」

 王子は手を振りながら言うと、あっさりと行ってしまった。

 毎朝毎朝、こうして彼は少しずつアレクサと話し、話しては彼女を知ろうとし、アレクサの心に入り込んでいった。

「君の好きな食べ物はなに?」

「好きな色は?」

「ふだんはなにをしているの」

「僕はね、こんな本が好き。君は?」

「僕の母上はね、僕の小さい頃に亡くなっちゃった。それで……」

 朝のたった五分程度の少ない時間有効に使って、彼は巧みにアレクサに取り入った。

 しかし、それに気がついた者がいた。

 ウリエンスである。

 ある朝、彼はアレクサが部屋にいないことに気がついて、起きだして探しに出た。

 そして道で王子と話しているのを見て、慌てて走り出していったのである。

「アレクサ様、なにをしておいでです」

「あ、ウリエンスさん」

「お一人で立ち歩いて、あぶないですよ」

「朝だし、殿下がいらっしゃるので大丈夫ですよ」

「いけません。戻りましょう」

「そうだよウリエンス。僕がいるじゃないか」

「だめです。私が叱られます。さあ、戻りましょう」

 ウリエンスに急き立てられて、アレクサは戻っていった。

 ちぇっ、邪魔が入った。もうアレクサちゃんとは話せないな。まあいいや、だいぶ僕の魅力は訴えられたし。

 王子は鼻歌を歌いながら館へ戻っていくと、次の作戦を考え始めた。

 その頃、ロクサーヌ夫人も動き始めていた。彼女は初めの会食で、公爵が理知的な会話を好む人間だと見抜いていた。

「公爵様、ロクサーヌ夫人が図書館でお相手をしていただきたいとのことです」

「ロクサーヌ夫人が? はて……」

 一度食事をしただけの仲だが、なんの用事だろう。しかし、呼ばれた以上は行かねば礼を失するというものだろう。仕方なしに、支度をして出ていった。

 図書館へ行くと、うららかな日差しが差すなかロクサーヌ夫人が一冊の本をじっと読んでいた。

 紅い唇が、つやつやと光って陽光に輝いている。

 この女が未だ独身とは、周りの男たちはなにをしているのかな、などとちらりと考えながら、アルヴァロッドは歩み寄った。するとその気配でわかったものか、彼女は顔を上げた。

「ウィグムンド公爵。来てくださいましたの」

「お呼びとあらば。ご用でしたかな」

「『サン・バルアルミの虐殺における歴史の考察』の公爵様のご意見をお聞きしたくてお呼びしましたのよ」

 本を閉じ、そこに置くと、ロクサーヌ夫人はこちらに屈んで見せた。胸を大きく開いた服を見せ、さらに白い足を根元まで机に置いて、彼女は言った。

「どうお考え?」

 アルヴァロッドはこほん、と咳払いを一つして、視線を彼女の顔に留めたままこたえた。

「アンリⅦ世とレイラ王妃の痛ましい王位継承権争いの末の事件、と考えるのが妥当でしょう」

 ロクサーヌ夫人は彼に近づいて、懇願するような瞳で見上げた。

「枢機卿については?」

「言わずもがなです」

 彼女の息が、アルヴァロッドの顔にかかるほど近くまで来た。

「では、二人の恋人については」

 アルヴァロッドは、平然としてこう言った。

「とうとう結ばれなかったと言っていいでしょうな」

 では、これで。彼はそう言って、図書館を辞した。

 ロクサーヌはちっ、と舌打ちして、もっと直接的に攻めるか、と考え直した。ああいった手合いは、わかりやすくするしかない。

 三日後、温泉にやってきたアルヴァロッドは、湯に入ろうとして先客がいるのに気がついた。湯けむりを透かしてよく見てみれば、そこにいるのは驚くべきことに女性である。

 ぎょっとしているとその女性は振り向いてこちらを見たかと思うと、にやりと笑って言った。

「公爵様、逃がしませんわよ」

 その女性は、まぎれもなくロクサーヌ夫人であった。

 アルヴァロッドはさすがに驚いて、声を上げた。

「こんなところでなにをしているのです」

「既成事実を作りに参りましたわ」

「あなたとは作りません。失礼」

「そうはいきません。逃がさなくてよ」

「いえ、興味がありません」

 となんとか逃れ、服を着て、そこから表へ出た。

 やれやれ、なんだあの女は。ウリエンスと一緒にいないから、油断がならないぞ。一体なにを考えているのやら。

 とてもとても、こんなことはひとに言えたものではない。

 むっつりとして黙っていると、顔に出る。

「旦那様、お加減でも悪いのですか」

 アレクサが心配して、声をかける。

「いや、なんでもない」

 そう返事をするしか、ないのである。

 二番目の月、薄梅紫も終わろうとしている。

「貴族諸侯、春が来ようとしている。静養も終わりだ。そこで、ここ青と白の館で最後の宴を開こうと思う。名残惜しいけれど、みんな楽しんでね。そしてまた、あの海辺のロレーナにみんなで帰ろう」

 王子は貴族たちを呼び寄せて、そう言った。

 アルヴァロッドとアレクサは正装して、ウリエンスは騎士の紋章をつけ青と白の館に行き、ローレンは留守番だ。

 アレクサは碧色の衣装を着た。燃やされてしまった母の晴れ着と同じ、碧色。

 お母さん。あの晴れ着はなくなってしまったけれど、こうして私はまた碧色を取り戻した。だから、また一緒。ずっとずっと一緒。忘れない。私は忘れない。

「きれいだよ」

「ありがとうございます」

 アルヴァロッドと腕を組んで、青と白の館に赴く。ウリエンスはその後ろに影のようについていった。

 食事が運ばれて音楽が奏でられ、じきに踊りの時間となった。アレクサもアルヴァロッドに誘われ、一曲だけ踊った。

 大広間は冬とはいえ、人いきれで物凄い熱気である。アレクサは汗をかいて、少し涼もうと思いテラスに出た。

「大丈夫?」

 後ろから、王子が声をかけてきた。

「あ、殿下」

「はい飲み物」

「あ、ありがとうございます」

「暑いから、汗かいちゃうね。少し涼まないと」

「本当に、とても暑くて驚きました」

「ねえ、あっちにいかない? いい場所を教えてあげる」

「え? でも」

「いいからいいから。こっちだよ」

 と、手を引かれてついていけば、大広間から抜け出していってなにやら別の部屋である。

「殿下、ここは……」

「平気平気」

 夜のことである。暗くて、誰もいなくて、不気味だ。

 ふと、不安になった。

「あの、私」

「アルヴァはね」

 アレクサがなにか言おうとすると、それを遮るようにアレクサンダーは言った。

「いつも一番だったよ。僕よりもできて、いつもね。そんなあいつが、僕は羨ましかった。

 だからわざと意地悪して、あいつが困ることしてた」

「――」

「あいつが困る顔するたび、ああ、アルヴァも人間なんだ、できる奴も困ることあるんだって安心してた。最低だよね。でもそうでもしないと、あいつは完璧すぎて怖かった。近寄れなかったんだ。僕が太陽だなんて嘘だ。あいつが太陽なんだ」

「殿下……」

「そんなあいつの愛した女を奪ったら、あいつはどんな顔をするだろうね」

 アレクサンダーはアレクサの顎に指を這わせた。

「――」

 アレクサが思わず硬直したその時、背後から声がかかった。

「アレクサ様」

 ウリエンスだった。

「ああよかった。お探ししました」

「ウリエンスさん」

「こんなところにいらしたんですね。さあ行きましょう」

「ちょっと待ってよウリエンス。アレクサちゃんは僕と大事な話をしてるの。引っ込んでてよ」

 ウリエンスはアレクサを自らの長身の陰に庇った。

「だめです。アレクサ様は私と行くんです」

「へえ、そんなこと言っていいの。僕は王子だよ。僕に逆らったら、お前なんてどうなるかわかったもんじゃないよ」

 ウリエンスは王子を正面から睨み据えて、吃として言った。

「私はウィグムンド公爵にお仕えしているのであって、あなた様にお仕えしているのではありません」

「――」

「失礼します」

 さあアレクサ様、と背中のアレクサにむかって言うと、ウリエンスは王子から目を離さずに歩きだした。

 その背中を見送りながら、アレクサンダーはふふふ、と笑っていた。

「あははは。行っちゃった。振り返りもせずに、行っちゃった。王子の僕が誘ってるのに。

 この僕が。負けちゃった。ふふふふ。あはははは」

 王子はおかしそうに笑い出し、その笑い声はやがて闇に大きく響き渡った。



 アレクサがいなくなって、ウリエンスも消えた。

 アルヴァロッドは二人を探して、大広間のなかを歩き回っていた。ウリエンスは、きっとアレクサといるのだろう。しかし、そのアレクサはどこにいるというのだ。

 なにか、いやな予感がする。

 すごい人いきれで、喉が渇いてきた。給仕が通りかかったので、そこから飲み物を取って飲んだ。

「ウィグムンド公爵様」

 はっと顔を上げると、あの女がいた。

「お探し物ですの」

「あなたに構っている暇はない。失礼」

「あら残念。アレクサ様なら、わたくしの部屋におりますわ」

 アルヴァロッドは振り向いた。

「なに?」

「あなた様の愛しい婚約者様なら、わたくしと一緒に先ほどまでわたくしのお部屋にいて、今は休まれています。お会いになられますか」

「……」

「どうなさいましたの。恐いお顔」

 疑いながらも大広間にアレクサの姿はなく、ロクサーヌの部屋に彼女がいるというのならそれを信じるしか他にない。

 仕方なしに、アルヴァロッドはロクサーヌについていった。彼女の居室は、青と白の館のなかにあるらしかった。貴族としてどれだけの地位にあるかは知らないが、王族の住む館に住まうとは異例のことである。

「あなたと王子はいったいどういった関係なのです」

「まあ、やきもちですの」

 彼の少し前を行きながら、ロクサーヌは笑って言う。

「馬鹿な……」

 アルヴァロッドは舌打ちをして、それについていく。この女がなにを考えているのか、まったくわからなかった。

「さあ着きました。ここですわ」

 と招き入れられてみれば、立派な設えの大きな部屋である。

「アレクサ?」

 なかは真っ暗で、ひとの気配はない。

 アルヴァロッドが周りを見回していると、ロクサーヌ婦人が部屋の蝋燭に火を点けて回った。

「彼女はどこだ」

「じきに参りますわ」

 ロクサーヌは机の上の酒瓶を手に取ると、杯にその中身を注いだ。

「お飲みになって」

「いらぬ」

「そうおっしゃると思いましたわ」

 ふふふ、と妖艶に笑って、ロクサーヌは代わりに自分で酒を飲んだ。

「まあお座りになってくださいな。お待ちいただければ、そのうちアレクサ様は参りますから」

 やれやれ。アルヴァロッドはため息をついて、そこにあった椅子に乱暴に座った。

 その様子を、ロクサーヌはするどい視線で見守っている。

「暑いな」

 アルヴァロッドは襟を緩めた。ふふ、ロクサーヌはそれをいたずらっぽく聞いている。

「先ほど、王子とわたくしの関係はどのようなものかと、お尋ねになられましたわね」

「ああ」

 アルヴァロッドは顔を扇ぎながらこたえた。おかしいな。なぜこんなに暑いのだ。

「わたくしの亡くなった夫は、ある貴族でしたのよ。王子にお仕えする」

「……そうでしたか」

「国王陛下ではなく王子にお仕えしていたということで、王子は特に夫に目をかけてくださって、それで夫の死後もわたくしにこうしてよくしてくだすって」

 汗が滲んできた。動悸がする。なぜだ。どうしてこんなにも暑い。

「でも独りではどうしても寂しくて、あちこちの男に身を任せるうちに王子に弱みを握られてしまって……」

 ロクサーヌの声が、どんどん弱々しくなっていく。

「なんですって?」

 暑い。暑すぎる。

「そろそろき薬が効いてきたようね」

 コツ、コツ、コツ。

 勝利を確信した顔で、ロクサーヌが近づいてきた。

「先ほど給仕から飲み物を取りましたでしょ。あれに薬を仕込んでおきましたの。ちょっとした媚薬をね。飲んだら殿方の殿方の部分が、興奮する薬を」

「な……ん」

「じきに、女が欲しくて欲しくて仕方なくなるでしょう。その時目の前にわたくしのような女がいれば、することは一つですわよ。公爵様」

「……」

 くそっ、目がかすむ。

 ロクサーヌが自分を覗き込んで、膝に跨ってきた。

「降参して、楽になっておしまいなさいな。自己を解放すると、それはそれは気持ちのいいものでしてよ」

 やわらかい女の太腿が、股間に押しつけられる。耳元で、女の妖艶で甘い囁きが聞こえる。

「ほら、無理をしないで。一緒に快楽を楽しみましょう公爵様」

 アルヴァロッドは観念して、目を瞑った。

「かわいらしい公爵様……たっぷりかわいがってあげる」

 ロクサーヌがその顔を舐めまわそうとしたその時、アルヴァロッドの唇の端から血が一筋流れた。彼女は思わず目を見開いて、身体を起こした。

「おのれ、舌を噛んだな」

 アルヴァロッドはふらふらと立ち上がり、椅子の背に掴まりながら口の血を拭った。

「アレクサを裏切るくらいなら死んだ方がましだ」

「そうまでしてわたくしを拒むか」

「帰らせてもらおう」

 身体が熱い。足元がふらつく。

「女に恥をかかせるおつもり?」

「勝手にかいてろ」

 捨て台詞を吐いて、アルヴァロッドは部屋を出ていった。

 廊下は寒く、それが火照った身体に心地よかった。口中、血の味がする。

 早く、早く人気のいる場所に行かねば。早く。

「公爵様」

 廊下のむこうから、馴染みのある声が聞こえてきた。

「ウリエンスか。どこに行っていた」

「は、アレクサ様をお探しして、お部屋にお連れしていたところでございます」

「そうか。大儀であった」

「どうかなさったのでございますか」

「いや、ちょっとな。それより、頼みがある」

「なんでございましょう」

「私は事情があって、少しの間部屋に戻れない。剣の稽古の相手をしてくれ」

「今から、で、ございますか」

「今でなければならんのだ」

「は、かしこまりました」

「なあウリエンス」

「はい?」

「私は、操を守ったぞ」

「はっ?」

「そうアレクサに伝えてくれ」

 そう言って鍛錬場に歩いていくアルヴァロッドを、ウリエンスは不思議そうに見つめている。


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