ユキシタ・ナナミのメモリィ

 覚えていることがある。


 ユキシタ・ナナミは群馬県の、山側に近い地域の生まれである。小学生の頃は地元で過ごし、中学一年生の秋に両親の都合で東京へ引っ越した。だから夏休みのたびに父方の実家(いわゆる“おじいちゃんの家”だ)の帰省についていくことはあっても、小学生の友人など誰も覚えていない。また中途半端な時期に転校したこともあってか中学生になっても友人が出来ず、そうした思春期は彼女を内向的な性格にさせた。

 東京に来て夜更かしが許されるようになった頃、初めてリアルタイムで見た深夜アニメがきっかけになり、彼女の趣味は特定の方向に加速していくのだが――それはともかく。


 半年あまりを過ごしただけの、群馬の中学校。そこは少し歪な作りをしていた。昭和半ばほどからある古い校舎をベースに建て増しを繰り返し、まるで迷路のような複雑な形になっていた。新しい校舎を歩いていたと思ったら急に景色が変わり、廊下も木造張りになる。どこか違う世界に迷い込んだかのような異様な感覚。大人になった今でも、ナナミはそれをよく覚えている。

 そして旧校舎には言い伝えがあった。二階だか三階だか、化学室の前だか曲がり角だか忘れてしまったが――とにかく「旧校舎にある特定の廊下を夕方になったら一人で歩くな」というものだ。明文化されるでもなく、生徒の間で代々受け継がれる程度の小さな“言い伝え”。

 もし歩いてしまったらどうなるのか。一応そこまでも言及はされている。新校舎に戻れなくなるとか、ン十年前に亡くなった女子生徒に誘われて行方不明になるだとか、三日後に死んでしまうとか、オチは色々。ただしどれもが曖昧で、あるいは大幅に脚色されている。唯一具体的なのは「旧校舎にある特定の廊下を夕方に一人で歩くな」というくだりだけ。


 当時、ナナミはそれを破ったことがある。破ろうとして破ったわけではない。そんな手順があることも知らず、偶然に迷い込んでしまっただけだ。一学期末の、湿っぽく暑い、曇り空の日。授業のプリントを提出しにいこうとして、たまたまそうなった。

 そして彼女は見た。木造作りの廊下の角、黒く澱んだ何かが半身を乗り出していた――“それ”と目が合ってしまったのだ。いや、目などなかったか。それは黒いモヤモヤのような何かでしかなかった。けれども視線は感じた。“意識の波長が合ってしまった”と言うのが正確かもしれない。ナナミと目が合うと“それ”は低く唸ってどろりと溶け、そして消えてしまった。

 ナナミがその後にどうなったか、といえば、どうもなっていない。新校舎には戻れたし、亡き女子生徒の霊に誘われて行方不明になることもなかったし、もちろん死んでもいない。何か不気味なモヤモヤを見た、というだけだ。

 手順についても後から知った。同じ経験した人間が他にいたかも聞こうと思ったが、ついぞ出来ずじまいだった。その噂を後から聞くこともなかった。

 それからクラスメイトや家族に言うこともなく、心のうちに秘めたまま「時が経ったら思い出話のひとつにでもしてやろう」くらいに思っていたものの、結局、数ヶ月後にナナミは転校してしまった。だから、その時のことも誰にも言っていない。


 今になって、ナナミはそんなことを思い出す。


―――


 もう一つ、覚えていることがある。


 ナナミが幼い頃、祖父は彼女に「夜に仏間に一人で行くな」という“教え”を説いていた。単なる信心の問題だと、祖母も両親も笑っていた。けれど実際、ナナミはそこで何かの気配を感じたことがある。何歳の頃だったか、夜中にどうしてもトイレに行きたくなって、仏間の横を通り過ぎた時。横開きの襖はしっかりと閉まっているはずなのに、隙間から視線を感じたのだ。閉じているのになぜか開いているような……ナナミはその異様な感覚と気配に思わず立ち止まってしまった。けれどその気配はナナミを確認すると、すぐにどこかに掻き消えてしまった。

 それからどうしたか。別にどうなってもいない。気分が悪くなったわけでもない。体調を崩したわけでもない。翌朝になってもナナミは夜のことを家族に伝えることはできなかった。きっと寝ぼけていただけで、祖父からあんな話をされたからびびってしまっただけなのだろう、と思うことにした。しばらくは正体不明の不安感もあったが、そのうちに忘れてしまった。


 やがて年月は過ぎ、ナナミが大人になった頃。その“教え”は当の祖父でさえも忘れてしまっていた。最後に訪れたのは一昨年の夏だったか、夜になっても気軽に仏間に足を踏み入れていたし、電灯が切れて真っ暗になっていても、ガラケーのライトを使って足下を照らしつつ奥にある缶ビールのケース(お中元で貰ったものだ)を取ってきたりしていた。ナナミの小さい頃は厳格で、たまに大工の話をする時だけ笑うような“こわいおじいちゃん”だったが、今はもうすっかり丸くなったし、酒だって弱くなった。

 時が過ぎれば環境も人間も変わる。そして、たぶんそれ以外のものも変わる。だからもうあの仏間も恐れるようなものではなくなってしまったのだろう。それでもナナミだけは“教え”を覚えていたし、まだ夜に仏間に一人で入ろうという気にはならなかった。


 今になって、ナナミはそんなことを思い出す。


―――


「気にしないこと。見ないこと。見なかったことにすること。それでいいんです。機器の故障と違って、放っておいても基本的にそれ以上悪くなるわけじゃないので」


「でも。そのままにしておいても、悪くなるわけじゃないけど、良くなるわけでもない」


―――


 そういえば、他にも分からないことがある。


 祖父が“教え”た「夜に仏間に一人で行くな」はきっと彼の経験則だ。実際に入って、祖父は何かを見た。だから幼いナナミにもそう伝えた。けれど「旧校舎にある特定の廊下を夕方に一人で歩くな」という“言い伝え”は、いつどこで誰が伝えたものなのか。言い伝えがあるということは、つまりあの黒いモヤモヤした何か、あるいは何か別のモノに遭った人間が他にもいるということだ。


 一体誰が何を見たのか。教え(言い伝え)を破るとどうなるのか。

 何があって、何が起こるのか。誰が書いたモノなのか。


 機械の修理なら因果関係がある。起きた原因があって「こうすると危ない」「こうすれば直る」という手順がある。それらも書かれていないままの「こうしろ」「こうするな」というだけの文章は、実際のところ何とも繋がっていない。


 ナナミのポケットにある、カタバミ生命社員向けの“裏マニュアル”。


 作成者は不明。

 そして地下三階の詳細についても――そこには書かれていない。

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