カタバミ生命西立川ビルの怪(2)

 事の起こりは少し前に遡る。


 カタバミ生命西立川ビルにあるエレベーター二号機にまつわる話だ。

 夜間利用のための裏マニュアルはあるものの、昼間に異変が起きることはまずない。元々“いわくつき”だから古参の社員はあまり使いたがらないものの、ナナミのように入社して間もない社員は構わず使ったりもする。そもそも、このことを知らない人間も多い。

 ところが最近になって、社内で原因不明の体調不良者が数名ほど出た。風邪でも流行病でもなく、病院に行ったところで“疲労”と診断されるのがオチの軽い体調不良程度ではあったが、それらの者に共通するのは若い社員……特に、高階層の部署でエレベーターをよく利用する人間だった。


「ユキシタさん。最近、気分悪くなったりすることってない?」

「ないですけど。というか、部長、セクハラですかそれ」

「別に。そういうわけじゃないんだよ。そういうわけじゃないんだけどね」


 もちろん因果関係など証明されるものではない。エレベーターの機器的な不調もなく、カゴ内の有害物質も検知されず、酸素濃度も正常。しかしカタバミ生命総務部の部長は“何か”を感じとったらしく――通常のエレベーターメンテナンスに続き、特定の“メンテナンス”を請け負う『蘆屋ビルメンテナンス』への依頼が同時に行われた。


 そして派遣されてきたのはメンテナンス員、ヒカル(仮名)。さらに内部の案内役として命じられたのが、総務部所属の入社二年目社員、ナナミである。


―――


「ナナミさん、裏マニュアルには何と書いてありますか」

 片開きドアの右隙間に銃口を捻じ込んだまま、ヒカルは視線と意識を前方に集中させながらナナミに問うた。その言葉には少しの震えも動揺もない。

 ドアは銃口を挟み込んだまま強引に閉じようとしている(本来、エレベーターのドアは何か障害物を検知すると挟み込み防止のドアセイフティが作動する)。さらにその銃口は不自然にカタカタと振れ、はね除けようとするような力が働いていた。

「“あるはずのない地下三階”に降りてしまった後のくだりです。“ドアがゆっくり開きはじめたら”。そこには何と?」

「え、あ、は、はい、あの」

 目の前で起きた事態にナナミはその場に立ち竦んでいたが、ヒカルの声によって我に返る。慌ててポケットから折りたたまれたコピー用紙を取り出し、震えておぼつかない指で開く。

「“もし地下に降りてしまって、ドアがゆっくり開きはじめたら、決して振り向かないでください”」

「それで?」

「“後ろにある鏡を見ないようにして、閉じるまでその場で待ってください”」

 そこまで裏マニュアルを読み上げて、二人はしばし沈黙する。


「つまり」

「“後ろの鏡を見ろ”ってことですね」

「や、や、やるんですか」

「どうせだから二人で見ましょう」

「なにが、どうせだから、なんですか」

 マニュアルを確認し“やってはいけない”と言われたことをやる。それが今回の業務に求められることだ。振り向きたくはない。でもやるしかない。大丈夫だ。きっとヒカルがなんとかしてくれる。たぶん……おそらく!

「いいですか」

「いいもなにも」

「じゃあ、いっせーの、で」


「いっせーの」

 ナナミ半身を翻すように、ヒカルはショットガンを保持したまま首だけで、それぞれ振り向く。

「せっ」


 エレベーターの鏡に映ったもの。そこには、ドアの隙間からのぞく目と、ショットガンの銃口を掴む土まみれの手があった。ドアが強引に閉じ、銃口が不自然に振れていたのは――つまり、ドアの向こうにいる“何者か”がそうさせていたのだ。


 その目はやけにぎらついていて、鏡ごしに二人をじっと見つめていた。隙間からは微風と共に、いやに生ぬるく湿気った空気が入り込んでいる。


「――……っ!」

 ナナミが声にならぬ声をあげ、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。


 ヒカルは素早く状況を確認するやいなや“何者か”に向けて発砲する。

「ひゃっ!」

 カゴ内部に大音量の銃声が響き、ナナミは鋭い悲鳴と共に頭を押さえて赤ん坊のようにうずくまる。そしてヒカルの発砲をきっかけに、エレベーター全体もまた激しく反応した。オフホワイトの内部照明が明滅し、カゴ全体ががくんがくんと不自然に揺れる。あまりの振動にヒカルの体勢が崩れ、挟み込んでいたショットガンの銃身を思わず引いてしまう。


 途端にドアは勢いよく閉まり――カゴの内部には再び静寂が訪れた。


「……」

「……」


「終わった、ん、ですか?」

「いえ」

 頭を押さえたまま、ナナミは目線だけでヒカルを見つめる。ヒカルはショットガンのフォアエンドを引いて排莢し、操作パネルの『1』を押す。


「とりあえず、一度戻りましょうか」

 床に転がるナナミの目の前に、薄く煙を吹くプラスチックの空薬莢が落ちる。


『上に参ります』


 そしてエレベーターは何事もなかったかのように再びモーターを駆動させ、カゴを上昇させていった。


―――


 数刻後。カタバミ生命西立川ビル、一階ロビー。


 薄暗いロビーのベンチで放心するナナミに、ヒカルが大型ケースを持って近づいてきた。時おり外を走る車の音、非常灯が放つ緑色の光源さえ、今は心穏やかに感じられない。

「落ち着きましたか」

 ショックを受けたナナミとは対照的に、ヒカルのテンションはまったく変わっていない。先ほども「もう一服してくる」と言って、それで戻ってきた。

 エレベーターに起きた怪現象、あるはずのない地下三階、そしてドア前にいた“何者か”の抵抗。ヒカルが取り出した“仕事道具”の正体。場慣れしているというだけかもしれないが、こんな異常な状況でまで顔色一つ変えないヒカルは一体何なのか。

「あたしの顔、何かついてます?」

「なんでもないです、けど」

「そうですか。あとこれ、さっきと同じやつですけど、いいですか」

 ヒカルは持ってきたミニサイズボトルのほうじ茶をナナミに渡す。一服ついでにまた買ってきたらしい。希望したわけではないが、こういう時には確かにありがたい。

「ガムのお礼に、ってさっき買ったのに、また貰っちゃいましたね」

「まあいいんじゃないですか。あ、じゃあ、ちょっと準備を手伝ってください」

 ヒカルは持っていたスマートフォンをライトモードにし、ナナミに渡す。背面に『おいかわ(なんか美味しそうでかわいそうなやつ)』のキャラのステッカーが貼られた、おそらく彼女の私物と思われるもの。

「それであたしの手元を照らしててもらえますか。ケースのへん」

 言われるままに照らす。ケースに戻されたショットガンは妙に寸詰まったフォルムをしており、さらに黒いストックとフォアエンドをのぞく全身が銀色をしている。

「室内戦用の取り回しのために銃身だけソードオフしてます。そのせいで、さっきはフォアエンドがドアに噛んじゃったんでヤバかったんですけど」

 黒と銀のツートーンは、スマートフォンのライトを浴びてバカバカしいほどにギラギラと光っていた。

「これは金属部をクロームステンレス製に変えた、いわゆるマリーンマグナム。元は沿岸警備隊とかが使うモデルで……といっても、特に海辺とは関係ないんですが、ほら、どうしてもあたし達の仕事って“塩”をよく使うんで」

 聞いてもいないのに淡々とよく喋る。相変わらず無表情だがやけに楽しそうだ。そういえばナナミの祖父は大工を生業にしていたが、幼い頃に大工道具について延々と聞かされた覚えがある。女の子にそんなことを言ってもわからないでしょ、と祖母に言われても、楽しそうに喋っていた。たぶん、それと同じようなものなのだろう。

「あ、左にライト向けてもらっていいですか。はい、そこでいいです。……で、これが岩塩弾。主な用途は鳥獣駆除用、暴徒鎮圧用、あと霊体鎮圧用」

 ヒカルはショットシェルを数発取り出し、ナナミに見せてみせる。白、赤、青とカラフルなプラスチックケースの12ゲージ。表面にはマジックで何かの文言が書かれており、まるで駄菓子の詰め合わせのように十数発ほどケースに納められていた。

「お清めもしてもらってます。そのせいで一発あたりの経費もバカにならないんで、あんまりポコポコ撃つなって言われてるんですけどね」

 ナナミは銃のことなど詳しくない。ただヒカルが言うには、お祓いには古来より変わらず清めの塩が効くし、現代ではこのような形で“吹っ飛ばして”やることも可能なのだという。

「さっきので怯まなかったとすると、今回はこれじゃなくて……とすると、たぶんこっちの術式のほうが……とびきり高いやつだけど、まあ仕方ないか」

 ぶつぶつと独り言ちながらショットシェルを品定めするヒカル。やがて青のシェルを取ると、一発ずつショットガン下部のローディングゲートに滑らせていく。しゃこ、しゃこ、と独特の音だけが静かなロビーに響き渡る。計四発。入り切らなかった残りはパーカーのポケットに入れる。


 彼女は変わらずマイペースであり、それはナナミに安心感すら覚えさせる。

 そもそも現代日本において実銃を見ることなどそうそうない(このあたりも蘆屋ビルメンテナンスという会社が“まっとうではない”ことがよく分かる。まっとうではないモノを相手にするからには、ここまでする必要があるのだろう)。気軽に持ち歩いていいものなのかはともかく、しかし銀ピカに光る銃とそれを操るヒカルは、今のナナミにとっては唯一の頼みの綱であった。


―――


「オバケっぽいのを見たのって、あれが初めてじゃないんです」

 なんとなく沈黙が続くのが嫌で、ナナミは自ら喋り出す。

「おじいちゃんの家とか、夕方の学校とか。ふと視界の隅を見たりすると、ああ、なんかいるなって。さっきみたいにはっきり見えたわけじゃないし、それもほとんど子供の頃で、最近はほとんど見かけなくなってたんですけど。……今日までは」

 ナナミはほうじ茶をもう一口含む。

「だいたいそういう時って、入るなって言われてる部屋とか、行くなって言われてる場所とかありませんでしたか」

「あったかな。そういえばあったかも。おじいちゃんからは、夜に仏間に一人で行くなって言われてましたし」

「気にしないこと。見ないこと。見なかったことにすること。スルーする方法が分かったら、そうする。それでいいんです。機器の故障と違って、放っておいても基本的にはそれ以上悪くなるわけじゃないので」

「はあ」

「でも、悪くなるわけじゃないけど、良くなるわけでもない。わざと刺激しなくても、たまにこちら側と干渉してしまって害が出る。軒下に作られた蜂の巣みたいなもので。そんな時に呼ばれて“修理”とか“駆除”をする仕事なんです。あたし達は」

 軒下に作られた蜂の巣。そんな風に例えられると、なんだか“そういうもの”に見えてくる。やっぱりこの人はプロなんだな、とナナミは思う。


「ところで“あたし達”ってことは、他にも――」

 言いかけたところで、ヒカルはケースを閉じた。準備とやらが終わったらしい。

「そろそろ行きましょうか」

「あ、はい」

 色々と聞きたいこと(あるいはツッコミたいこと)はあったが、あまり根掘り葉掘り聞いていいものではないのかもしれない、とナナミは思う。

 いずれにせよ、ナナミの精神はだいぶ落ち着いてきた。そう。ヒカルほどではないにせよ、彼女が人ならぬものを見るのはこれが初めてではない(目の前でショットガンをぶっ放されたことにはさすがに驚いたが)。もちろん、怖いものは怖い。けれど来ると分かっているものが来るなら恐怖感も青天井ではない。たぶん。おそらく……。


「あ、ところでナナミさん。どっか痛いとかダルいとか、そういうのはないですか」

 精一杯のやる気を出してベンチから立ち上がろうとするナナミに向けて、ヒカルは思い出したようにそう問うた。

「痛いことは痛いですけど」

 先ほど腰を抜かして床に転がったせいで、ナナミは身体のあちこちを痛めていた。

「打撲じゃなくて。気分が悪いとか、吐き気がするとか」

「緊張して吐きそうで」

「あー、その、全身が重くなるとか、へんなところがズキズキするとかって意味で」

「……? いえ、そういうことは別に」

「そうですか」

 またしても何か一人で納得した風に頷き、ヒカルはパーカーの内ポケットからピルケースを出し、中にあった白い錠剤を二錠ほど口にする。そして口に含んでから水がないことに気づき、ナナミの横に置いてあったほうじ茶のボトルを取って飲み込む。

「じゃあ大丈夫です」


 だから、何が大丈夫なのか。


―――


 再び『修理中』の命札をドア横にかけ、二人はエレベーターへと乗り込む。


『ドアが閉まります』


 エレベーターに先ほどの異常な動きは一切見られない。このまま希望の階のボタンを押せば、カゴはそこまで運んでいってくれるだろう。

 一階から六階まではカタバミ生命の各部署が入るオフィス。地下一階は会議室。地下二階は倉庫。倉庫については多くの社員が入ったことすらない(存在すら知らない、という人間もいる)ものの、総務部所属であるナナミは過去の書類を引っ張り出すために何度か入ったことがある。多少ジメジメして生ぬるい空気が漂っているのが気にはなっていたが“オバケ”を見たことなど一度もなかった。


 前回同様、マニュアルの逆を行うため、どのボタンも押さずに待機する。


「そのパーカーって“ベルクマン”のやつですか」

 やはり沈黙に耐えられなくなったナナミは、どうでもいいことを聞いてしまう。口に出してから「ちょっと喋りすぎているな」と思ってしまった。緊張感のせいか。

「そうです。特に制服とかもなくて、何着てもいいんですが。でもこれ、ポケットも多いし丈夫だし、いいですよね」

 だがヒカルはエレベーターの各所に視線を移しながら、意外にも話題に乗ってくる。

「私も普段着で着てます」

 ベルクマンは全国に店舗を持つ大型のホームセンターだ。そこで売る衣服も、元は職人向けの無骨なツナギなどばかりだったが、最近になって女性向けのカジュアルなものを展開するようになった。機能的かつ安価、しかもダサいわけでもなく、元より着飾って出かける用事があるわけでもないので、今のナナミにはうってつけである。

「ベルクマン女子、とか言われちゃって」

「言われてますね。ベルクマン女子。じゃ、あたし達、ベルクマン仲間ですね」

 振り返って見せたわけではないが、ヒカルの声に微妙な笑みが含まれているのが分かった。それがまた少し、ナナミの心を落ち着かせた。


 やがて――そんな会話をしていた最中、エレベーターが再び駆動した。


『ここから出してください』


 機械アナウンスと共にカゴが下降する。デジタルサイネージには『≡』の文字。ヒカルは会話を止め、床のケースを開けてショットガンを構える。

「蹴らなくても開くんですねそれ」

「これで二回目。向こうもこっちを分かってるはずで、もう隠す意味もないので」

 ヒカルの声色が変わっている。その張り詰めたトーンに、ナナミの身体も緊張感でまた固くなっていく。そして。


『声をあげないでください』


 再びカゴ内に機械アナウンスが響き、カゴが下降を終える。二人の視線は片開きのドアに集中する。だが、ドアが開く気配はない。

「ナナミさん」

「はい」

「もう一回、あのマニュアルを読み上げてもらってもいいですか」


 ナナミはコピー用紙に書かれたマニュアルを読み上げる。


>もしドアがゆっくり開きはじめたら、決して振り向かないでください

>後ろにある鏡を見ないようにして、閉じるまでその場で待ってください


「その次です」


>もしドアが開かなかったら、そのまますぐに『1』を押して一階に戻ってください

>決して無理に開けないでください


「……ああ。ええと、つまり」

「無理に開けろ、ってことです」

 ヒカルはそう言うと、ナナミと同様にパーカーのポケット(ベルクマンのパーカーは大量にポケットがある)からまたメモ用紙を取り出し、それを見ながらエレベーターの右側操作パネルの前に立った。そして持ち替えた左手でショットガンの銃口をドアに向けたまま『開』と『閉』を左指で同時に三回押した後、素早く階数ボタンを『6』から『B2』まで一回ずつ押す。

「なにしてるんですか」

「さっき初芝エレベータの人から引き継いだ時に貰ったメモの通りにやってるんです。“修理”に必要だって言ったら教えてくれました」


 最後にもう一度『開』のボタンを押す。

 すると、機械アナウンスのないまま、開かないはずのドアが開いた。


「メンテナンス用の、エレベーターコマンドってやつですね」

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