第9話「正義の裁量 ― 勇者の静かな怒り」

 隣国フェルメリア王国、王城の一室。

 アルヴィン・ド・エルネストは、外交使節としての任務を帯びてこの地を訪れていた。

 表向きは魔物討伐協定の最終調整。だが、その裏で彼の意識は常に“王都エルメス”を向いていた。


 彼の前には、王都から届いた書簡と報告書の束が置かれている。


 その一枚――“リシェル・ド・エルネスト、襲撃を受け軽傷”という報せに、アルヴィンの指先がぴくりと動いた。

 白手袋のまま、報告書をそっと置く。


「……失敗か」


 静かに漏れた言葉。


 側近のクロード・グリフォードが、椅子の隣に控えるように立ち、深々と頭を下げる。


「申し訳ありません。護衛の侍女が想定以上の戦力で……」


「言い訳は不要だ」


 アルヴィンの声は変わらず静かだった。

 だが、空気が明確に冷えた。


「妹は“第二段階”に入っている。情報を拡散し、王都の空気を揺さぶる……それを我々が許せば、“正義”の価値は地に落ちる」


 彼は立ち上がり、部屋の奥の窓からフェルメリアの王城中庭を見下ろす。


「完全な秩序のためには、不和の種を摘まねばならない。たとえ、それが妹であろうとも」


「次の手を?」


「“本物”を送る」


 アルヴィンはひとつの名を口にした。


「――ライナス・ヴォルテックス」


 クロードの表情がわずかに引き締まる。


「元・聖騎士団筆頭……あの男を?」


「ああ。過去に失墜したとはいえ、腕も精神も再鍛成された。

 今の彼は、感情を排した純粋な“剣”だ。任務を完遂するには申し分ない」


 かつてカイル・グレイヴァルドと並び立った存在、ライナス。

 聖騎士団の内紛、権力闘争、その余波で表舞台から姿を消した男。

 その彼が、今――勇者アルヴィンの手駒として蘇る。


「必要な情報を渡せ。王都の地図、屋敷の警備、リシェルの動線……抜かりなく」


「かしこまりました。ただ……エルメスには、まだアルヴィン様ご自身が戻られておらず、王宮の動きが不安定です。ご帰還の予定は……?」


「まだだ」


 アルヴィンは断言する。


「この地での協定交渉を終えるまでは戻れない。

 だが、私の“意志”は王都に届いているはずだ」


 そう言って、彼はもう一通の文書に視線を落とす。


 それは――王家諜報局宛ての王命請願書。


『リシェル・ド・エルネストは王政と秩序を乱す存在として、監視と拘束を検討すべき』


「議会を経る必要はない。王宮の裁量で提出させろ。“家族であっても例外ではない”という前例を作るのだ」


 クロードが沈黙のうちに頷く。


 アルヴィンの視線は、窓の外に遠く伸びたフェルメリアの街へと向いていた。

 だが、その奥には確かに――王都エルメスの影があった。


「正義とは、犠牲の上に築かれるものだ。たとえ血が流れても、真実が消えようとも……秩序を守ることこそが、我が使命」


 そう静かに呟くその姿には、かつての“英雄”の面影はなかった。

 ただ、“正義の名を冠した支配者”が、そこにいた。

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