第3話:奈落の産室と蜘蛛巫女の系譜
三号室へと向かう足取りは、鉛の靴を履いているかのように重い。扉を開けると、防虫剤のような、それでいて甘ったるい樟脳の匂いが、鼻腔を刺した。
翔太くんはベッドの上に起き上がり、虚ろな目で、窓ガラスに指先で延々と円を描き続けていた。彼の影だけが、異様に、病的に長く伸び、壁を蛇のように伝い、天井の換気口の闇へと、吸い込まれるように消えていく。
「ねえ、お姉さん。秘密、教えてあげる」
少年の声は、乾いた砂利を踏みしめるような、不快な質感を伴っていた。首を傾けるたびに、骨と骨が軋む、嫌な音が響く。
彼のベッドサイドには、常に古びた布製の人形が置かれている。手作りの、歪な人形。しかし、その顔の部分だけが、異様に膨らんでおり、まるで内部に、もう一つ別の……小さな頭蓋骨でも入っているかのようだ。
「この病院ね、ずっとずっと昔は、違う建物だったんだって。この下……ずっと下にね、お社があるんだよ。誰も知らない、古い古い、神様の……」
人形が、ぎくしゃく、と痙攣するように動いた。よく見れば、翔太くんの指先から、蜘蛛の糸のような、黒く粘りつく糸が幾筋も伸び、人形の首元に、臍の緒のように繋がっていることに気が付いた。
窓の外、本来見えるはずの街灯の明かりが、全て消えている。代わりに、無数の、小さな子供の手形が、内側から、ガラスを押し破らんばかりに、蠢いているのが見えた。
「あのね、ずっと、ずうっと、此処で遊んでいたいから……ねえ?」
翔太くんが、にたり、と笑う。その開かれた口の中に、私は見てしまった。乳歯が、全て、鮫の歯のように、鋭く尖っているのを。
人形の服の裾から、黒い蟻の行列が、ぞろぞろと零れ落ち、病室の床の上で、蠢きながら「タスケテ」という文字を形成し始めた。
けたたましく、非常ベルが鳴り響く。世界が再び、赤く、赫く染まる。その狂った明滅の中で、翔太くんの影が、アメーバのように不定形に膨張し、壁に張り付いたまま、ぬらり、ぬらりと、私の方へと這い寄ってくる。
人形の、膨らんだ顔の部分が、ぶちり、と音を立てて裂け、その中から、転がり落ちたのはーー先輩看護師の、あの真紅のイヤリングだった。
ナースステーションの時計は、永遠に弐拾弐時四拾五分を指し示している。三度目の、繰り返される「初めて」の夜勤。
私は、この悪夢のループの中で、ようやく一つの真実に思い至った。この病棟には、二種類の時間が流れているのだ。
壁の時計が刻む、まやかしの表層の時間と、非常灯が赤く脈打つたびに、深淵へと沈み込んでいく、真実の裏側の時間が。
「あの子たちと、あまり長く遊びすぎては駄目だよ」
先輩看護師が、いつの間にか、再び影絵のように現れ、翔太くんのベッドサイドに、粗塩を撒いていた。
塩の粒が床に触れると、蟻の文字が、しゅう、と泡を立てて消滅する。彼女の白衣の裾からは、今もなお、暗赤色の液体が滴り落ちている。しかし、誰も、何も言わない。
まるで、古い活動写真のフィルムが、映写機の熱で焼け焦げていくような、甘く、そしてむせ返るような匂いが、病棟に漂っている。
「ここが……痛いの……」
壁の向こう、四号室から、鈍い壁を叩く音と共に、少女のくぐもった声が聞こえる。患者Bの声だ。
「肋骨の……隙間から……なにか……生えてくるの……」
先輩は、それを聞いても、ただ薄く、薄く笑みを漏らすだけだった。
「ああ、例の子かい。あの子はね、可哀想に。三年前の……」
言いかけて、彼女の言葉は霧散した。いや、言葉そのものが、彼女の口元で粘液状に溶け、形を失ったのだ。
左耳のイヤリングが、生きているかのように、不自然に膨張し、耳朶から、じわりと血の露が滲み出す。
その瞬間、全ての病室のナースコールが一斉に、狂ったように鳴り響いた。呼出ランプが、痙攣する眼球のように点滅し、廊下の天井からは、無数の黒い蜘蛛の糸が、雨のように降り注いでくる。
「はやく……はやくしないと……」
翔太くんが、ベッドの上で、逆立ちをしていた。その頭部は、完全に百八十度回転し、顎からは、粘つく蜘蛛の糸のような唾液を、だらだらと垂らしている。
「お姉さんも……『仲間』に……なりたいでしょ?」
ベッドの柵を、あの不気味な人形が、尺取虫のように這い上がってくる。
膨らんだ顔の部分が、みちみちと蠕動している。中で、鋭い歯を持つ何かが、布を噛み破ろうと、蠢いているのが分かった。
非常灯が、三度、強く、赫く閃いた。
気が付くと、私は、地下へと続く階段の前に立っていた。どうやって移動したのか、全く記憶にない。
錆びついた鉄製の扉には、「立入禁止」と書かれた札が、朽ち果ててぶら下がっている。
鍵穴からは、赤黒く変色した、長い女児の髪の毛が、もつれながら絡み出していた。翔太くんが言っていた「お社」とは、この先にあるのだろうか。
階段を一段下りるごとに、皮膚から年老いた細胞が剥がれ落ちていくような、奇妙な感覚があった。壁には、昭和、大正、あるいはそれ以前の時代の壁紙が、地層のように重なり合って剥がれている。
黴臭い空気の中に、消毒薬と線香の匂いが混じり合い、古びた医療器具の残骸や、割れたランプのガラス片が、累々と堆積していた。最下層に辿り着くと、そこは、神社の拝殿のようであり、同時に、古い時代の陰惨な手術室のようでもあった。
朱塗りの柱が何本も林立し、その一本一本に、白装束を着た童の影が、縄で縛り付けられている。影の臍からは、無数のゴム管のようなものが伸び、天井の闇へと繋がり、そこから生命力を吸い上げられているかのようだった。
「ようやく、来たんだね」
振り向くと、そこに立っていたのは、先輩看護師だった。だが、違う。そこにいたのは、私が知る老婆ではなく、まだ二十代の頃の、若々しい彼女の姿だった。
左耳には、真新しい血のような赤色のイヤリングが輝き、白衣ではなく、古風な巫女装束を身に纏っている。そして、彼女の足元に広がる影には、確かに、八本の、蜘蛛の肢が生えていた。
「あの子たちを癒やし、そして『繋ぐ』のは、今度は、貴方の役目だよ」
巫女姿の先輩が、細い、青白い手を差し出した。その掌に乗せられていたのは、翔太くんの人形と同じ布で作られた、首のない人形だった。
彼女の掌から、蛍光を発する青い血管のようなものが、蔦のように伸び、私の手首に絡みついてくる。
人形の、空虚な体の中から、微かに聞こえてくるのは、規則正しい胎児の心音と、あの忌まわしいナースコールの電子音が、不協和音となって混ざり合った、冒涜的な律動だった。
次の瞬間、意識が飛んだ。
気が付くと、私は三号室で、血圧計のゴム球を握りしめていた。
ベッドでは、翔太くんが、すうすうと穏やかな寝息を立てている。何もかもが、元通りになったかのように見えた。ただ一点を除いて。
壁に映る彼の影だけが、まるで独立した生命体のように、ゆっくりと動き出し、あの忌まわしい人形と手を繋いで、輪になって、無音の舞踏を踊っていた。
時計は、やはり、弐拾弐時四拾五分を指したまま、止まっている。ループは終わらない。ただ、その深度を増しているだけなのだ。
「ねえ、お姉さん。子守唄、知ってる?」
翔太くんが、突然、ぱちりと目を見開いた。その眼球は、白濁し、溶けかけたゼリーのように、不気味に揺れている。
「この病院で生まれた子はね、みんな、歌われるんだよ。お母さんのお腹の中で。一度、二度……そして、三度目で、おしまい」
彼の細い喉元が、奇妙に透けて見えた。その奥で、小さな、黒い鈴のようなものが、ちりん、ちりんと、微かに鳴っているのが、確かに見えたのだ。
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