第7話

「舞、今日も遅くなるの?」

 形式上の祈りを捧げて、心の中で神様に毒を吐く。それでも私は、朝起きて絶望する事は前よりも減った。

 「うん。自習してから帰るから」

 「家ですればいいのに、塾でするの?」

 「そう。じゃあ行ってくるね」

 あれから私は七瀬のグループに迎えられ、しょっちゅう遊ぶようになった。

 不思議なことに全ての時間を勉強に捧げていたときより成績が上がって、夜眠るのも朝起きるのも怖くなくなった。

 人との繋がりが、私を変えた。

 「ねえねえ夏休みさ、どっか旅行行こうよ」

 「行きたい。海とか?」

 「いいねいいね。どこがいいかな」

 「イケメンがいるとこ」

 「どこの海だよ」

 みんなとくだらない話をして笑い合う。その間だけ私は家族のことも大狼さまのことも考えないでいられた。

 「あ、ごめん教科書忘れた。下駄箱で待ってて」

 「一緒に行こうか?」

 「ううん大丈夫」

 今日は七瀬と七瀬の彼氏とカフェで会う。七瀬は時々、みんなには話さない彼氏の話をしてくれる。

 「なんか舞には言いやすいんだよね。私は私、自分は自分って思ってくれてそうで」

 人気者も苦労してるんだなと、疲れた表情を見て思った。それを自分だけが知っているような気がして、自分だけに気を許してくれたような気がして嬉しかった。

 教室に戻ると、風月くんたちがいた。

 「お、委員長」

 「氷丘、忘れ物?」

 「うん。教科書忘れちゃって」

 「うわ、すげー付箋貼ってある!ねえ委員長俺にもヤマ張ってよー」

 「お前少しは自分で何とかしろよ、俺先帰るからな」

 風月くんがまた深川を牽制しながら教室を出た。制服が夏服に変わって、少し肌が焼けた気がする。風月くんはカーディガンやブレザーよりも、ワイシャツ一枚でいる方が似合っている。

 後ろ姿が日差しに照らされた小さな光の雫が反射して、より一層眩しく思えた。

 「委員長、小林とどっか行くの?」

 阿島くんが声をかけてきた。

 「うん。そうだけど」

 「危険区域の方行くの」

 「…そんな奥の方まで行かないよ?手前のカフェだし」

 「あんま、近寄らない方がいいと思うけど」

 この間も同じことを言われた。一体なんだと言うのだ。

 確かに怖い思いはしたけれど、そのあと何度も七瀬たちと危険区域を出入りしても何も起きていない。

 それに、危険があるのはどこにいたって同じだ。ニュースで流れるのはいつも普通の街中で起こる事件ばかり。なんでそんな分かりきったことを、接点のない阿島くんに何度も注意されるのか不思議だった。

 「どうしたのよ阿島ー、もしかして委員長にほの字?」

 「ヒューヒュー!」

 「やめて」

 からかってきた深川と黒澤を睨むと、二人は気まずそうに目を逸らした。

 「心配しないで。何もないから」

 「小林の彼氏、危険区域のヤツって噂あるけど平気なの?」

 阿島くんの問いにすぐに答えられなかった。

 七瀬は時々腕や腹部にアザを作ってくるときがある。二人でいるとき、彼氏の愚痴を明るい口調で零すけど悲しげな目をする。

 「大丈夫。またね」

 聞きたいことを聞けていない自分を見透かされた気がして、逃げるようにその場から立ち去った。

 「お待たせ」

 「ううん。じゃ行こっか」

 「うん」

 七瀬は私と違って要領がいい。期末テストが近づいても変わらない大量の課題を片付けながら、苛立った様子でスマホに速いスピードで指をすべらせている。

 彼氏が待ち合わせ時間になっても来ない。遅刻はしょっちゅうらしい。

 「ごめんね、時間作ってもらったのに」

 「ううん。二人でも楽しいし」

 「はー、うっざ。マジムカつく」

 見るからに甘そうなホワイトモカをストローで飲み干しながら足を組みかえる。

 「彼氏とは、いつ付き合ったの?」

 「半年くらいかな」

 「そうなんだ。中学のときにもいた?」

 「いたけど、なんかまあ子供の付き合いって感じかなあ」

 大人と子供の付き合い方の違いを知らない私には、七瀬がすごく大人びて見えた。どこまで何をしたかは聞いたことないけど、七瀬の首筋にうっすら残る内出血の跡がその中学生時代の相手との違いを物語っているのだと思う。

 「舞さー、異種恋愛。どう思う?」

 「え?…人間と、人狼同士ってことだよね?」

 「そう。ウチのクラス、仲良さげにしてるじゃん。話す分にはわかるけど、付き合うって、ねえ。どうなんだろ」

 七瀬は鼻で笑う。

 教会のことが頭をよぎった。大狼教会は人間と人狼を繋いだ神様を信仰する会。勿論、異種交配を尊重している。それどころか、会員同士でお見合いをし結婚、出産に至り、半狼、つまり準決を繁栄させることすら平和の象徴だと教えを唱えている。

 初めて知ったときは気味が悪いと思って寒気がした。人の命が目的のために生み出される可能性もあるのだと。

 両親が、私を産んだのが人と人狼の繁栄のため、混血を生み出すためだとしたらどうしようと恐ろしくなった。

 「舞?」

 「あ、ごめん」

 「具合悪いの?顔色悪いよ」

 無意識のうちにワイシャツ越しに三日月のネックレスを握りしめていた。不安を感じるときに、このネックレスが呪いのように思えて握りしめるのが癖になってしまった。

 「ううん。クーラー寒いなーって思って」

 「ほんと?なんかあったら言いなよ?」

 七瀬の心配そうな表情に絆され、つい協会のことを話したくなってしまう。だけど軽蔑されたらと思うと口に出せない。

 今までの友達にもずっと隠してきた。簡単に、さらけ出せるものじゃない。

 「わりーお待たせ」

 背後から男の人の声がかかり、正面にいた七瀬の瞳が揺れた。目尻を垂れさせ、口角を上げて「遅いよ」と少しも怒ってなさそうな素振りで手招きをした。

 七瀬の彼氏は湿度の高い今日も薄い長袖のTシャツを着ていて、ひょろりと背が高かった。色白の流し目に唇の薄い、今時のイケメンという風貌だ。

 さっきまであんなに機嫌を損ねていたのに、彼氏が現れた途端女の子の表情になった。人の恋している表情は、普段とは全く違う。

 「友達の舞。こっちは彼氏の宗介そうすけ。宗介の奢りだから好きな物なんでも頼んで」

 「俺はいいよっつってねーだろ」

 宗介くんは七瀬の頬を軽くつねり、二人で笑い合った。三人で会う約束をしたはいいけど何を話せばいいんだろう。彼が到着してから本筋が行方不明なことに気がつく。

 「よろしくね舞ちゃん」

 正面から目を合わせたとき、背筋が伸びるようだった。何もかも見透かすような遠い目をしている。

 なんだか落ち着かなくて目を逸らして会釈した。

 その後は七瀬は楽しそうに宗介くんと話し、相槌を求めるときにこちらを見る。私は参考書を片手に返事をするけどどちらの内容も落ち着かなくて頭に入らない。

 二人はぴったりと肩を寄せ合って、普通のスキンシップのはずなのに自分のほうがなんだか気恥ずかしくて視線を逸らすと宗介くんの手首の数珠が目に留まった。

 男の人がつけているのはあまりイメージがない、ピンク色の真珠。流行りのアクセサリーか何かだろうか。

 「舞ずっと彼氏いないんだって」

 「マジで?かわいいのに。俺の友達紹介しようか?」

 「舞に合うわけないでしょ」

 「そうなの?じゃあ俺も嫌われちゃうかな」

 「いや嫌いっていうか、男の子と自体関わった事ないしよく分からないから」

 「へー。ウブだね」

 自分で質問しといてその返事がへー、とはどうなんだろう。それに七瀬の彼氏なのに、私に好き嫌いを問われてもどうしたらいいのか分からない。

 「ちょっとトイレ行ってくるね」

 七瀬が席を外し、いよいよ困った。元々男兄弟はいないし異性の友達もいない私に、友達の彼氏と言えど男の人と二人で話せる共通の話題なんてものは思い浮かばない。

 「舞ちゃん七瀬と一緒にいて楽しいの?」

 「え、楽しい、ですけど。なんでですか」

 「いや、雰囲気ちげーなと思って。変な意味じゃないよ?」

 普通の意味も変な意味も検討がつかないのでそう言われてもフォローにならない。愛想笑いでアイスティーのストローに顔を下げた。

 「あ、髪の毛入りそう」

 細長い指が私の髪に伸びた。びくっと肩が震えたのと同時にワイシャツの隙間から覗いたネックレスをその指が掴んだ。

 驚いて顔を上げると興味深そうに宗介くんがネックレスを凝視する。ドクン、と心臓が大きく跳ねる。

 「これ、大狼教会のネックレスじゃん。なに、舞ちゃん会員なの?」

 「違います」

 「でもこれ会員の人しかつけないじゃん」

 「私は違います!」

 勢いよく身を引いて椅子がひっくり返った。店内に私の声と椅子の倒れる音が響いて静まり返った。だけど危険区域にあるこのカフェでは大きな声の揉め事は日常茶飯事なのか、周りは徐々にまたそれぞれの会話に戻っていった。

動機が収まらず、手が震えた。

 「へー」

 青冷めているだろう自分の顔を、宗介くんは目を細めて眺める。背中に冷汗が流れる。

 「なに、七瀬に隠してんの?」

 「言わないで。……お願い」

 「いいよ?それぞれ事情あるしね、色々」

 椅子に座り直してネックレスをワイシャツの中に深くしまった。宗介くんはその様子を眺めながら口の端を上げているけれど、笑顔のポーズを取っているだけで目の奥が笑っていない。そんな気がする。

 弱みを握られてしまった。大きな不安に包まれながら、私はネックレスを握りしめることしかできなかった。

 宗介くんの顎を支える手首のピンク色の真珠が、怪しく光る。

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