第32話 宰相の妻は夫を連れ帰る
身体が、痛い。頭も、手も、足も、何もかも。
ああ、そうか。私、エマ様に押されて階段から落ちたんだっけ……。
ぼんやりとした思考の中、私は痛みを堪えながら目を開けた。
「え……」
目の前には、リシャルト様。
私を抱きしめてくれている。
だけど。
「リシャルト様……!?」
リシャルト様は目を瞑ったまま、動かない。
少し視線を上にずらすと、リシャルト様の額から血が流れているのが見えた。階段に落ちるとき、どこかにぶつけたのだろうか。
――どうしよう!
「……っ」
声を出したら衝撃が全身に響いて、私は痛みに顔を歪めた。
捻ったのだろうか、それとも打撲か。
結構な高さの階段から落ちてしまった。
下手をしたら骨折しているかもしれない。
私は手のひらに意識を集中した。身体中が痛くて思考がまとまらないけれど、そんなことを言っている場合ではない。
――とりあえず、私が最低限動けるようにならないと……。
痛みで集中が途切れるせいかいつもより力が弱いが、私の手のひらから光があふれ始めた。
ゆっくりと傷へ光が染み込んでいくのを感じる。
細かい傷なんか今はどうでもいい。腕が、身体が動きさえすれば今はそれで。
動けるまでに回復したのが分かると、私は重いリシャルト様の腕をどうにか持ち上げて腕の中から抜け出た。
「リシャルト様! リシャルト様! 大丈夫ですか!?」
……へんじがない。ただのしかばねのようだ。
いやいやいや、そんなふざけたことを考えている場合ではない!
リシャルト様の口元へ顔を近づける。
辛うじて息はしているようだ。だが、とても弱々しい。
――もしかして、死んじゃうの……? 私を置いて……?
私は自分の顔からさあっと血の気が引いていくのがわかった。
――そんなの、嫌だ。
私はリシャルト様の体に手をかざす。少しでも、リシャルト様の命を繋ぎたい。今はそれしか考えられなかった。
私も傷だらけだが、見たところリシャルト様の方が傷が酷い。リシャルト様が私を庇ってくれたから。
リシャルト様が身につけていた正装は階段を落ちた時に擦れたせいか、破けてしまっていた。
そういえば私の服も破れて、汚れてしまっている。フォート公爵様の亡き奥様のものだというのにこんなことになってしまうなんて、申し訳ないしただただ悲しい。
――泣いてはだめだ。泣いては。
私はぐっと泣きそうなのを堪えて、意識をリシャルト様の傷へ集中させる。
自分の傷を簡単にだが治した時は、痛みで弱々しい光だった。それが今は少し強さを取り戻していてホッとする。
「どうされました……! って、坊っちゃま!? 大丈夫ですか!?」
私がリシャルト様に治癒を始めた時、少し離れたところから慌てたように男性が駆け寄ってきた。
フォルスター家の御者だ。
戻りが遅いので迎えに来てくれたのだろう。
見慣れたその姿に安心してしまって、堪えていたはずの涙が私の頬を伝っていく。
「お願い……、助けてください!」
◇◇◇◇◇◇
御者がリシャルト様をキャリッジに乗せてくれた。私もその隣に座る。
御者は御者台に飛び乗ると、すぐに馬を走らせた。
いつもは穏やかな安全運転なのに、今日は急いでくれているようで荒々しい。
だけどそれが今はとてもありがたかった。
私は早く屋敷にたどり着くことを祈りながら、リシャルト様に手のひらをかざし続けた。
馬車に乗っているこの時間さえも活用して、治癒の力を使う。
私に出来ることはそれだけだ。治癒の力を持って生まれたことに、これほど感謝したことはない。
そして、治癒をする時にこれほど焦ったことはなかった。
今まで治癒してきた相手は、赤の他人の兵士だったから。
今治癒しているのは、赤の他人でない。
私の大切な……旦那様だ。
――そういえば……。
ふと、私の頭に階段から突き落とされた時のことが思い起こされた。
気がつけばエマ様の姿が見えなかったが、彼女はどこにいったのだろう。
まさかとは思うが、逃げたのだろうか。
――私、エマ様のことを許せないかもしれない。
自分に紅茶をかけられた時は、そこまで怒りなんて感じなかったのに不思議なものだ。
もし、このままリシャルト様が目を覚まさなかったら。
もし、このまま死んでしまったら。
きっと私は、一生エマ様を許せない。
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