第31話 宰相の妻は落ちる


 エマ様は階段の踊り場で何やらぶつぶつ言っているようだったが、降りようとしている私たちに気づいたらしい。

 腕を組んでじとっとこちらを見あげている。


「リシャルト、様」


 どうするのか、とリシャルト様に視線を向けると、リシャルト様は静かにため息を吐き出した。


「仕方がありません。このまま通りますよ」


「えっ」


「このままここにいるわけにはいきませんし……」


 リシャルト様も、さすがにこの状況には困っているようだった。

 先ほどトラブルを起こした相手がまさか待ち伏せ(?)をしているなどと、誰が予想するだろうか。少なくとも私は予想できなかった。

 ただ、リシャルト様の言う通り、確かにこのまま見合っていてもしょうがないだろう。

 だが、さっき紅茶をかけられたことを思い出してしまって、正直エマ様に近づくのが怖い。


 私が躊躇っているのに気づいたのか、リシャルト様は繋がれた私の手に少しだけ力を入れた。


「大丈夫。今は僕がそばにいます。あなたに何かあっても、必ず僕が守ります」


 この人の言葉は魔法のようだ。

 すっと私の心の中に入ってくる。

 リシャルト様がそう言うなら本当に大丈夫なような気がして、私は気持ちが落ち着くのを感じた。


「ありがとうございます」


 リシャルト様に手を引かれ、私は歩き出す。

 リシャルト様は私をエマ様から遠ざけるようにと意識してか、エマ様の視線の先にリシャルト様がくるようにしてくれていた。


「ねぇ」


 踊り場からエマ様が声をかけてくる。

 リシャルト様は反応しない。ただ、一定の速度で階段を降りていく。


「エマ、あの後最悪だったんだけど。お友だちはエマの言うこと聞いてくれなくなっちゃったし、フォート公爵様の使いの人には怒られるし」


 怒った口調でエマ様が言う。

 お友だちとは、お茶会でエマ様を囲んでチヤホヤしていた貴族男性のことだろう。

 どうやらあの貴族男性たちは、紅茶を人にかける令嬢とは距離をとるくらいには正常な感覚をもっていたらしい。

 アルバート様なら、エマ様が私に紅茶をかけたところで引くどころか喜びそうだが。


「全部全部つまんなぁい! それもこれも全部聖女様のせいでしょ!?」


「……っ」


 イライラとしているエマ様は、私に向かって強い言葉を投げつけてくる。

 そんなことを言われても、私はエマ様に何かしたつもりはない。なんなら何かされたのはこちらの方だ。


「リシャルト様も、なんでそんな聖女様の方がいいのよ! 聖女様よりエマの方が可愛いもん!」


 エマ様はもう、泣きそうだった。悔しそうなのが、言葉尻から伝わってくる。

 私のことを言及されたからか、リシャルト様は足を止めた。

 ちょうど踊り場でエマ様とすれ違うタイミングだった。


「はぁ? 何を……寝言をほざいているんですか?」


 リシャルト様が蔑むような瞳でエマ様を見下ろした。

 

 う、うわ……。

 待て待て待て、リシャルト様落ち着いて?

 いつもの冷静なのはどこいった?


 リシャルト様は決して冗談やエマ様を怖がらすためにそうしているのではなく、本気で蔑んだ表情を浮かべているようだから余計タチが悪い。


「あなたの価値を僕に押し付けないで頂きたいですね。僕にとって世界で一番可愛らしい女性はキキョウです」


「り、リシャルト様」


 そう思って貰えるのは嬉しいけど、わざわざエマ様を刺激する必要はないだろう。

 私が繋いだリシャルト様の手をくいくいと引くと、リシャルト様はちらとこちらに視線をよこした。


「すみません。あなたを馬鹿にする言葉はどうしても無視できなくて……」


 リシャルト様は苦々しい表情を浮かべる。

 その後はもう、エマ様のことを見もしなかった。


「エマ様。はあなたの相手をする気はありません。失礼しますね」


 その言葉さえ、エマ様から視線を逸らしたまま。

 リシャルト様は私の手を引いて、階段をまた降り始める。

 私はどうしても気になってエマ様の方を振り向いてしまった。


「〜〜っ!!」

 

 可愛らしいエマ様の顔が歪み、頭に血がのぼっているだろうことがわかる。

 彼女の怒りや悔しさ、腹立たしさが私にも伝わってきた。

 それがすべて私に向けられているから、怖い。

 これほどまでの嫌悪を人から向けられることなど初めてで、どうしていいか分からなくなる。

 私はエマ様からさっと目を逸らした。


「……あんたなんて……。あんたなんていなければ……!!」


「……きゃっ!?」


 エマ様は階段を降りていた私の背を、どんと強く押した。

 押された勢いのまま、体が前のめりになる。


「キキョウ……!」


 手を繋いでいたリシャルト様まで巻き込んで、階段から落ちていく。

 リシャルト様が素早く私の体を抱き込んでくれたところまではわかった。

 後はただ、落ちるだけ。

 一瞬、まるでサスペンスドラマのワンシーンのようだと、そんな間抜けなことを思った。

 

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