ここから、わたし

@mokona0803

第1章「見えない檻」

 味噌汁の湯気が、テーブルの上で静かにゆらめいていた。

 日曜の朝、家族3人の食卓。

 けれど、そこに温かい空気はなかった。


「……は? これ、また薄くない?」


 夫・圭吾が箸を置いて、嫌そうに眉をしかめる。


「ごめんなさい。味見、したつもりだったんだけど……」


 遥はすぐに謝る。どんな言い方をされても、口答えはしない。それが、5年間で身についた習慣だった。


「ほんと、毎回よく飽きずにミスるよな。俺が外でどれだけ神経すり減らして働いてると思ってんの?」


 圭吾の声は、感情を抑えたトーンだからこそ、逆に冷たく刺さる。


 食卓の端で、小学2年生の娘・ひなたが、黙ってスプーンを握りしめていた。

 カチャリ。手元が少し震えて、スプーンが器に当たる音がやけに大きく響いた。


「ひなた、ごめんね。ごはん、食べようね」


 遥は娘に笑いかけた。

 いつものように、心を押し殺して。


「……ママ、大丈夫?」


 ひなたの小さな声が、遥の胸を締めつけた。

 この子の前では、絶対に涙を見せたくなかった。


 圭吾はその様子に、あからさまにため息をつくと、新聞を開いて完全に会話を断った。


 ——もう、慣れてる。

 遥は自分にそう言い聞かせながら、冷めかけた味噌汁を口に運んだ。


 


 * * *


 


 翌週。小学校の体育館。

 PTAの顔合わせの会場は、ざわざわとした空気で満ちていた。


 子どもたちの学校生活に関わる以上、親たちも“顔”を見せる場。

 遥は苦手だった。人と関わることも、自分の笑顔を演じることも。


「……お子さん、ひなたちゃんですよね?」


 突然、後ろからかけられた声に、遥は振り返る。


 そこに立っていたのは、白シャツに薄いグレーのニットを重ねた男性。

 物腰は柔らかく、目元に疲れがありながらも、どこか優しさがにじんでいた。


「うちの子、蒼太って言うんですけど。最近よく、ひなたちゃんと遊んでるみたいで。」


「あ、そうなんですね……。蒼太くん、いつも優しくしてくれてるって、ひなたが話してました」


 そう言うと、男性は少し驚いたように、でもうれしそうに笑った。


「よかった。それ、蒼太が聞いたら喜びます。……僕、高橋っていいます。よろしくお願いします」


「遥です。こちらこそ……」


 ふと、その笑顔に、自分の心がほんの少しだけ温かくなった気がした。

 けれどすぐに、それを打ち消す。


 期待なんてしない。

 優しさに慣れてしまったら、戻れなくなる。

 遥は、自分の心にそう言い聞かせた——けれど。


 ほんの少しだけ、空が晴れたような気がした。

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