第五章
七月初旬。
トンネル掘削作業は最後の工程に入った。
水平方向の作業は完了し、あとは上部へ四メートル掘るだけだ。
演劇の部材で足場を構築し、崩落しないよう、慎重に天井の土を削り取っていく。
無限に続くかと思われた作業が終わろうとしていた。
*
そして、七月中旬。
ついにその時が来た。
土天井をスコップで突く。何億回と繰り返してきた動作の中で、初めての感触を得た。手応えがない。スコップの刃が天井を貫いている。
ボトボトボト、と土塊がおれの頭に降りかかる。
それは最後の土塊だった。夜の森の清澄な空気が、トンネル内に流れ込んでくる。
あまりの心地よさに鳥肌が立った。
十一歳のときにも同じ経験をしたが、あのときとは比べ物にならない達成感が体の中を駆け巡る。
森の空気は、トンネル奥で待機中の脱獄部員らにも、しっかり届いた。
「「「おおおおおお!!!」」」
大歓喜が巻き起こり、トンネルがまるで生命を得たかのように鳴動した。
トンネル開通。
森に這い出る。
まるで自分の体が、夢の世界に溶け込んでいくような気がした。現実感が乏しく、なんだか、ふわふわしている。
「陸ちゃんっ!」
陽夏先輩が這い出てくる。
「これ、夢じゃないんだよね? あたしたち、今、壁の向こう側に出たんだよね?」
「はい」
続々と、他の脱獄部員たちも、おれたちに倣った。月の薄明と感涙とで視界が朧げになったことも相待って、部員たちが、森の空気を吸いに浮上してくる精霊のように見えた。
皆、全身で喜びを噛み締めている。笑っている者もいたし、泣いてる者もいた。
もちろん、まだ、脱獄は完了したわけではない。油断は禁物なのもわかっている。しかし、ここまで来れば余程のことがない限り、脱獄成功は間違いないだろう。むしろ、失敗するほうが難しいぐらいだ。
茂みから監獄高校を垣間見る。おれたちを閉じ込めていた、コンクリート外塀に「ざまあみろ」とつぶやいた。
*
トンネルが開通したのが、早朝三時。脱獄決行は今夜の深夜二十三時に決定した。
おれは寮部屋の自室に戻るなり、NPO法人『地下鉄飛車』の構成員にメッセージを送った。
合流場所の打ち合わせなどは、既に終了しているので、ただ「幸運を祈る」というシンプルな返信がきた。
この日は、ちょうど、日曜日だった。
おれは小一時間ほどの仮眠をとり、朝飯を済ませると、最後の草野球にでかけた。
三十九人の脱獄部員が勢揃いだった。もはや、勉強する必要はないので当然だろう。過去にも数回、全員が揃ったことがあったので、怪しまれることもないはずだ。
軽く練習したあと、陽夏チームと大金丸チームに分かれてラストゲームを行った。
全員、無駄に野球が上手くなっていた。野球の教本に忠実な基礎練習を心掛けたおかげで、エラー率がぐっと減少し、ゲームは白熱したロースコアの展開になった。一対ゼロで陽夏チームリードのまま最終回(五回裏)に突入した。
大金丸チームは、ツーアウトまで追い込まれたものの、バントと進塁打で、ランナーを三塁にまで進めることに成功しており、一打同点のチャンスを迎えた。
迎えるバッターはおれ。
ツーストライクまで追い込まれたところで、一旦打席を外し、深呼吸する。三塁ランナーの大三沢くんがおれに声援を送ってくる。いつぞやも、似た場面があった気がした。記憶の引き出しを開けて、その場面を思い出すこともできたが、今はそれどころではない。おれは集中を深めた。
再度打席に入り、マウンドの陽夏先輩と対峙する。
先輩はセットポジションの投球フォームから、綺麗なオーバースローのフォームで、渾身のストレートを投げ込んできた。昨年まで、シュート回転していたそれは、今や綺麗な縦回転に修正されており、まるで手元で浮き上がってくるように錯覚した。おれのバットが空を切る。
スリーアウト。試合終了。
「よっしゃあああ!」
陽夏先輩がガッツポーズし、青空に両手を掲げる。いつにも増して、喜び方が大きかった。トンネル開通時に上げられなかった大声を、今、発してるように見えた。
陽夏チームのメンバーが、先輩の周りに集まり、喜びの声を上げる。その中には、いざこざのあった湯田の姿もあり、今や影のない笑顔で、喜びの一部になっていた。
*
いつもより長めにグラウンド整備をおこなった。
それから、ベンチで休憩する。
思えば、草野球をした後に、皆で他愛もない話をするのは癒しのひと時だった。真昼のグラウンドの風景も見納めである。たった一年ではあったが、グラウンドにいろいろ手を入れたせいか、妙な愛着が生まれていた。
「ちわっす、廉ちゃん」
例によって、このタイミングで陽夏先輩が滝沢先生に絡んでいった。このやりとりも、今日が最後かと思うと、なんだか名残惜しい。
「あたし、すごくない? 三打数三安打一打点!」
「お前、今日はヤケに嬉しそうだな?」
「うん、だって、陸ちゃんを初三振に仕留めたし」
イェイっ!と先輩が可憐にピースする。
「これも廉ちゃんとのボクシング特訓のおかげだね。あたしの体幹、今激ツヨでさ。目線がピタってなるんだよね〜。今なら、廉ちゃんにもボクシングで勝てたりして?」
いつもなら、ここで、嫌味を言うなり、「うぜぇんだよ」と一蹴するところだが、今日はいつもと様子が違った。
滝沢先生は無言のまま黙り込んでいた。
「ん?」と、陽夏先輩も困った顔をする。
隣の小夜子先輩が、ペットボトルに口をつけたまま、滝沢先生の方をチラ見した。他の脱獄部員たちも談笑しつつ、ちらちらと滝沢先生を気にし始める。
「あれれ〜?!」と、陽夏先輩が、いつものハイテンションで、不穏な空気を吹き飛ばそうとした。
「もしかして、廉ちゃん。ガチであたしにビビってる? あたしを強くしてしまったことを後悔しているんだね!?」
「いや、最初からだぞ」と、滝沢先生はおちゃらけた陽夏先輩の物言いを、鋭い声でバッサリ切り裂いた。
「ん? 最初から? 何の話?」
「今日はヤケに嬉しそうだよなって、話だよ」
ぴたりと、周りの脱獄部員たちの談笑が、いまや完全に止んだ。
「今日のお前は、なんか、いつもと違げぇ」
「え? そう……かな?」
「ああ、全然違う。自分でわからないか?」
滝沢先生がベンチから立ち上がる。
陽夏先輩に近づき、その目を食い入るように睨みつけた。それから、ベンチの付近を歩き出す。おれたちの秘密の場所に向かって。
「いや、お前だけじゃねぇな、他の連中もそうだ。どいつもこいつも、今日は、やけに、顔が人間らしいじゃねぇか?」
滝沢先生がぴたりと立ち止まったその場所は、まさにトンネル入り口の真上だった。
「おい、彼氏」と、怒るようにおれに声をかける。
「なんかいいことでもあったのかよ?」
キーンコーンカーンコーン。日曜の校舎のチャイムが、場の沈黙を埋める。バサバサと黒い鳥が右中間に舞い降り、地面を啄んだ。
おれはどう答えるべきか迷った。陽夏先輩に視線で助けを求める。しかし、先輩はおれの方には目もくれず、しかと滝沢先生に目を据えていた。
滝沢先生がおれに追い討ちをかけてくる。
「まさかとは思うがよぉ。また脱獄でも企んでるんじゃねぇだろうーな?」
「うん、廉ちゃん正解」
陽夏先輩が即答した。
「あたしたち、今夜脱獄します」
突風が吹き抜けた。砂埃が巻き上がり視界を薄茶色に染める。目が痛い。おれは思わず、二の腕で目を隠した。
風が過ぎ去る。
陽夏先輩が言う。
「廉ちゃんてさ、やっぱり、やさしいよね」
少し涙ぐんでいた。
「そうやって、最後まで油断するなって、あたしたちにアドバイスしてくれてるんだよね」
「ああ? 何勘違いしてんだ、てめぇ」
「廉ちゃんなんでしょ? 運び屋先生」
滝沢先生が喉に何かを詰まらせたように黙り込んだ。陽夏先輩はそれ以上は追求しなかった。追求する必要はなかった。なぜなら、おれたちは、既に、滝沢先生が取引場所に脱獄アイテムを設置するところを目撃したからだ。おれたちは運び屋先生の正体を暴くため、次の取引場所になりそうなポイントを予想し、手分けして先生が来るのを見張っていた。去年から、コツコツ続けていたこの活動が実を結んだのは、つい一ヶ月前のことだ。
「理事長たちがさ、グラウンドの調査をやるときにね。あいつら、全然違う場所ばっかり調べてたよね?」
「……」
「調査を撹乱させてくれたの、廉ちゃんだったんだよね?」
「……」
「勉強祭準備のときもさ。やけに警備が緩かったのは、廉ちゃんのおかげだったんだよね?」
「それから」と、先輩がまなじりに涙を溜めながら続ける。
「あたしが授業中に居眠りしたときにさ。そのときの先生、岩見先生だったんだけど。見逃してくれたんだよね。あれ、ぜったい、廉ちゃんの指示でしょ?」
「……」
「あとさ、あたしが高熱だして苦しかったとき。なんでか知らないけど、休養許可が出たんだよね。あれも、廉ちゃんだよね? どんな手つかったの? 保健の先生脅したとか? ねえ?」
陽夏先輩はもはやボロ泣き状態だった。それでも、なんとか言葉を絞り出す。
「あとさ……お腹の傷……、大丈夫だった……?」
滝沢先生は下唇を噛み、明確に不快感を露わにした。まるで裸をみられたかのように、体を横に向ける。
「大佐渡に、切りつけられたんだよね?」
「……」
「ずっと、ずっと、あたしたちのこと、影で守ってくれていたんだよね? 身代わりになってくれたんでしょ? 大佐渡のこと煽って、あたしたちが傷付けられないように、ずっと、ずっと、ずっとーー」
陽夏先輩が酷く震え出した。おれは先輩を支えた。「最後まで言わせて」と、一言おれに言い、滝沢先生の元へ歩み寄る。
「来るな! うぜぇんだよ! てめぇ!」
滝沢先生が激昂する。こんなにも、ガチギレしたのは、おれがボクシングジムで対峙したとき以来だ。今にも、あの刺さるようなパンチが、飛んできそうだった。「来るな!」「うぜぇんだよ!」「殴るぞ!」を連発した。それでも、陽夏先輩は、怖がることなく、堂々と滝沢先生に歩みよる。
「廉ちゃん。……いや、滝沢先生」
陽夏先輩は泣きながら深々と頭を下げた。酷い嗚咽のせいで、ほぼ何を言ってるかわからないような発声だったが、「今まで本当にありがとうございました」とたしかに、この一年の多大な感謝を伝えきった。
おれを含めた、他の脱獄部員も、感謝を伝える。
滝沢先生がぐっと、両拳を握りしめる。
殴り出しそうな勢いだったが、ただ「うぜぇんだよ」と悲しげにつぶやいた。
「マジで、うぜぇよ、お前。懐いてくるんじゃねぇよ。勘違いするんじゃねぇぞ。あたしはなぁ。お前らみたいな、上層の奴らが大っ嫌いなんだよ。機械みたいな顔しやがって。見てるだけで殴りたくなってくるんだよ」
「あたしはね。廉ちゃんのこと大好きだよ。今まで出会ってきた先生のなかで、ダントツ一位です」
滝沢先生は強く舌打ちすると、「もう帰るわ」と、ダルそうに背を向け、立ち去っていく。陽夏先輩は最後の最後に意地悪な質問をした。
「脱獄するけど止めないの?」
滝沢先生は「そんな冗談には乗らん」と突っぱね、逃げるようにグラウンドの入り口へと歩いていく。
今日は風が強い。
また大きな砂嵐がグラウンド上を吹き荒れた。体幹が強いはずの滝沢先生が横に煽られる。それから、片腕で何度も目元を拭っていた。
陽夏先輩は最後に大声で叫んだ。
「廉ちゃん、だいすき〜!!!」
*
深夜二十三時。ついに運命の夜が始まろうとしていた。
「いいか、みんな」と、陽夏先輩が語気に力を込める。
「これはあたしたちの為だけの脱獄ではない」
脱獄開始直前。
小夜子先輩の部屋に、脱獄部主要メンバー七名が集合し、最終会議を行ったあと、最後に陽夏先輩が締めの言葉を語り始めた。
「あたしはね。陸ちゃんから、昔の人たちの脱獄の話を聞いた時、すっごく勇気をもらえたんだ。あたしたちにもできるはずって思えた。あたしは、その人達に背中を押してもらえたんだよ」
だからさ。と両手をぎゅっと握る。
「今度はあたしたちが未来の人たちの背中を押してあげるんだ。あたしたちみたいな境遇の子たちの希望になってあげるんだよ。あいつらでもできたんだからって、思わせてあげるんだ」
「うん」と、普段冷静な小夜子先輩が真っ先に頷く。「そうだ」と他の部員達も続く。おれも「はい」と同意し、右手を前に出した。皆続々とおれの手の甲に掌を重ねてくる。最後に陽夏先輩が手を重ね、言った。
「みんなはこれから希望になるんだ。未来の人たちの希望になるんだ。いこう、みんな。自由が待つ場所へ」
おれたちは、熱の篭った声で応答し、動き始めた。
今回、脱獄する生徒の数は百六人。
今年の五月ぐらいから、新たに脱獄したそうな生徒の勧誘を始めていた。生徒の大半は、陽夏先輩や小夜子先輩のような、魔親による自宅監禁が宿命付けられている者や、無期限の浪人生活を義務付けられている者たちだ。
他にも脱獄させてあげたい生徒はいたが、今回は確実に密告する心配がない生徒だけに絞らざるをえなかった。おれたちとて、そこまでリスクを背負うことはできない。そんなわけで、性格の見極めに時間がかかる新一年生の勧誘はどうしても少なくならざるを得なかった。陽夏先輩はそのことを悔やんだが、それでも、最後には決断を下してくれた。
おれたちは百六人で脱獄する。
*
脱獄の第一段階ーー生徒たちを寮部屋からグラウンド倉庫に移す作業ーーは難なく完了した。おそらく、今回の脱獄で一番難しい部分だと思われたので、入念な事前準備とイメージトレーニングを重ねておいた。それが功を奏し、予定よりも早いペースで第一段階を終了できた。
第二段階は、生徒をトンネルに送り込み、外塀の向こう側に抜けさせる作業だ。ここで障害になってくるのは、夜間巡回ドローンである。ドローンは三十分に一度、グラウンド上空を巡回しにくる。その合間を縫って、続々と生徒らを、倉庫からトンネル入り口へと送り込んでいく。
「みんな、焦らなくていいからね。時間はたっぷりあるんだから」
陽夏先輩が倉庫の入り口で、順番待ちをする生徒に優しく声をかける。生徒たちは、不安そうに、倉庫の暗がりに身を潜めていた。
脱獄部初期メンバー三十九人は、他六十七人を送り出す役に徹した。いつもより、監視班に多く人数を割き、ネズミ一匹見逃さない集中力で、警備ドローン、生徒寮、先生寮、詰所を監視する。あとのメンバーは、倉庫とトンネルの入口と出口で生徒を誘導した。
「小夜、どう? オーケー。じゃ、いくね」
陽夏先輩がスマホを伏せ、にっこりと、営業スマイルでいう。
「は〜い。次の団体様ご案内〜」
二十人の生徒が、大三沢君と湯田の誘導で、トンネル入り口へと向かってぞろぞろ走り出す。フェンス側の樹木の影に潜り、低姿勢で全力疾走。
「うん、みんないい動きだ。この調子なら楽勝だな」
おれは念の為、「まだ油断は禁物です」と返したが、先輩と同じ気持ちだった。意識はもう外塀の外にあり、どこかの南国のビーチで先輩とデートする光景さえもちらついていた。
三十分が経過。ドローンが現れた。ライトを照射しながら、夜のグラウンドを蛇行運転する。無人の広い矩形領域を調べ尽くすと、校舎の方へと飛び去っていった。
「よし、次の団体様〜」
明るい声が発せられかけたとき、陽夏先輩のスマホが振動した。
先輩が耳にスマホを当てる。「え!?」という声。誰がどう見ても、何らかのトラブルの報告を受けたような声だ。倉庫内に緊張が走る。おれは恐る恐る聞いた。
「なんか、あったんですか?」
「うん、さっきトンネルに送り込んだ子が、トンネルの中間で動けなくなったって」
「え? まさか崩落?」
「いや、違う」
「だったら、なんで?」
「わからない。とにかく、動けなくなったんだって」
陽夏先輩は待機中の生徒たちに向き合うと、わかる範囲でトラブルの概要を説明し、少し待っていてほしいとお願いした。
「とにかく、行ってみなきゃ。陸ちゃんも来てくれる?」
「もちろん」
おれたちは夜のグラウンドへと駆け出した。
*
一人の女子生徒がトンネルの四十メートル地点で、突如、精神錯乱に陥っていた。後ろの生徒が力ずくでお尻を押すも、びくとも動く気配がないらしい。
「早く行けよ、デブ!」「行けっていってるだろーが!」「はやくしてよぉお!」「お願い!進んでよ!」「死にたくない!死にたくないぃいい!」「殺すぞ、お前!」
トンネル内は地獄だった。
あらゆる罵詈雑言と、死を恐れる声とが、トンネル内に充満している。
「お前ら静かにしろぉおおおおお!!!」
陽夏先輩がトンネル内を一瞬で黙らせた。バフバフバフという大三沢システムが空気を送り込む音だけになる。
「女の子を罵倒すんじゃねぇよ! 一旦、出ろお前ら! ほら、早く出てこい! 戻ってくるんだよ! 早くしやがれ!」
続々と暗いトンネルから生徒たちが引き返してくる。本当にさっきの暴言はこいつらが吐いていたのかと思うぐらい、全員、善良そうな顔をしている。生徒たちにはバックネット裏に身を潜めてもらうことにした。
陽夏先輩を先頭に、動けなくなった女子生徒の元へ急行する。独特の体臭が前方に充満していた。吐き気を催すような、生臭い匂い。それは奥に進むほどに濃くなっていく。やがて、大きなお尻がおれたちの前に立ちはだかった。ブルブルと微振動している。人間の尻には見えなかった。まるでおれたちを威嚇する怪物のようだ。
「大牛込クルミちゃんだね?」
もぞり、と尻が上下に大きく動いた。
「かわいい名前だよね。クルミちゃんって呼んでいい?」
先輩は『クルミ』という名前のアニメキャラに纏わる個人的笑い話を話したあと、「あははは、あたしってバカでしょ?」と朗らかに笑った。
「それはそうと、クルミちゃん。いったい、こんなところでどうしたんだい?」
お尻が突然暴れだした。
「ああああああ!!!」
狂った猿のような鳴き声がトンネルに反響する。ぶわぁっと、強烈な体臭が鼻を突いてきた。胃の中のものを吐き出しそうになる。
「わたじぃい、もううごげまぜんっ。うごけないんですぅ」
「そうか、そうか、動けないのか。ところでクルミちゃん。周りには何がある? 何か見えるかい?」
陽夏先輩は粘り強く、何度もその質問を重ねた。
それでようやく聞き出せたことといえば、「前にも後ろにも、大きな穴が空いていて、動いたら落ちてしまう」ということだった。
これは閉所恐怖症の症状なのか。あるいは、何らかの心理的トラウマによるそれか。はたまた、スマートドラッグ過剰摂取による、例の幻覚を見ているのか。とにかく、彼女の意識は今、トンネル内にはない。恐ろしい幻想世界に囚われている。
「わたじぃい、もううごげまぜんっ。うごけないんですぅ。うごくとしんじゃう」
その正体を探ろうとしても、決まってこの言葉が返ってくるだけだった。何の取っ掛かりを掴むこともできないまま、時間だけが過ぎていく。
おれはスマホを見た。
目を疑った。
「嘘だろ!?」
トンネルに入ってから、早二時間が経過している。
強い焦燥感が込み上げた。
おれはこんなところで何をやっているんだ。
本来なら、NPO法人のトラックに到着していてもおかしくはない時間だ。陽夏先輩と一緒に、明るい未来の話をしているはずだったのに。
なぜ、おれはこんなところにいるんだ。
おれの焦燥を煽るように、
「わたじぃい、もううごげまぜんっ。うごけないんですぅ。うごくと死んじゃう」
女子生徒がまた同じ言葉を言った。
人間と会話している気がしない。不毛すぎる。ずっと、尻と会話を続けているみたいだ。
おれは自分の闇を見た。
おれは自分のことを、兄たちとは別種の人間だと思っていた。善良な人間だと思っていた。どうやら違うらしい。おれも奥底にも奴らと同じ残虐さがある。
目の前にあるこのデカい尻を、蹴りたくてたまらなくなっていた。
いままでの積み上げた苦労の日々が、こんなデカいケツ一つに台無しにされるのかと思うと、怒りで体が爆発しそうだ。
「早く行けよ!」と声を上げたくなる。
「お前のせいだ!」と責めたくなる。
「死ね!」と憎悪をぶつけたくなる。
それを止めたのは陽夏先輩の声だった。
「クルミちゃん、動けなくていいんだ」
驚愕した。陽夏先輩は、大牛込さんをなだめるための建前ではなく、心からそう思って、言葉をかけているように思えた。
「死んじゃうくらいなら動かないでくれ。君が死ぬくらいなら、脱獄なんてしなくていい」
「なんでぇ?」と、初めて、大牛込さんがこちらに心を開いた。ドアが僅かに開いたイメージ。先輩はドアとドア枠との隙間に足を差し入れ、優しく声を送り込む。トンネルに空気を送り込むように。
「あたしさーー」
先輩は、大牛込さんの「なんで?」という問いには答えず、自分の幼少期の話をはじめた。いや、それは語るなどという生優しいものではなかった。「裸になる」といった表現のほうが適切であるように思えた。先輩は、超進学校生の宿命とも言える、虐待教育によってこうむった、孤独や恐怖、羞恥、敗北を曝け出した。今すぐ、先輩の過去にタイムリープして、話に出てきた連中をぶっ殺して周りたくなるほどに、おれの血は煮えたぎった。
「ーーだからさ、あたし。未だに『路地裏』って言葉を聞くだけで、ものっすごく不安になるんだ。変でしょ? でも、あたしは、ガチで困っててさ。おんちちゃんの歌に「商店街ゆにばーす」って曲があるんだけどね。とっても、いい歌で好きなんだけど、歌詞にやたらと「路地裏」って出てくるんだよね。だから、聴き終わった後には、あたしの心はいつもボロ雑巾みたいになってるんだ。でも、いつかは聴けるようになりたいなって思ってる。死ぬ前に絶対に聴けるようにして、それを聴きながら商店街を、笑って歩くのがあたしの夢なんだ」
「わたしもーー」
と、大牛込さんが先輩につられるように、過去を開示しはじめる。陽夏先輩に匹敵するような、おぞましい過去が暴露されていく。先輩は優しく「大丈夫だよ」と何度も相槌を入れ、彼女の語りを支え続けた。その語りは淡々と事実を並べ立てるだけに留まらず、そのとき彼女が感じた、熱さや匂い、息苦しさといった身体感覚と、負の感情とが、織り交ぜられていた。
「あれ以来、夏が苦手なんです。セミの声が嫌なんです。あいつら、しねしねしねしねって鳴いてるみたいで。わたしにしねしねしねしねって、声を染み込ませてくるみたいに聞こえるんです。うっさいわ、って感じ」
大牛込さんが困ったように笑う。
先輩も笑う。
「わたし、でも、夏って好きです。プール入ると気持ちいから。だから、生きたい」
大牛込さんが前進をはじめた。
「ああああああ!」とまるで、自分の存在を主張するように、大声を上げながら進んでいく。大牛込さんは、何度も何度も「離さないでください!」と叫んだ。
「まかせろ! クルミちゃんは絶対に離さない!」
陽夏先輩は大牛込さんのズボンから、絞り出すように持ち手を生成すると、しっかりと握った。
*
一時間後。
おれたちはトンネルの外にいた。
長い戦いだった。地上に這い出た瞬間、脱獄部員から水を受け取り、浴びるように飲んだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「すまん。少し休ませてくれ」
陽夏先輩は大の字で寝転んだ。まるで、激流を泳ぎきった後のようだ。大量の汗。呼吸はなお荒く、胸が激しく上下している。こんなにも疲弊した先輩を見たのは初めてだ。無理もない。結局、三時間近くも、も、空気の悪いトンネル内にいたのだから。
他の脱獄部員が「あとは任せて」と気を使ってくれた。おれと先輩はトンネル出口で皆を待つことにした。
「先輩、ガチですげぇっすよ」
隣に寝転びながら、本音を口にする。
「尊敬します」
恋人であるとかは関係なく、一人の人間としておれは陽夏先輩を尊敬した。先輩みたいな強い人になりたいと本気で思った。
「でも、なんで、大牛込さん、急に症状が軽くなったんですか?」
「あたしも、わからない」と、先輩は息も絶え絶えに言う。
「でも、自分の過去の、嫌な出来事の、真実を語ると、なぜか、症状が治まることがあるんだ。あたしも、おにーちゃんに、ああやって、やってもらったこと、あった」
*
百六人全員が無事にトンネルを抜け出た。あとは監獄森林を越えるだけだ。
森を進み始める前、大三沢君が「僕はここまでだね」と言った。
彼は、迷った末、超人大学への進学を決めた。それでも、ギリギリまで脱獄の手助けをしたいと申し出て、ここまで着いて来てくれたのだ。
時間も押していたが、おれたちは一人一人、大三沢君と最後の別れを交わした。
「大金丸君。また必ず会おうね」
「うん。必ず」
大三沢君とはまたどこかで会えるような気がした。
おれたちは監獄森林の薄暗がりへ分け入り始めた。
ここまで来れば、脱獄したも同然。
昨日の今頃は、そう思っていた。今は違う。さっきの思いもよらないトラブルのせいで、神経が過敏になっていた。どうしようもない不安が渦巻いている。嫌な予感がした。何かかが起こる気がしてならない。
「陸ちゃん? 大丈夫?」
おれの背中におぶられている陽夏先輩が心配そうに訊ねてくる。
「重かったら、言ってね? あたし、がんばれば、自分で歩けるから」
「そんなことさせないっすよ。先輩をおぶれるこの幸福は絶対誰にもわたしません」
「ほう、貴様、言うようになったじゃないか。それなら、こうだ。うりゃ」
「おお!?」
陽夏先輩が体をこれでもかと押し付けてくる。柔らかい温かさが背中に凝縮する。
「同志よ」と小夜子先輩がいつもと違うハイテンションで笑いかけてきた。
「疲れたら私に言うがいい。私がナツをおぶってやろう。今の私は流星モード状態なので。マナの力が漲っていて。なんでもできそうな気がする」
宇宙戦士ギャオスに登場する姉さんヒロインばりの全能感を発散させている。
「さ、小夜が、眩しい。なんか、オーラ出てる。一体何があった貴様?!」
陽夏先輩がボスキャラの口調で訊ねたが、何があったかは先輩も知っていた。
たしかにあんな奇跡が起これば、誰でもおかしいテンションになるだろう。
昨日の午後、草野球を終えたおれたちは、小夜子先輩の部屋でアニメを見て過ごすことにした。
おれと小夜子先輩で、陽夏先輩が来るのを待っていた。なぜか、集合時間になっても現れなかった。先に鑑賞会を始めようとした矢先、
「小夜! 陸ちゃん! 大変だ! 大変なことが起こった!」
普段の元気さ百倍といったハイテンションで登場した。
「おにーちゃんが! おにーちゃんが!」
そこまで声を上げたときには陽夏先輩はもう泣いていた。ただ、一枚の紙を小夜子先輩に手渡す。それは春輝先輩からの手紙だった。
『超大実践模試でA判定を獲った。超大合格は間違いない。超大で待つ』
手紙を読み終えるなり、小夜子先輩は陽夏先輩に抱きつくと、生まれたての赤ちゃんのごとく泣きまくった。今までずっと心配で心配でたまらなかったのだろう。それでも、おれたちに心配をかけないように、ずっと堪えていたのだ。それが大爆発していた。その姿を見て、おれも目頭が熱くなった。本当によかった。これでまた二人は一緒になれる。
陽夏先輩は赤ん坊をあやすように、小夜子先輩の頭を優しくなでながら、静かに泣いた。
「小夜。もうすぐだ。もうすぐだからな」
その後、感動的場面が去るなり、小夜子先輩は宇宙戦士ギャオスでいうところの『流星モード』状態と化し、現在のハイテンションのまま行動している。
それにしても、脱獄決行の朝に手紙が届くとは、奇跡以外の何物でもないだろう。ていうか、春輝先輩カッコ良すぎる。
真昼のひと時を思い出し、少し不安がやわらいだ。
大丈夫だ。と、自分に言い聞かせる。もうこの先には何の障害もない。さっきの不測の事態も結局、乗り越えることができた。
月明かりを頼りに灌木の隙間を行く。
おれの超人的記憶力で、地形は完全に把握している。おれは先頭に立ち、百六人を導いた。
*
監獄森林を抜け出る。その後は、監獄森林とF市の境界を流れる小川の中に入り込み、合流地点へと進んだ。小川は幅三メートルぐらいで、監獄森林の対岸は、F市の廃工場エリアだった。寂れた金網フェンスによって遮られている。その向こうには、工場の箱型建屋の廃墟群の影が立ち並んでいる。
「みんな。もうすぐだよ。ここから、金網沿いに一・七キロいけば、そこが合流ポイントだからね」
おれたちはラストスパートとばかりにペースを上げた。
小川の水は枯れていたが、けっして足場が良いとは言えなかった。水溜まりや沼地が、まるで罠のように茂みの影に散在していた。それでも監獄森林の斜面を歩きまくった後だと、かなり歩きやすく感じた。事前情報通り、監視カメラがある様子もない。
もうすぐだ。
頭の中に明るい妄想が溢れてくる。
森越えの疲れなどはすっかり吹き飛んでいた。
先輩をおぶってるとは思えないくらい体が軽い。
もうすぐ夢が叶う。先輩と一緒に自由の地へ。
「ーーっ!?」
背中の先輩の体がこわばったのがわかった。
五十メートル先に何かいる。
四つ足動物? 猿? いやーー。
影は立ち上がった。こちらに二足歩行してくる。その影の正体を目にしたとき、背筋が凍りついた。男の子だった。小学校高学年ぐらいの男の子がこちらにかけてくる。
なぜ、ここに小学生がいる?
悪魔だと思った。
あの子供は悪魔なのだ。
おれたちの脱獄を阻む悪魔。
男の子は泣いていた。「たずげでぇ〜! たずげでぇ〜!」と、叫んでいる。現在の時刻は早朝五時で、ましてや、ここは街から離れた場所にある廃工場の裏側を流れる枯れた小川である。小学生がいることなど考えられない場所だ。どう見ても、何らかのトラブルを、おれたちに持ち込もうとしているように見えた。
怒りで頭がどうにかなりそうだった。
なぜ、こんなときに。
なぜ、この生死がかかった大事な場面で。
なぜ、このガキはおれたちと出会ったのか。
理不尽な怒りが、「なぜ」を頭にあふれさせる。
「どうした、ボク? なにがあった?」
真っ先に動いたのは、陽夏先輩だった。おれの背から降りると、自分の方から男の子に走り寄り、男の子の目線に自分の視線を合わせる。
再び尊敬の念が込み上げてくる。
おれは余裕を取り戻した。周囲の警戒にあたる。他に人の気配はない。
「ゆっくりでいいから、おねーちゃんにーー」
「電話貸して!」
先輩が言い切る前に、男の子が泣き叫ぶ。
「はやく、貸して! 殺される! みんな殺されちゃう!」
陽夏先輩がすぐにスマホを取り出し、ロックを解除して、男の子に渡す。男の子はすぐに警察に電話した。
男の子は「誘拐されました。助けてください」とスマホに訴え、次のようなことを話した。
自室で寝ていたら、知らない男が家に侵入してきて、眠らされ、気がついたら、廃工場の倉庫にいたという。他にも五人の兄弟と隣家の子供四人が誘拐されたようだ。
それは、典型的な貧困層子供集団誘拐事件の一例だった。貧困層の家屋は、防犯セキュリティレベル『低』であることが多く、犯罪集団に狙われやすい。このままでは、子供たちは、男の子が言ったように「殺されて」、臓器を捌かれ、換金されるか、あるいは、生かされたまま、奴隷として売りに出されてしまう。
「なんでですかぁ!? すぐ来てください! ボクらも誘拐されているんですよ!?」
どうやら、警察は他の事件の処理ーーおそらく別の誘拐事件の対応と思われたーーに追われており、人員の派遣には時間がかかるようだ。犯罪大国日本においては、珍しくない光景である。
「お願い! 時間がないんです! はやくしないとみんな連れていかれちゃう!」
男の子が言うには、本来なら早朝四時に、身柄の引き渡しが行われる予定だったようだ。しかし、何らかの事情で買取グループの到着が遅れているらしい。いつ引き渡しが行われてもおかしくない状態なのだという。
男の子は「もういいです!」とスマホを切った。
全てを諦めたように、肩をがくりと落としたが、すぐに陽夏先輩が男の子の両肩に手を置いた。
「ボク、大丈夫だ」
男の子の顔がゆっくりと上がる。
「おねーちゃんが助けてあげる。今から、悪いやつをボッコボコにして、みんなを助け出す」
「ナツ!」と小夜子先輩が陽夏先輩を男の子から引き剥がした。
「だめだよ。もう時間がない。もう一時間切った」
「小夜。この子を放ってはおけない」
「お願い! 行かないで!」
小夜子先輩は先輩を縛る縄と化した。陽夏先輩の両手を縛るように抱きつき哀願する。
「お願い。行かないで。ナツ。お願い」
「でも、この子がーー」
おれは無言のまま、力ずくで小夜子先輩を陽夏先輩から振り解いた。
「何すんだ、てめぇ!」と、別人のような剣幕で、小夜子先輩がおれに殴りかかってくる。
「止めろよ、オメェ! 彼氏だろーがぁ! 止めろよぉ!」
「残り五十分です」
怒りのままに振り回される小夜子先輩の両腕をつかんだ。
「喧嘩してる時間はありません」
たったそれだけで、小夜子先輩は全てをわかってくれた。陽夏先輩が一度行くと言ったなら、もう誰にも止められない。もはや、できるだけ早く行動をおこすしか道はない。
「小夜、ごめん。みんなをたのむ」
「ぜったい、きてよ?」
「ああ、必ず」
おれは男の子をおぶった。道案内を頼み、先輩とともに小川を走り出す。
「おい、ここから遠いのかよ?」
「うん、けっこう距離ある」
おれは具体的な到着時間、距離を訊ねた。男の子は「わからない」と言いつつも、午前四時過ぎに脱獄犯のアジトを抜け出したことは覚えていてくれた。その記憶が確かななら、子供の足で約三十〜五十分ぐらいかかった計算だ。一番早い到着時間の想定で、かつ、二倍のスピードで移動できたとしても、往復三十分かかる。そこから、さらに合流地点までの移動を加味すれば、移動時間で四五分はとられる計算だ。ということは、救出に避ける時間はたったの五分。相当な無理ゲーだ。
一つ希望があるとすれば、男の子が合流地点の方角からやってきたことだ。もしかすると、アジトは合流地点付近にあるのかもしれない。それなら、事件を解決したあとすぐに合流できる。
「あの隙間」
男の子が金網の破れた部分を指差す。おれたちは、小川から上がり、指示された隙間を通り抜けた。廃工場エリアの中へ侵入したところで、
「あっち」
と、男の子が指差した先は、合流地点とは真逆の方角だった。
最悪だ。早々にして、唯一の希望が消え失せた。
それから、廃工場の奥へ進む過程で、おれは何度も男の子に訊ねた。
「おい、どこまでいけばいい?」「そろそろ着くか?」「あとどれくらいだ?」
「もっと、先」「もっと奥の方」「もっと、もっと、もぉーと」
男の子に悪気はないのはわかっているものの、その言い方は脱獄中のおれの心を抉る為に吐かれたかのようだった。
脱獄の成否を気にしまくるおれとは違って、陽夏先輩の意識は今やるべきことにしっかりと定まっていた。
男の子を励ましつつ、アジト内部の詳細を聞き出していく。アジト内部の状況、誘拐犯の数と配置、攫われた子供たちの居場所。男の子は、はきはきと答えてくれた。
「えらいぞ、ボク」と陽夏先輩がほめる。
「キミは頭がいいんだな。すっごく、助かったよ」
たしかに、男の子の記憶力は抜群だった。誘拐犯たち一人一人の人相、癖や、アジト内にある些細な物品の正確な位置まで、細かく話してくれた。もしかしたら、この子もおれと同じ能力を持っているのかもしれない。
十数分走ったところで、誘拐犯のアジトに辿りついた。荷物集積所のような寂れた中型倉庫だった。シャッターは締め切られている。倉庫前には、子供を連れ去るのに使ったであろう大型バンが停車していた。
「みんないてくれよ」と陽夏先輩が祈る。
たしかに、既に売買の後で、身柄はここにはない可能性もありえる。そればっかりは突入してみないとわからない。
「おねえちゃん……」
「大丈夫。おねえちゃんたちを信じて。ぜったい助けてあげるからね」
「先輩、念の為にこの子にスマホを」
「ああ、そうだな。うっかりしてた」
警察との連絡手段は残しておくべきだ。万が一おれと陽夏先輩が返り討ちに遭っても、買取人が到着する前に警察が来てくれれば、子供たちは救われる。
「さすが陸ちゃん。冷静だよね。頼りになるぅ」
「それより、先輩、わかってるとは思いますがーー」
「はいはい、わかってるわかってる。なんらここで宣言しよう」
宣誓〜!、と陽夏先輩がスポーツ大会の生徒代表みたいに右手をおれの前で上げた。
「あたしたちは、ぜっ〜たいに、悪党共を本気でボコることをここに宣言しまーす」
「ホント、頼みましたよ」
男の子からもらった緻密な情報から、正面突入で十分いける、と踏んでいた。おれたちは、倉庫のシャッター横のドアを堂々と開けた。
階段があった。その一段目に、男が一人座っている。ちょうど、タバコに火をつけた瞬間だった。「あ?」と男がタバコを落としたときには、おれの蹴りがその顎に突き刺さっていた。男は糸の切れた操り人形のように、階段室の壁に身体を打ちつけ、階段にもたれかかるように気絶した。
これで、あと七人。
勢いのまま倉庫一階へ通じるドアを開ける。男の子の事前情報通りの光景がそこにはあった。広い倉庫中央部に机代わりの木箱を置き、その周りで七人が安い酒を飲みながら、買取人の到着を待っていた。
七人の目が、一斉におれたちに向けられる。
全員、弱者特有のオーラーー表面上は強者を装っているが、常に何かに怯えているような気配ーーを発露させていた。誘拐犯のボスらしき、一番ゴツいやつが、ごにょごにょと何かを言う。おれと陽夏先輩は、無言のまま七人に襲いかかった。
二手に分かれ、強そうな奴から順に、容赦のない打撃を与えていく。
常時のおれたちなら、手加減していただろう。誘拐犯らが確実に死なない、あるいは、後遺症を残さないと言い切れる打撃をのみを用いて、制圧したはずだ。
だが、今のおれたちに余裕はない。
スピード最優先。
獣のように誘拐犯らに襲いかかった。
誘拐犯たちもさぞかしびっくりしただろう。
突然、ぱっと見陰キャの高校生とアイドルっぽい女子高生が現れたとおもったら、人間離れした身のこなしで、無言のまま圧倒的暴力を振るってきたのだから。
六人を倒すのに十秒もかからなかった。
「こいつらがどうなってもいいのか!」
最後の一人が、人質監禁部屋に逃げ、女の子に銃を突きつけた。予想通りの展開だ。陽夏先輩は、事前の約束通り、一切躊躇うことなくポケットから石ころを取り出すと、渾身の力で投擲した。楕円状の石ころが、綺麗な縦回転を描きながら、伸びていき、ホームベースのような顔の形をした男の頭部左を掠めるようにヒットした。見事なストライク。男がぐらいついた隙に、おれが距離を詰め、とどめの一撃を腹にぶち込む。
おれと陽夏先輩は息つく間もなく、誘拐された子供たちの束縛を解く作業に取り掛かった。
「みんな〜。もう、大丈夫だからね〜。おねえちゃんはみんなを助けにきた正義味方だぞ! 痛いとこない? 大丈夫? そっか! みんな、よくがんばったね。もう、泣かなくていいんだよ。みんなで、おうちに帰れるんだから。さ? 立てる? 悪い人が来る前に、ここを脱出するぞ〜!」
先輩が小学校教師のように、子供たちを連れ出す。外に出るなり、男の子が向こうからかけてきた。兄弟同士の感動の再会が繰り広げられる。
「よし、これで一件落着だね。本当にみんなよかったね」
陽夏先輩が歓喜の涙を流す子供たちを見て笑った。それから、
「みんなでーー」
急に口を閉ざし、まるで、救出に失敗したかのように、表情をこわばらせた。「陸ちゃん」と、半泣きの顔をおれに向ける。先輩は幸福な子供たちの世界から、過酷なおれたちの現実に引き戻されていた。
「時間は?」
「六時五分です」
タイムオーバー。もう、どう頑張っても間に合わない。
「……っ」
先輩が地面にへたり込む。すぐに声をかけようとしたが、そうする前に、狂気一歩手前の声で言われた。
「交渉しよう」
その主張はこうだった。
朝点呼の六時におれたちの脱獄がバレる。それから、ハンターたちに連絡が行き、包囲網が敷かれまでには、三十分はかかるはず。ならば、六時三十分が真のタイムリミットなのではないか。
しかし、NPO構成員からは「午前六時になったら、きっぱり出発する」と何度も口酸っぱく言われているので、もうトラックは出発しているだろうし、まだ出発していないとしても、ここから合流地点までは三十分はかかるので、どのみち『真のタイムリミット』にすら間に合わない。
おれは説得しようとしたが、
「いや、やっぱり、だめ……」
と、すぐに自ら案を引っ込めた。
「みんなを危険にさらすわけにはいかない」
おれは無言で同意した。途端、陽夏先輩の表情から人間らしい感情がごっそりと剥落した。
ぞっとした。
まるで死人のような蒼白の顔面。もしも、脱獄に失敗したら、陽夏先輩はどうなってしまうのか。考えるだけで、怖くてたまらなくなり、おれは慌てて提案する。
「陽夏先輩、まだです。まだ終わってません。コレに賭けましょう」
誘拐犯からパクった車のキーを取り出し、冗談混じりに言う。
「最初に言っときますけど、陽夏先輩には絶対に運転させませんからね。どうせ、先輩のことだから、ぶっ飛ばしすぎて、スピード違反食らうでしょうから。運転はおれに任せてもらいますよ」
もしくは、アジトで気絶している誘拐犯の一人を銃で脅して、そいつに運転させた方がいいかもしれない。とにもかくにも、車で、できるだけ遠くに逃げて、改めてNPOと合流する。それしか道はないだろう。
「その手があったか!」と先輩が息を吹き返す。
しかし、目はいつもの陽夏先輩ではなかった。狂気の一歩手前という感じだ。指先が震えている。先輩はもう正気を保つのに一杯一杯だった。
「それじゃ、ちびっ子たち。おねえちゃんとお兄ちゃんはもう行かなくちゃいけなくなった。いい子でおうちに帰るんだよ。それからーー」
それでも、子供に向き合うときだけは、いつもの先輩だった。
「みんなで幸せになるんだよ」
子供たちは何も応えなかった。
助けてくれたことへの感謝も、さよならも、何も言わない。
おれは子供たちの表情に違和感を感じた。皆、おれたちを怖がっているように見えた。誘拐犯をボコボコにしているおれたちの姿を思い出したのだろうか。誘拐犯のアジトへ戻り、車のドアを開けようとしたとき、その理由が判明した。車の影からボソボソと小声が聞こえてきた。声は信じられないことを言っていた。
「写真見てくれました? 勉強高校の人でしょ? ボク、ウソついてなかったでしょ? ねえ? ホントだったでしょ?」
声の主は、おれたちをここに連れてきた男の子だった。車の前輪の前にしゃがみ込み、おれたちのことをチクっている。
「そうでしょ? ボクの名前は小稲田直人です。一番最初に見つけたの小稲田直人です。覚えておいてください」
おれは背後からスマホを奪い取った。
「あっ!?」と、まるで、背後からナイフで刺されたかのような声をあげる。
画面をみる。一一〇の数字が光っていた。電話を切る。ショートメッセージのアプリをタップ。一一〇あてに、二つの画像が送信されていた。おれと陽夏先輩が写った写真。それから、実に抜け目のないことに、おれたちが今から乗り込もうとしていた車の写真。ナンバープレート付き。
おれは、怒りを通り越して、呆れた。
「お前、頭良いな」
「ごめんなさぃいい!」と、男の子が土下座する。
「ボクんち、お金がなくて、それで、ごめんなさいぃいい!」
勉強高校の生徒を、外で見かけた場合、警察に通報すれば、懸賞金がもらえる。このガキは、一攫千金のチャンスを見事に掴んだというわけだ。
「やってくれたな、クソガキ」
怒りが再燃するまでに一秒もかからなかった。
渾身の力で蹴りを入れようとしたとき、ガキが反撃してきた。隠し持っていた拳銃をおれに向け、迷わず引き金を引いてくる。
乾いた破裂音が鳴る。
なぜか弾丸が見えた。
あっ、死んだ。と思った。弾丸が螺旋を描きながら、おれの方に伸びてくる。ヒューン、と間伸びした音。弾丸はおれの頬のすぐ横を通り過ぎた。
「殺さないよ。殺すわけないじゃん。だって、殺したら、お金もらえないし」
ガキがさっきとは別人のような冷静な声でいう。
「本当は殺したいんだけどね。あんたらみたいな、上層の連中には、普段からとってもお世話になってるからさ」
ガキだと思って完全に油断した。さっきの拳銃の使い方はなんだ? かなり手慣れている。こいつは只者ではない。
「てめぇ。それが助けてもらった奴の態度かよ」
「手を上げて、両膝を地面について。早くして。ボク、いざとなったら、撃つから。最悪一人を差し出せば、お金もらえるし」
「無視するなよ、ガキ。おれたちは、てめぇを助けたんだぞ? なんとも思ってねぇのかよ?」
言いたい事は山程あったが、おれはここで止めた。
大佐渡に似た殺気を感じたからだ。コイツはいざとなれば、本当に人を撃てる人間だ。おれは言われるがまま、地面に両膝をつき、両手を挙げた。
他のガキ共も集まって来る。銃を持っている奴が他に二人いた。おれと陽夏先輩は合計三つの銃口を突きつけられた。
「おねーちゃんも、手を上げて、両膝を地面についてよ。ボクたち、女でも容赦しないよ?」
陽夏先輩は立ったまま、呆然とガキを見つめていた。
「ねえ? 聞こえてる? 早くしないと、殺すよ?」
「てめぇ、ガキ。撃ちやがったら、許さねぇぞ」
おれが口を開くなり、背後で見張っていたガキが、おれの後頭部を銃口でつついてきた。それから、不安そうに「ねえ、直人。こいつ、殺そうよ。女だけで十分でしょ? こいつ、ヤバいよ」と、リーダー格のガキに相談し始める。
「いや、そいつは、ヘタレだ。殺すなら、女の方だ。こいつ、イカれてる」
ガキは追い詰められたように「なんなんだよ、コイツ」と言うと、陽夏先輩に狙いを定めた。
「おい、女! 本当に撃つぞ!? 早く手を上げろ!」
「陽夏先輩! ここは、ガキの言う通りにしてください!」
おれは同じ事を三度叫んだ。反応がない。陽夏先輩は虚な表情のままこちらを見ている。ガキが舌打ちした。「悪く思うなよ」と、つぶやく。
そのとき、おれはようやく気づいた。
陽夏先輩の虚な仮面の奥で燃え盛りつつある、激情の気配に。
「やめろぉおおおお!!!」
ガキがトリガーを引く。
銃声とともに、白煙と空薬莢が吐き出される。
弾丸の線が陽夏先輩を貫いた。ように見えたが、信じられないことが起きた。
陽夏先輩が半身の体勢になり、弾丸を避けたのだ。
その機敏な動きのままに、ガキに肉薄すると、拳銃を叩き落とした。おれもその機に乗じて、後ろのガキの手首を叩く。拳銃がガキの手から離れ、遠くのコンクリートの上に転がった。三人目の、拳銃所持者のガキにも同じ事をやろうとしたが、そいつは適切な距離をとっており、既に陽夏先輩に銃を向けていた。
おれは咄嗟に、陽夏先輩に覆いかぶさった。
背後で銃声が鳴る。
放たれた弾丸は、まったく見当違いの場所に着弾した。
おれは、さっき陽夏先輩がガキから叩き落とした拳銃を拾うと、振り向き様に、発砲した。ガキ共の足元に数発ぶっ放す。
ガキたちは、「ひぃいいい!」と声を上げ、足をもつれさせながら、小動物のごとく廃墟の向こうに逃げていった。その小さな背中の群を見ていると無性に腹が立ってきた。追撃したい気持ちが込み上げてきたが、今はそれどころではない。
「陽夏先輩、立てますか? おれたちも逃げましょう」
もういつ警察やハンターが来てもおかしくはない。ひとまず、監獄森林に身を隠さなければ。
おれは無理やり、陽夏先輩を立たせた。それでも動く気配がないので、抱きかかえて逃げようとしたとき、
「あたし、決めた」
突然、清々しい口ぶりで言った。
「ムカつくやつは、みんな殺す」
「先輩?」
「とくに、さっきのチビ。あいつは容赦しない。めっためったに殴りつけて、ボロ雑巾にしてからぶっ殺す」
バサバサと鳥が羽ばたく音が聞こえた。ふと、西の空を見れば、空を覆うほどのカラスの大群が見えた。一体、何匹いるのだろう。数百、いや、数千か。
陽夏先輩がおれの手から拳銃を引ったくる。
「ダメです! 先輩!」
陽夏先輩の腕を掴もうとする。
おれの指先は、その滑らかな二の腕をかすっただけだった。
陽夏先輩が走り出す。ガキが逃げた廃墟の方へ。まるで、何かに取り憑かれたかのように。追いつけない。速すぎる。手を伸ばしても、先輩をつかめない。それどころか、徐々に差をつけられていく。おれと陽夏先輩との距離が十メートルばかり開いたとき、先輩はガキ達に追いついた。
さっきのリーダー格のガキが「みんな、逃げろ!」と叫び、スチール製の丸パイプを構えて、陽夏先輩を迎え撃つ。陽夏先輩は獲物に喰らいつくピューマのようにガキに襲い掛かった。
ガキが棒を振り回す。先輩は難なくそれを片手で掴むと、ガキの手から取り上げた。二人は絡み合い、ごろごろと地面を転がり、次に止まったときには先輩がガキを上から押さえつけていた。
「ひぃいっ!」とガキが悲鳴を漏らす。
陽夏先輩がガキの眉間に銃を突きつけた。
「チビちゃん? 覚悟はできてる? 今から君を殺すね?」
「うあああ」
ガキは最後の抵抗とばかりに暴れたが、数秒後には、口を閉ざし、鋭い目で陽夏先輩を見据えた。
命乞いをする気配はまったくない。
自分の運命を受け入れてるばかりか、陽夏先輩に「やるなら、やれよ」と挑んでいる気配さえあった。
「あたしの邪魔をするやつは許さないからぁあああ!」
陽夏先輩が狂ったように叫ぶ。
「あたしは、もう絶対、誰も助けない! これからは、あたしのためだけに生きてやる! ムカつくやつは、全員ぶっ殺して、あたしを幸せにする!」
陽夏先輩が銃を撃った。
天に向かって。
銃声の残響が去ったとき、陽夏先輩は勝利宣言をした。
「って、言うかと思ったか、ばーか。あたしの、勝ちだ。あたしは、どんなときでもあたしなんだ」
*
おれたちは、監獄森林へと退避した。
リーダー格のガキも一緒だった。脅して無理やり連れてきたわけではない。ただ、陽夏先輩が「ちょっと話さない?」とガキを誘ったのだ。ガキは、何を思ったのか、素直におれたちに従った。
「この辺まで来れば、しばらく大丈夫でしょ」
視界の悪い平地部に達したところで、先輩が立ち止まり、
「さて、少年よ」
と、まるで小夜子先輩に冗談を話すときみたいに、切り出した。
「ちょっとだけ、あたしの愚痴を聞いておくれ」
先輩は自身の境遇を語り始めた。幼少の頃から、監獄高校を脱獄するまでのことを掻い摘んで話していく。内容はシリアス極まりないものだったが、陽夏先輩はユーモアたっぷりの戯けた口調で語った。
「以上、大神崎陽夏ちゃんの、泣ける話でした〜」
「なんだよ、それ。同情されたいのかよ」
「別に。ただ、知っておいてほしかっただけ。あたしたちもね、それなりに大変なんだって。必死にこれまで生きてきたんだって。君は強い子だからさ。話しても大丈夫かなーって思って」
「しらねぇよ、そんなの」
ガキが腹を立てる。しかし、その態度とは裏腹に、酷い動揺の気配がうかがえた。少し顔色も悪い。まるで、人を殺した直後のようだ。
「ボクらだって、大変なんだ」と、不快感を表情一杯に滲ませる。
「お前ら、上層の奴らにはわからないだろうけど」
それから、お返しとばかりに、過去を話しはじめた。
たしかにその話は、おれたち上層階級出身の人間には想像もできない悲惨な内容だった。
特に貧困の話。毎日の食量を確保するのにも苦労しており、雑草や虫を食って凌ぐことも多いらしい。バッタとコオロギはご馳走で、油で揚げで食べると美味いのだと、皮肉な表情で話した。親が残した借金があり、毎月一度、半グレ連中が金の取り立てにやってくるという。ガキの現在の生きる目的は、その連中から弟妹を守ることらしい。あらゆる手段を使って、金を集めているのだという。ゴミを拾い歩いたり、万引きしたり、時には、闇バイトに手を出したり。
ガキは進学小学校に通学していた時期もあったらしい。普通、下層階級の子供は一般的な小学校にすら通うことができない。そんな中、進学小学校への通学許可が降りたのは、異例中の異例といえるだろう。しかも、特待生認定まで受けていたというから驚きだ。なんとなく気づいてはいたが、やはり、このガキは相当、頭の出来が良いらしい。
ガキはこれで「成り上がる」ことができると喜んだが、そこで待ってたのは、壮絶なまでの差別だったという。特に、上層階級のそれは容赦なく、クラスメイトや教師らを操り、殺人一歩手前の卑劣な行為を仕掛けてきたらしい。ときには、家にまで押しかけて来る始末で、一度は燃やされかけたこともあるという。身の危険を感じたガキは、高い能力を有していたにもかかわらず、成り上がる道を断念せざるを得なかったという。
「ひどい。そんなことが……」
陽夏先輩が、痛切な声をもらす。
その声を聞いた途端、ガキの表情が少し柔らかくなった。
「これでもマシなほうだよ。もっと酷い目にあった奴もたくさんいる」
ガキは過去の話しを打ち切った。
ため息を吐き、呆れたようにつぶやく。
「ホントこの世界ってクソだよね。悪い奴ばっか。誰も助けてくれない」
「だよね」と陽夏先輩。
「まあ、あたし個人的にはさ、別に助けてくれなくてもいいんだよ。とにかく、放っておいてほしい。あたしに構わないでほしい。そうすれば、全てがうまくいく気がするんだ」
「ああ、それ、すごくわかる」と、ガキが深く同意する。
「ボクもそう。別に助けはいらない。ただ、ボクのこと邪魔しないで欲しい。無視してほしい。それだけでいいのに……」
それからガキが押し黙る。
まだ、何か言いたげだ。それもかなり重要なことを。陽夏先輩もそれは察知したようで、傾聴の姿勢を保ち続けた。
おれは周りを警戒した。人の気配はなし。警察やハンターは廃工場エリアを調査しているのだろう。とすれば、ここに到達するのは、当分先になりそうだ。
「おねーちゃん、ボクさ……」
ガキの顔に暗い薄笑いが浮かぶ。それから、湯田のような声で言った。
「人を殺したことが、あるんだ」
なんとなくそんな気がしていた。それでも、改めて本人の口から聞かされると、胸が重くなる。
陽夏先輩は顔を俯け、まるでガキの苦しみを追体験したかのように、苦悶の表情を浮かべた。
「ボクにはさ、おねーちゃんがいたんだけどね。おねーちゃんさ、ヤバい半グレ集団で闇バイトしちゃって。そしたら、抜け出せなくなって。あいつら、家まで押しかけてきたんだ。それで、悪いことするように、脅してきた。何かはわからないけど。おねーちゃんが、そんなことできないって、言うぐらいだから、きっとかなりヤバいことだったんだ。そしてら、急にそいつら、怒り出して。おねーちゃん殴って、銃を突きつけてきて。ボク、どうすることもできなかった。殺すしかなかったんだ。あいつら、おねーちゃんを殺そうとしたから。ボクだって、本当は人殺しなんてしたくなかったんだ。ちゃんと、そいつらの、お墓だって、つくってやった。心から悪いと思ってるし。そいつにも毎日手を合わせて、謝ってる。でもさーー」
ガキが泣き始める。さっきまで大人っぽく見えていた、あのガキはどこにもいなかった。普通の小学校高学年の男の子がそこにはいた。
「ボク、許してもらえなかったんだ。おねーちゃんは、ボクを許してくれなかったんだ。人殺しは最低だって。どんな事情があっても、ぜったい、人を殺しちゃ、だめだって。殺すぐらいなら、殺されろって。それで、おねーちゃんさ、ボクの責任をとるって、家を出ていったんだ。たぶん、もう、死んでる。だって、あいつらのとこ、行ったから。ボクのせいで、おねーちゃんは死んだんだ。ボクがおねーちゃんを殺したんだ。ボクがーー」
陽夏先輩がガキを抱きしめる。
ガキの頭を手繰り寄せ、「辛かったね」と、母親のように言った。ガキは、先輩の胸のなかで、幼子のように泣きじゃくった。
「ごめんなさい、おねーちゃん。ごめんなさい」
何度も何度も泣き叫ぶ。
「おねーちゃんも、ボクのせいで。ボクが、邪魔したから。ボクさえ、いなかったら。ごめんなさい」
ガキの体が痙攣を起こしているかのように激しく震え出した。陽夏先輩はそれが治まるまで、やさしく背中を撫で続けた。おれは抱き合う二人をただただ見守った。陽夏先輩が何かを大切なものを掴もうとしているように見えた。
ガキの震えが癒えてくる。激しかった呼吸も整ってきた。微睡む一歩手前のような、安らかな表情さえ浮かべている。
陽夏先輩は目を開くと、ガキに慈愛の視線を送りながら、優しく言った。
「許すよ」
ガキが顔を上げる。
「おねーちゃんはね。君のこと許す。だって、君は、すっごく優しくて強い子だから」
「でも、おねーちゃん、このままじゃーー」
「君さ、名前、小稲田直人くんだっけ?」
直ちゃん、って呼んでいい? と、笑いかけてから、続ける。
「直ちゃんの本当のおねーちゃんもさ。直ちゃんのこと、許していると思うよ」
「……」
「きっと、直ちゃんのことが大好きすぎて、気持ちが空回りしちゃったんだと思う。あたしも、よくあるから。わかるんだ。だから、大丈夫。君のおねーちゃんも、絶対に、君を許してる」
その言葉を聞いた時、ガキは救われたような表情を浮かべた。
「直ちゃんはさ。将来の夢とかってある?」
「ボクは……ボクみたいな人を助けたい。できるだけたくさん」
「やっぱりね。なんか、そんな気がしたんだよね。あたしと同じ匂いを感じたから」
それから、陽夏先輩も救われたような顔になった。
「あたしもね、君と一緒。あたしも、あたしみたいな境遇にある子の力になりたいって、ずっと考えてたんだ。どうやら、あたしたちは、同志だったって、わけですな」
陽夏先輩が笑いかける。ガキは笑い返すことはなかったが、涙で目を輝かせながら、「うん」と力強く頷いた。
「あたしさ。君に出会えて本当によかったよ。脱獄には失敗したけど、無意味じゃないって確信できた。あたしの気持ちを君に託せたーーいや、託せたって言うより……最後に、君の背中を押せて、本当によかったよ。直ちゃんってさ、絶対、将来大物になる気がするんだよね。度胸もあるし、ヘビーな経験も積んでし、頭も抜群に良いし。きっと、直ちゃんは、これから、たくさんの人の希望になるんだと思う。たぶんあたしは、君の背中を押すために、脱獄してきたんだよ」
それから、陽夏先輩は提案した。
「警察をここに呼ぼう」と。
そうすれば、このガキ、小稲田直人に、懸賞金が授与されることになる。しかも、超進学校生二人分の金額。たしかにそれだけの金があれば、借金を返してもまだ余りある。そして、この頭脳明晰なガキなら、自分が成り上がるために有効活用してくれることだろう。
しかし、ガキは、さっきまであれほど懸賞金を狙っていたのに、その提案を拒んだ。
「ボクは、おねーちゃんに悪いことをした。それなのに、そんなの受け取れない」
「いや、直ちゃんはあたしの懸賞金を受け取らなければいけないよ。その責任がある」
「でもーー」
「さっきも言ったようにさ。君の背中を押させてよ。金銭的な意味でも。その結果、たくさんの子が救われることになると思うし」
それでも、ガキは迷ったが、最終的には首を縦に振った。深刻な面持ちで。
「わかった。ボク、おねーちゃんの意志を継ぐ。立派な大人になって、たくさん人を助ける」
「いや、そんな重く受け止めなくていいから。意志も継がなくていいし。あたしはね、ただ、直ちゃんのやりたいように、生きてくれれば、それで大満足だから」
言いながら、陽夏先輩は再びガキを抱擁した。
「幸せになってね、直ちゃん。たぶん、それからなんだと思う。君が幸せに生きれば生きるほど、きっと、多くの人が救われていくから」
「うん」と、ガキも真摯に応える。
陽夏先輩は幸せそうだった。
本当に満たされた顔をしている。
ガキも幸せそうだ。
自分を縛っていた呪いから解放され、希望に満ち溢れた顔で陽夏先輩を見つめている。
まるで、神聖な宗教画のような光景がおれの目の前に完成していた。
この二人だけの世界を壊すのは、途轍もない罪であるような気がした。
しかし、その一方で、壊さなければ、という義務のようなものも併存していた。
本当にこれでよかったのだろうか。
このまま、終わらせてもよいのだろうか。
おれは「これでよかったのだ」と思い込むことにした。
これは陽夏先輩が最後の最後に掴み取った幸せなのだ。
陽夏先輩の幸せが一番だ。先輩の決断を尊重すべきだ。
おれのエゴで、先輩の幸せを台無しにしてはいけない。
それに、陽夏先輩は、一度決めたことは絶対に曲げない。その強い意志を変えることは、誰にもできない。おそらく神にも。先ほど、陽夏先輩が天に向かって銃を撃ったのが、頭を過った。
しかしーー。
拳を握りしめる。
この胸のわだかまりはなんだろう。
スマホが振動した。
おれは、目の前の二人の世界から目を離し、スマホ画面を見た。
メッセージアプリを開く。
滝沢先生から写真が届いていた。
陽夏先輩の写真だった。
恥ずかしそうに顔を赤らめている。
かわいい。
あのときの写真だ。昨年の勉強祭準備中に撮った写真。
それから、一言メッセージ。
「守ってやれよ」
その言葉が、おれの背中を押した。
一歩を踏み出すと、もう止まらなくなった。
おれは抱き合う陽夏先輩とガキを引き剥がした。神聖な宗教画をビリビリと真っ二つに切り裂くように。
「おい、ガキ。これ、お前にやる」
それから、財布をガキの胸に押し付ける。中には、おれの特待生奨学金と昨年の勉強祭開催費繰り越し金が入ってる。陽夏先輩とおれの懸賞金と比べれば、見劣りするものの、これでも十分な金額だ。
「お前なら、これで十分成り上がれるだろ? 幸せになれよ」
ガキは夢から覚めたみたいにキョトンとしていた。
それからおれは陽夏先輩をお姫様抱っこした。監獄森林の奥へと分け入り始める。
目指すは、O市の貧民街。
陽夏先輩が、「おろせ!おろせ!」とうるさい。
おれはガン無視で走り続ける。
覚悟が決まった。
人を殺す覚悟。
いまなら、少しだけ、魔親や兄たちの気持ちがわかる気がした。奴らはたしかに人殺しだ。しかし、奴らは自らの意思で人殺しになったのではない。環境がそうさせたのだ。自分や他者を守るために、人殺しになる決断をしたのだ。
おれもそうしようと、覚悟が決まった。
やっぱりおれは陽夏先輩に生き続けてほしい。
そして、陽夏先輩無しでは、おれは幸せにはなれない。
人を殺してでも、それを手に入れたいと思った。
人を殺してよいのなら、なんとかできる気がした。
ハンターが何人来ようとも、撃退できる自信がある。
おれは今、拳銃を持っている。まずはそれを使って、より強い武装を施したハンターを倒し、そいつの武器を奪う。その武器を使って、残りの奴らを返り討ちにしていく。もちろん、可能な限り致命傷は避けるつもりだ。だが、相手の人数が人数だけに、そうそう手加減もできないだろう。必ず決断を迫られる場面がやってくる。今のおれなら、そのときに、非情な決断を下すことができる気がした。
「聞けって! 言ってるだろぉーが!!!」
陽夏先輩の張り手で、おれの意識は現実に戻された。
するり、と猫のように先輩がおれの両腕からすり抜け、地面に着地する。
「陸ちゃん。今すぐ直ちゃんのところに戻るぞ」
「嫌です」
おれたちは睨みあった。
すぐに先制攻撃を仕掛ける。陽夏先輩の左脇腹に渾身の蹴りを放つ。先輩が吹き飛んだ。ごろごろと、木々の間を転がり、「がはっ」と、唾を吐く。初めて女を本気で攻撃した。陽夏先輩なら大丈夫だと確信できたから。おれの予想通り、先輩は見事な反応を見せ、左腕でガードしつつ、自分から体を引き、蹴りの力を受け流した。
これを繰り返そうと思った。大技で陽夏先輩の体力を削り、最後に気絶させる。
今度は陽夏先輩が攻めてきた。
先輩も本気だった。
滝沢先生仕込みの刺すよう鋭いパンチ。それから、蹴り。おれのガード体勢を引き出したところで、柔術のような締め技を仕掛けてきた。するりと、背後をとられ、首を絞められる。「ギブか?」と問われたが、おれは反撃という形で、否を突きつけた。
陽夏先輩の二の腕を掴み、一本背負いの要領で振り払う。軽い先輩は、地面に背を打ちつけたが、すぐにその勢いを回転に変換し、立ち上がった。
「廉ちゃんスペシャルでもダメか。参ったね……ていうかーー」
陽夏先輩がおれを揺さぶってくる。
「陸ちゃんが、女の子を本気で蹴るような最低な人間だとは思わなかったよ。見損なった」
「だって、先輩、言うこと聞いてくれないじゃないですか」
「うん。だって、陸ちゃんを人殺しにしたくないし」
おれは、じりじりと、先輩ににじり寄る。
「おれは、陽夏先輩に、生き続けてほしいんですよ」
「うっざ。そういう、ダークヒーロー的なキャラ、やめてくれる? 今の、陸ちゃん、ガチでダサいよ。ていうか、それ以上、近づいたら、ガチで別れるから。ホントのホントに別れるからね。それでもいいの?」
出た。最終手段、「別れる」。
「陽夏先輩、もうその言葉に、なんの重みもないですよ。おれたち、何回別れたと思ってるんですか。どーせ、すぐに元通りですよ」
「ふふ、たしかに」
陽夏先輩が微笑む。おれはその隙を突こうと左足に力を込めたが、先輩の構えは完璧だった。まったく、隙がない。全身からはまったく力感が感じられず、どんな攻撃を仕掛けても、受け流されそうだ。これが対大佐渡戦の為に導き出した、先輩と滝沢先生の答えらしい。最後に野球グラウンドで滝沢先生にかけた言葉『今なら廉ちゃんに勝てるかもしれない』もあながち、嘘ではないかもしれない。
「じゃあ、バイバーイ」
陽夏先輩が逃げ出した。賢い選択だ。ハンターが来るまで逃げ続ければ、先輩の目的は達成される。
陽夏先輩は、ただ地面を走るだけでなく、周囲の木を使って、立体的に逃走した。おれは粘り強く、その背中を追う。先輩は昨夜から動き続けている。もう体力は限界のはずだ。だが、それはおれにも言えることだった。脚が重い。頭がぼんやりする。
お互い粘り続けた。
追いかけっこは五分、十分と、長々と継続された。時折、チラチラとこちらを振り返る陽夏先輩には、明らかに疲労の色が見えた。それを見るたびに、もう少しで捕まえられると思ったが、実際は全然距離を縮めることができなかった。
陽夏先輩も死ぬ気で動き続けている。
おれを絶対に人殺しにさせないために。
そう思うと、さっきの決意が揺らぎ始めてきた。
元の『誰も殺せないおれ』に戻りそうになる。
本当に人殺しになるしか手がないのか。
本当にもう万策尽きたのか。
何か他に策はないのか。
何度も『これしかない』と、自分に言い聞かせるも、頭の奥では、別の方法を延々と思考している自分がいた。
先輩が茂みの奥に飛び込んだ。
途端、「ああ!」と、悲鳴が上がる。
「陽夏先輩!」
おれはスピードを上げた。全力疾走。監獄森林は思わぬ崖が多い。そこに転落したのではないかと、気が気ではなかった。
先輩が消えた茂みをかき分ける。
目の前が開けた。
朝日が眩しい。
目を細めて、前方を見る。
そこには、湖があった。
朝日が湖面に反射し、キラキラと輝いている。
「あ……」
頭の中で何かがつながりかけた。
この湖は、大脱獄事件で、女子生徒が入水自殺した場所でーー。
背後に何かが着地する音がした。
振り向いた瞬間、
「おらぁああ!!!」
決死の覚悟がこもった声とともに、右ストレートがおれの頬をえぐった。意識が飛びそうになる。なんとかこらえたが、足の力が抜けて、背中から地面に倒れた。
湖と空が逆転。
「あっ」
ひらめきがおれの頭に迸る。
「陸ちゃん! ごめん!」
陽夏先輩がおれに抱きついてくる。
おれは陽夏先輩の策にまんまと引っかかり、背後を取られたことを、このとき自覚した。おそらく、先輩はこの後、さっきの締め技で、おれを落とすつもりだったのだろう。だが、実際はおれの胸に顔を埋め、わんわん、泣いた。
「あたし、やっぱり、陸ちゃんを傷つけるなんてできない!」
賢いんだが、バカなんだか、本当にわからない。さっきの「覚悟を決めた」おれだったら、ここで先輩を落としていたに違いない。それで、陽夏先輩を背負い、O市に向けて歩み始め、人殺しになっていた。
その未来は回避された。
「陽夏先輩、ナイスパンチ……です」
おれはぼんやりした意識のなか、親指を立てた。
「おれ、ひらめき、ました。先輩のパンチで、ひらめきました。ガチで、ナイスパンチです」
「え? どういうこと? ひらめいた?」
「はい。陽夏先輩は脱獄できます」
「え? ウソ? どうやって?」
おれは陽夏先輩に策を話した。
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