3: 音楽葬未遂

 薄い壁の向こう、シャワーの水がはじける音がする。

 ハジメはそれをからっぽの気持ちで聞いている。

「…………」

 ただただ、時間が流れていく。

 ……何が起こったのか最初は全く理解できず、なぜ自分が一人きりでこの部屋に放置されたのかすらわからなかった。

 しかし数分後、ようやく単純な問題が発生していたことに気付いた。「ちょっと考えさせてほしい」が、「今からちょっとだけ時間がほしい」と解釈されてしまったらしい。

(客が来た状況で、シャワーって浴びていいんだ……)

 自らの常識が揺らぐ中、ハジメは行儀悪くソファにもたれかかる。

 『お花の水やり』に出て行ったケイは、宣言通り、十五分で戻ってきた。しかしハジメのぼんやりした表情を見て決めあぐねていると判断したのか、そのまま何も言わず奥の方に引っ込んでしまったのだ。そしたら、自分に水やり――もとい、シャワーを浴びる音が部屋に響き始めた、という状況である。

 なんだか適当な人だなあ。

 親しげに接するタイプの人、それ自体は全然構わないし、音楽界隈はそのあたりがぶっ壊れている人もまあまあいるので慣れている。ただここまでくると、ちょっと――そんな気分だ。

 そうなるとなんだか真面目に振る舞おうとしていたのもばかばかしく思えてきて、投げやりな気分になってくる。

(伝わらない、か……)

 面と向かった会話ですら、この通り。

 それなのに、不特定多数に向けた歌詞なんて――。

 座るソファの前、テーブルの上に開いて置いているノートを傍観する。ケイが蘇生作業をしている時から、時間がもったいないな、となんとなく取り出して開いてはいたものの、何も手つかずだ。

 そのページには罫線というより、五本の線が密に引かれており、それが何セットも縦に並んでいる――つまり楽譜を書くための、五線紙によるノートである。

 しかし、彼は作曲はせず、もっぱら歌詞を書くのに使っている。

 わざわざ五線ノートを使っている理由は二つある。一つは、万が一にもメロディーが降ってきたら、それを書き留められるように。

 そしてもう一つは、普通の罫線のノートには〝勉強〟のイメージがついてしまっているので、あえて五線ノートに書くことで、日常の読み書きから脳を〝音楽的〟に切り替えられる――そんな感覚があるからだ。

 でもそうやって切り替えて書いてある文字も、こと今においては冷え切って見える。音が聞こえてこない、ただの文字だ。

「…………」

 ハジメはソファにもたれかかったまま、先程から幾度となく、そしてまた診察台の方を見る。

 毛布をかけられた、ロボットの死体。表面の凹凸がやはり女性型であることを物語る。

 ――ケイは、死んで、と言っていた。

 死んで、とは言っていなかった。

 とはいえあそこまで右往左往して奮闘していた、その結果の発言である。つまるところ〝九十九パーセントくらい〟という意味なのだろう。

(野垂れ死にか……何かがあったんだろうなあ……)

 ストーブの上のやかんがしゅんしゅんと蒸気を挙げる音を聴きながら、ハジメはこのロボットを哀れみつつ――あることを思いついた。

 スマートフォンをリュックサックから取り出し、マナーモードをオフにする。面接というていだったので仕舞い込んでいたが、もはやどうでもいい。

 スリープを解除する。ホーム画面に並ぶアプリのアイコンのうち、サウンドスピーカーを模した円形と右向き三角が組み合わされたアイコンをタップすると、音楽再生アプリが起動した。

 傍から見れば、待ちぼうけし過ぎてとうとう音楽を聴こうとしている――そんな行為に見える。しかしハジメの本意はそうではない。

 やはり冷静に考えて、死体運びの仕事に従事することは難しそうだ。自分はロボットたちのために何の役にも立てそうにない。それならば、せめて今、自分ができること――自分の好きな曲を、はなむけとして送らせてもらおう――ということである。

 当たり前だが、死んだ人間と同じく、死んだロボットが真の意味で音楽を聴くなどということありえない。

 しかし同じ世界に生きる存在の死を目の前にした人間が、自然な感情で相手に何かを捧げようという気持ちに、論理など存在しない。それが実のところ、単純なエゴ――そんな慈しみをもつことのできる自分を再確認して悦に入りたい、心の奥底にそんな動機があるが故――だったとしてもだ。

 ハジメは画面に表示されたプレイリストの中、あえて「名称未設定」という名前のままにしている曲をタップした。

 画面が変化し、音が静かに流れ出す。

 ハジメはその魅力的な旋律に耳を傾ける。ごくシンプルな和音のつけられた、シンプルなピアノ曲である。

(……うん。やっぱりいい曲だよなあ……)

 ハジメはそれに聴き入りながら、理屈ではなく、少し前向きな気分になる。そして、自分なら何という曲名を付けるだろう、と考える。

 この楽曲の名前を、ハジメは知らない。それどころか、作曲者が誰かも、誰による演奏なのかも知らない。ダークウェブ――匿名制のインターネット――に漂っていたもののうち、特に気に入ったものをダウンロード保存して聴いている、それだけだからだ。

 何も知らない、わからない。

 でも、いいものはいい。

 テーブルに置かれてそのまま放置されたスマートフォンは、音を再生しつつ、画面を暗転させた。ハジメの意識は自動的にその画面から離れて、空間に響くその音に移る。ここには手向けられる花もなければ、教義に則ったきたりもない。ただ音楽だけが響いていて、参列者はそれとともに帰らぬ命を偲ぶ――自分の時も、こういうのでよさそうだ。音楽葬、というやつになるのだろうか。

 いや、何もいらないとはいえ、せめて棺には入れてほしいかもしれない。でも棺に入れられずにそのまま台か何かの上に横たえてくれた方が、身体で音楽を感じられてよさそう――と、彼は毛布で覆われた存在に視線を向ける。すると診察台の上では、横たえられていたロボットが

(…………)

 ハジメは、凍った何かを見ているような気分になった。なぜだかそれが輪郭だけの情報のように、具体性を得ない情報のように見えたのだ。それだけに、何の感情も起こらなかった。

 しかし次の瞬間、自分がぼんやりと向けていた視線が、目の前のそれと。それが両目であり、それが見開かれ、真っ黒な色の瞳で自身を凝視しているのに気づいて、ハジメの脳内には当然起こるべき現象が起こった。

「うおぉっ!?」

 ハジメは華奢だとか、なよなよとしているだとか、そういったことをよく言われる。いずれも外見がそうだということなのだが、その評からは想像もつかない、野太いとすらいえる叫びを挙げた。毛が逆立つような驚愕だった。

 次にハジメの目が捉えたのは、乱れに乱れたピンク色の髪の毛だった。それが生物の危険色のように見えて、ハジメはとにかく緊急避難のため、やわらかめのソファに尻が軽く泥濘ぬかるんでいる状態から脱走を試みる。それは相当に反射的な行動だった。

 が、脳からの命令速度と、肉体が可能な動作速度とがうまく同期せず――バランスを崩して転倒する。

「がはっ!」

 目の前のテーブルに脇腹あたりを強く打ち付け、潰されかけた蛙の悲鳴のような声が出た。当然激痛が走り、同時に何かが折れて床に叩きつけられた音が耳に入る。

 ハジメ自身も床に叩きつけられ、受け身すらとれず、そのままフローリングを壁際まで滑って激突した。次に視界に入ったのは――数十センチ隣、部屋の隅でしゅんしゅんと蒸気を吹き上げる石油ストーブの上のやかんである。もし激突していたらと、ハジメの背筋がぎゅっと凍る。

 胴体を打ったせいか、呼吸困難に陥りつつ――とにかく相手から目を離してはいけないと、ハジメはへたり込んだまま体勢を変えて、診察台の方向に向き直る。

「あ……!」

 彼の視界がまっすぐ、さっきまで死んでいたロボットの上半身をとらえた。それは、と聞こえるほどに大きく息を吐くと、診察台から猫のように伸びるように這って降りてきて、四足歩行でこちらのほうに向かってきた。

 ハジメはやむなしと、武器を取るため、立ち上がろうと足に力を入れる。ストーブの上で熱された金属、やかんである。もちろんこっちから攻撃しようなどとは思っていない。しかし明らかに危険そうな物体を手にしておけば、相手の動きを止めるくらいのことは――。

「は? は? は?! 立て、立てな……?」

 しかしこの時、ハジメは人生で初めて、腰を抜かすという体験をしていた。

 腰が『抜ける』という妙な表現は、実は的を射ていたのだと納得をする。さながらどこかのギアが噛み合いから抜け落ちてしまったように、足に力を入れているのに、全然動かない。

「うわ、あ、や、やばい! ケイさん?! ケイさん!!」

 ハジメはもうなりふりかまわず、向こうにあるらしきシャワールームに向かって、壁をひどく乱暴に叩き始めた。もしかしたら凹んでしまうかもしれないが、もうこの際、凹もうが穴が開こうが構わない。むしろ穴ぐらい開いてくれた方が、ロボットが驚いてひるんでくれる可能性が――それぐらいの狂った叩き方が功を奏したのか、唐突にシャワーの音が止み、シャワーヘッドが床にだんっ、と投げ捨てる音がした。

 よかった、助けに来てくれる――そう安堵できた時間は一秒にも満たなかった。壁にかじり付くような状態のハジメが振り向くと、ロボットは一メートルもないところまで迫っており、ハジメは再度、驚愕とも絶望ともつかない発音不明瞭な叫び声を挙げた。

 ――ハジメは観念した。何を観念しているのか自分でもわからない。ただ相手は意図があってこちらに這って向かってきたのだ。となれば、自分に対して何かをしようというはずで――。

 ――しかし、思考停止に陥りそうな恐怖に耐えるハジメの面前、ロボットは唐突に止まった。

 そして、四足歩行でいうところの前足の片方を、ハジメのほう――にではなく、その面前の床に伸ばして――何かをぺたぺたと触りはじめた。

「――え?」

 ロボットが伸ばした手、その指の先にあるのは――仰向けに床に落ちている、自分のスマートフォンである。

 視覚でその存在を知覚したハジメのその耳に、そこから再生され続けていたらしいピアノの音が再び聞こえ出す。そもそもテーブルの上に置いていたはず――と思ってテーブルの方を見ると、それは無惨にも片足が折れ、天板の片側が床に叩き付けらて滑り台のようになった姿を晒していた。

 こんな非常時なのに、ハジメの脳裏には〝弁償〟の二文字が浮かんだ。一方のロボットはそんなことはいざ知らず、一心不乱に、その黒い画面をぺたぺたと指で押し続けている。

 すると――奥の方からどたどたと音がして、ほどなく小柄な人影が姿を現し、部屋に甲高い叫び声を投げた。

「大丈夫!?」

 ケイである。しかしその姿は白衣一枚を羽織ったきりだ。すべてをいて飛んできてくれたらしい――ハジメはその格好に変な感情を持つのを通り越して、神話の中に登場する女神を見るような気分になった。

 ケイは部屋に駆け込んできたその勢いのまま、ロボットに対して体当たりを食らわせるような姿勢をとっさに見せていたが、彼女が状況を一切気にせずスマートフォンをいじっているのを確認すると、息を切らしつつハジメに向き直る。

「……ハジメくん、これ、どういう状況?」

 すっと直立してそう問いかけた――が、目の前にへたり込む男子の目のやり場のなさそうな様子にすぐ気づいて、慌てて背中を向けてを留めはじめる。

 一切身体を拭かずに飛び込んできてくれたのだろう、全身びしょ濡れだ。しかし背を向けたら向けたで、今度は性徴相応に突き出た尻が張り付いて透けて見えてしまっている。

「あ、いえ……えっと……な、何が起こったのか、ちょっと僕もよく……」

 ハジメの視線が臀部に刺さっているのを感じたのか、ケイは白衣を翻しつつくるりと前を向いた。

「どういうこと? 重要なことよ。この子、あなたに危害を加えようとした?」

 そして身体のラインをできるだけ表面に出すまいということか、少し猫背になりつつ問う。ハジメは前のめりになって詰問されているような状況になってしまい、覗き込んで睨むような視線にちょっとたじろいでしまう。

「あ、いえ、あの……違います、まだそこまでは……」

「まだそこまでは、ってどういうこと? そういう気配があった?」

「いや、その……多分ですけど、僕が、驚かせちゃったんだと思います。いつの間にか起き上がってこっちを見てて、それでちょっとびっくりしちゃって……」

 ハジメは怒られるかな、と思いつつも、正直に言った。目の前のロボットの性質が全くよくわからないが、ここまでの行動を見る限りは、敵意があるとは思えない。過剰に悪者にしてほしくはない。

「……ちょっとびっくりした、のレベルでここまではならんのよ……」

 足が折れて壊れたテーブル。

 盛大にずれたソファ。

 耐震装置が作動して消えたストーブ。

 その供述と、先程までのどたばたの内容。

 それらを綜合して、ケイはこの部屋の中で起こっていた状況をおおよそ察した。


     *


 『ロボット用のスタンガン』なる物騒なものをハジメに持たせ、ケイは再びシャワールームに戻った。万が一の時には先端を彼女に向けてボタンを押せ、という。しかし彼はそれを常に握っておこうという気分にはならず、傍らに置いている。

 一方のロボットに対しては、『彼の半径一メートル以内に近づくな』――かなり激しい口調でそう厳命した。あのスタンガンのボタンが押された時点であなたの命はない、などという警告まで残していったので、自分の行為如何では彼女の命が失われかねないと、ハジメはますます緊張している。

 なんだか申し訳ないな、とハジメは内心で反省する。自分がもっと冷静に反応していれば、こんなものものしい雰囲気にはなっていなかったはずである。でももう遅いな――。

(まだ戻ってこないよな……)

 目の前のロボットは、スマートフォンの暗転した画面を相変わらずぺたぺたと触り続けている。その様子がなんとなくかわいそうで、ハジメは半径一メートルの外から腕を伸ばし、その指先でロックを解除してあげた。

「…………」

 ロボットは自力で突破しようとしていたセキュリティを唐突に解除してくれた相手の方を向いて、無言で見つめるように静止した。

「……聴きたいんでしょう? 他にも」

「…………」

「好きに聴いていいですよ。大した曲は、入ってないですけど」

 黙りこくるロボットに、ハジメは照れ笑いしつつ、そう伝えた。

 ……そして、様々な音楽が部屋の中で鳴り始めた。指先でおもちゃ箱の中を探るようにプレイリストを探り、好き勝手に、ザッピングするように曲が再生され続ける。

 ロボットは先程まで全裸だったが、ハジメのジャケットを羽織っている。いつの間にか立てるようになっているのに気づいた彼が、ハンガーから取って貸したのだ。彼女はそれを無言で着た。

 適当に再生しているうちに、先程のピアノ曲が流再びれ出す。すると彼女はザッピングするのをやめ、その曲に聴き入り始めた。

 ハジメは俯き加減の彼女のピンク色の髪の隙間から見えるその黒い双眸に視線が行く。すると――先程からずっと結ばれていた唇が動いた。

「この曲、知ってるの?」

 女性の声だった。ロボットらしい無機質な――しかし人間相手に親しみを抱かせるに足る、抑揚というか、表情のある声だ。

「へっ?」

「この曲が誰の曲なのか……知ってるの?」

 しかし緊張感も同時に漂わせながら、再び問う。

「すみません……誰の曲か、までは、ちょっと。これ、ダークウェブで適当に落としてきたものなので……。でも、いい曲だなー、って思って」

「ダークウェブ?」

 ハジメはダークウェブについてひとしきり説明し、この曲の入手経緯を説明した。しかし相手はあまりぴんときていないようで、どうも反応が薄い。あるいはダークウェブという名前がひっかかっているのかもしれないな、と補足で説明をする。

「えっと、その、何というか……ダークっていっても、別にそんなアンダーグラウンドなものじゃないんですけどね。匿名でできるインターネットで……知ってます?」

「…………」

 反応が薄い。もしかしたらインターネット自体を知らないのかもしれない。別に使わなくても死ぬことはないわけで、そういう人やロボットがいてもおかしくはない。

「えっと……インターネットっていうのはですね……」

 ロボットは俯き加減だったのが、さらに俯いて、もう床を見ているくらいの項垂れ方になった。どこで入手したかなんて変に付け加えなければよかったな、まずかったかな、と、ハジメは申し訳ない気分になる。

「それはもういいです」

「へっ?」

 かける言葉に迷うハジメに対し、ロボットは唐突に話を打ち切った。そして、

「ありがとうございます」

「……えっ?」

 ――それは前後が繋がっていない、妙な感謝の言葉だった。それゆえにハジメの耳に届きはしたものの、何と言っているのか、脳が解釈できなかった。

「すみません、何て言っ……」

 しかしロボットは、その言葉を繰り返すことはしなかった。代わりにこう言った。

「私も、この曲、好きです」

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