第17話 スノードロップが咲く前に 17

 最初に出たのは欠伸だ。都内からあしかけ車で5時間強拘束されていたのだから無理もない話で証拠に凝り固まった体を伸ばすと節々が喜んでいる。あおいは指定の土産袋を引っ張り、後ろの席に置いてあるクーラーボックスを引っ張り出した。


「久しいね」


「お世話になってます」


 手を振ると天藤あまふじは丁寧に頭を下げた。今しがたまで昼寝でもしていたのかパーカーのところどころに皺が寄り、口元には涎が垂れた痕跡がある。目元にも薄っすら涙がたまった形跡。この程度のことで咎めるつもりなど毛頭ないため一々指摘はしないが。


「今更かしこまる間柄でもないだろう。そんな堅苦しいのは不要だよ」


 実際に天藤は内面はともかくとして退いてから外面に変化はない。容姿も服装も彼女が羽狩はねがりで見せていた姿と同じだ。


「ま、そりゃそうだよね」


 その言葉を待っていたのか天藤は丁寧に下げていた頭を上げた。正しく被っていた猫の下は葵がよく知っている顔。外面どころか内面にも大きな変化はない。在りし日の快活な姿とはいかないまでも持ち直したようだ。


「何着ても相変わらず似合うね」


「ああ、これ?」


 一回転し、葵は自らの格好を見せつける。大きめのイヤリングに濃いメイク。特に真っ赤な唇が目を引く。加えて飾り立てるのは派手な髑髏をあしらった黒のシャツ。下は美脚を見せつけるダメージジーンズで葵の魅力を大いに見せつける装いだ。


「出かけついでに迎えだ。別に構わないだろ?」


 と口にしつつ、実際には競馬に行こうとしたところ、思い出して進路をこっちに変更したことは胸の内に収めた。


「あいつは?」


「伸びてるよ。今日が最終日ってことは、そういうこと」


「納得した」


「まだ寝てるから起こさないように連れて行って」


 事務的に用件を淡々と告げると天藤は小屋へと進路を取る。ここを逃すと全てを自分が背負うことになり、5時間という遠い道を進んできた自分への報償とするには程遠い。


「これ、頼まれてたもの」


「自分で持ってくださいまし」


 返事は明確な拒絶だ。お前の腹など読めていると。


「ホストがもてなす側だろ?」


「面倒ごとばかり押し付けてくる客人に出す紅茶とスコーンはございません」


「そこはウイスキーとフィッシュアンドチップスだ」


「ないない。もっとない。ついでに言っておくと、ワインとチーズはもっとあり得ないから。ぶぶ漬だってありえないし」


 取り付く島もない。一通りの拒絶と罵詈雑言を吐き終えて満足したのか天藤は進む。仕方ないと葵は酒と魚が入ったビニール袋を下げて後に続いた。


「体、問題はないか?」


「1年でかなり回復した。でも、戦線に戻るのは無理」


 初夏の日差しと涼やかな風。喧騒から遠くて目に悪いものも見ようとしなければ見ることはなく、意図しなければ不要な物を体内に取り込む心配もない。心身ともに療養に都合の良い場所だからこそ手負いの獣同然だった天藤に推薦した。効果が十分にみられたことに安心すると同時に会話を影が暗くする。


 本来は収まっているべきものの半分が消えた、あのときに全て彼方へと散った夢想に思いを馳せているようで。自分の右胸に触れたことが未だそのときのことを忘れることは無理なことだと物語っている。


「あいつ、元気にやってる?」


「元気も元気だよ。今はアタシのところで仕事してる」


「この前に聞いたよ。だいぶ大変だったらしいね」


「ああ。アタシ以外には手に負えなかったレベルだ。正直、当人が売り込みに来ていなかったら今頃は殺されていたかもしれないよ」


 順調に進んでいた天藤の足が止まって、葵も足を止める。少しばかり聞こえる蝉の音は響きを残すことなく岩や木に染み込む。


「自分が原因。だなんてつまらないこと考えるなよ」


 脳裏によぎるのは、大きく裂けた上体を晒す天藤と抱える背中。乾燥した空気と強烈な血の匂い。慟哭する姿を葵は今も鮮明に覚えている。実際にあの現場に乗り込んでいたのだ。


 死にゆく仲間に必死に呼びかける姿、仲間の亡骸に縋る姿は何度も目にしている。その光景だけが記憶に焦げ付いているのは、果たして今ある現実へ繋がる筋書きだったからか。


「そろそろ、一度ぐらい会いに来い」


「無理。会わせる顔ない。誰も彼もがアンタみたいに強いわけじゃない」


 天藤当人は何気なく口にした言葉だったのだろう。それが葵の胸を深く抉ったのは、誰も知らないことで。今は素知らぬ顔を決め込むことを選んだ。


「アタシにお前らがどうするかを口出しする趣味はないが、1つだけアドバイスだ」


「説教ならお腹一杯だから遠慮しておく」


 お前の話など聞くつもりはない。態度と空気で主張しながら天藤はズンズン進んでいく。


「じゃ、ただの独り言だ」


 沈黙は肯定と受け取って、葵は誰に言うでもなく口にした。


「明日が命日かもしれんぞ?」

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