第5話 スノードロップが咲く前に 5

 歩くこと一キロほど。マップにあった道を色々と歩き回った。


 入り組んだ道、人目が多い場所、障害物の少ない道。


 出来るだけ人目がない場所だけは選ばずに進んだ。しかし、追跡者はGPSで居所を把握しているかのように九竜くりゅうを見失うことはなかった。的確に進んだ足跡を進んだ。


 早く消えろと念じても、意味はない。気配はより強くなっていく。


 遂に家まで半キロの地点で進行方向を変えた。追跡者は絶対に足を止めるつもりはないのだと九竜に悟らせるに十分なほど長い鬼ごっこの果て。


 端末に更なる情報を打ち込む。ワードは「廃工場」だ。戦後に発生した不況の影響は未だ根強く残っている。特に中小企業へのダメージは深刻で多くの企業が暖簾を下ろす事態になった。この辺りにも恐らくはあるはずだと希望を込める。


 候補地は幾つか表記される。この近くにある場所は十分ほどの距離にある廃工場。リュックを背負いなおすと新たな目的地と定めた廃工場へと進んでいく。


 ゴクリと喉が動いた。歩きすぎたせいで喉がカラカラに乾いてしまったのか、自分の身を照らす恐怖によるものかは分からない。それでも、怖いというのは変えようがない。


 今の九竜の内にある感情。歩く速度を無理やりに維持することが限界だ。


 人気は、少しずつ減っていく。さっきまでとは真逆の行動を見て追跡を止めるかと淡い期待を抱いて、無残にも打ち砕かれた。背後から銃口を突きつけられているような嫌な感覚は、生命の危機が現実のものだと教える。


 相対し、自らの手で決着を。決めたはずの手が震えた。


 廃工場へと近づいていくほどに廃屋も目立ち始め、少しずつ目的地が輪郭を帯びる。


 再び端末で己の姿を見る。


 一気に汗が吹き上がった。そここそ、体中の穴という穴から汗が噴き出すような感覚。九竜には生まれて初めての経験だ。


 追撃者は走れば肉薄が可能な距離にまで近づいていた。


 耐えられず、目的地へと未だ辿り着いていないのに振り向いてしまった。


 バレた。気づいていることを、教えた。


 自分の弱さに唾を吐きたい。屈した自分を蹴り飛ばしたい衝動に駆られてもこの危機的状況を乗り切らねば無理な話。目の前に差し迫った現実から目を背けようとして、見たくもない現実が九竜に挨拶をしにやって来る。


「お前は…」


 口を突いて出た言葉は、安心からか予想していた答えへの期待はずれからか。


 面識のある相手だった。仲が良いか悪いかは別として。


 一目見ただけで好印象を抱きそうな目と丁寧に手入れをしていることが伺えるマッシュカットの黒髪。九竜よりも高い背とサッカーで着いた筋肉質の体は文武両道の典型。何よりも、張り付いたような笑顔という言葉が相応しい嫌悪感を覚える作り笑い。


 同じクラスの七伏ななふし。2か月ほど顔を合わせ続けているのだから見間違えはしない。


「ここまで、何か用か?あいにくだが、家庭訪問を頼んだ覚えはない。放っておくように言ったはずだ。今すぐに消えろ」


 トラブルの大本は、この男が原因だ。思い出すだけでも苦々しさが胸中に生じる。


 入学早々に孤立を選んだ九竜へとしつこく話しかけてきた。かけられた当事者としては遠ざかりたいところだっただけに、最悪以外の言葉は存在しない。それがあの女子生徒ら、馬淵を中心とするグループの顰蹙を大いに買うことになった。それだけならば、まだ良かったのだが。


 どういうわけかクラスの女神様と崇められていそうな九竜に馬淵がご執心なのだ。自分たちが強い嫌悪感を抱く相手を大切にしているなど面白くはない。よって、問題は現在進行形で大いに複雑化している。


「そうもいかないんだ。これが」


 殊更に下にある存在を見る目。普段の七伏ならばしない目だ。纏っていた爽やかな空気も跡形もないほどに消し飛んでいる。わざとらしいあの『笑顔』よりは好感を持てる。


「邪魔なんだよ。お前」


 冷たい、殺意から生じた声だった。


 そして、目の色が変わった。紅玉を思わせる、一度目にしたら忘れない鮮やかな赤色だ。


 カラーコンタクトを入れたわけでも外したわけでもない。ずっと目を離さずに見ていた。人間の反射神経で捉えられる範囲での行動であれば見逃すはずがない。


 目が合う。煌々と盛る赤い色。無機質な絵の具や石ではなく、血や果実を思わせる生々しさと瑞々しさを宿した赤い色。


 想起してしまうものは、向こう側。彼岸。即ち、死。皆まで聞かずとも分かってしまうシンプルすぎる問題。


「警察、呼ばせてもらうぞ。全部録音している。提出すればお前は退学だ。分かっているのか?」


 録音をしているのは事実だが、問題は警察が来るまでの時間。


 都心からは少し距離のある場所だ。警邏中の警察官が存在していたとしてもこの場所にジッとしているわけにはいかない九竜は動く必要がある。必然、合流までの時間を必要とすることになるだろう。そんな状況下で逃げ切れるかと問われて是と答えられるほどの自信はない。


 頭では、分かり切っている。逃げ切ることは出来ない。脅しが通用しなければ、確実に殺されるということは。


「いいよ。呼んでも。でもさ、君を助けるために警察が来る時間と僕が殺すまでの時間。どっちが時間を必要としないか」


 淡い期待は淡いままに露と消えた。ハッタリは通用しないことを見事に証明してくれる。


「言いたいことは全部言えたかな?もう待ってあげる気は最初からないんだけどさ」


 狩られる側への転落。殺される側は、事情など知らない。一方的に死ねと。


 ここに居たら、死ぬ。どれだけ違うと訴えても書き換えることができない事実。


 端末を握り締める手がブルブルと震えて自身の心証を如実に物語っている。隠さなければと思いながらも誤魔化しきれない自分に苛立ちを感じながら抑えきれない。


「…死ねェ‼」


 白紙をビリビリに破きかねないほどの強さで空気を震わせた。


 言葉が発せられるとほとんど同時に九竜の体と七伏の体は動いていた。


 七伏の動きはサッカーで鍛えた賜物なのかシャープで無駄がない。十分すぎる迫力を伴い、九竜の肝を冷やすには絶大だった。背中を狙った攻撃の一発目を回避が出来たこと自体が完全に奇跡という有様だ。


「クソ」と舌打ちをするだけで限界。ジリジリと空気が締め上げられていく感覚に肌が無意識に痒くなる。背負ったリュックが鉛を詰め込んだように重い。


 次は、回避が出来るか分からない。極限の最中、九竜の頭に浮かぶのは幾つかの考え。


 殺す。正当防衛を証明できる可能性は十分にある。録音機能は解除していない。だが、あの機敏な動きをすることが出来る七伏を、ただの男子高校生である自分が無力化できる可能性はないに等しい。理性を感情が超えた人間をどうにか出来る術を九竜は持っていない。


 逃走。いくら鍛えているとはいえを殺すよりはまだ現実味がある方法。土地勘が無いにしても駅までの道はまだ覚えている。交番までたどり着けば助かる可能性は僅かではあるが残されている。それも、針先程度の小さな穴。


 生き残れる可能性が高く、成功率が高いのは、逃走であると九竜は結論を付けた。だとしても、素直に正面から逃走させてくれるほど事を運ぶことは不可能。


 九竜は一歩下がる。人から逃げるのではなく、熊から下がるときと同じで小さく。


 七伏は動かない。次の一手は、と伺う王者の余裕。


 半歩、半歩、半歩。たったこれだけの行動を取るだけであるのに肉体を巡る血、筋肉、神経の全てが何万倍にも引き延ばされたようで現実味がまるでない。今にも崩れてしまいそうな薄氷を踏んでいる気分だった。


 再び下がる。下がって、正面に釘付けになっていた九竜の目が右側に映る。


「な…⁉」


「ひっ…‼」


 子供が蹲って震えていた。最悪の状況であるのに、より最悪が降り注いで思考と足が止まる。デッドヒートの只中に片足を突っ込みかけていた九竜は一気に現実へと呼び戻された。


 目の前の光景が信じられない。受け入れようとして受け入れられない脳と体の芯はたったの一瞬で固まっていく。ついさっきまで脳の中で流れていた生き残る計算がペンキをぶちまけたように白んでいく。


「鬼ごっこはもうやめる?」


 夢遊病患者を思わせる足取りで九竜へと迫っている姿が視界に入った。


 一歩、一歩、一歩。詰めてくる足音は、まるで処刑を心待ちにしている狂った処刑人のそれ。喝采する見物人もいないのに、待ち焦がれている。


「こんなところになんで…」


 針先程度だった可能性はイレギュラーによって無残に塞がれた。


 あの時と同じ。墨汁を流したような黒が九竜の視界を彩った。


 絶望。変えようがない、地獄。覆すことを嘲笑する余りにも強大な力を前に膝が今にもアスファルトに触れようとしたとき。


「こわいよ…」


 それでも、体はまだ生きていて。耳に届けられた純粋に生きたいと願いだ。


 あのときとは、1つだけは違うと九竜に訴える。


 目の前にいる子どもは、あの日の自分だ。そして、今の自分はあの日の自分ではない。


「諦めてくれたか。話が早くて助かるよ」


 終わりが、少しずつ迫ってくる。ヒタヒタと忍び寄ってくるのではなく、ドスンドスンと隠すことなく寄ってくる態度に取り戻しかけていた希望が押しつぶされそうになっている。


 だから、否定させない。させたりしない。


「ふざけんなっ‼」


 自分は、あの怯えていた自分じゃない。目の前でただ恐怖に打ち震えるだけの子羊ではない。


 あの暗闇から生き残った自分に、そんな行動を取ることは許されていない。


「…行くぞ‼」


 蹲っていた子どもの手を強引に引っ張り出す。退けることが可能な力があれば本当はあのいけ好かない面を叩き潰して逃げたかった。後ろを気にしながら、前に気を付けなら逃げねばならないなどという恥辱に震える必要はなかった。


 塀の影から引きずり出した少年を気遣うことなく九竜は全力で駆ける。ついさっきまで自分が見ていた廃工場の光景が瞬く間に彼方へ追いやられた。


 全力疾走だ。いつ以来か分からない。体育の授業でさえこんな走り方をした記憶はない。肺は酸素が足りていないとうるさく訴える。


「はぁ…はぁ…」


 視界がグワン、グワンと揺れて。それでも、止まることは出来なかった。死神の鎌はずっと、ずっと義務を果たさせろと追い立てている。


 日は、もう沈みかけていた。黒まりつつある空は自分に死んでくれと望んでいるようで、彼岸に迷い込んでしまったと思い込むには十分すぎた。


「ここまで…来れば…」


 逃げ込んだ先は神社は酷く寂れていた。何処の神社なのかは分からない。


 寂れた社殿に社務所、罅割れて所々が欠けた参道に看板が外れた鳥居。廃業してしまっているのか人の気配はまるでしなかった。


 自分が今どこにいるのか見まわして、記憶のファイルを幾度捲っても答えには至れなかった。同時に、あの生々しく殺意にまみれていた視線を感じない。これまでにかかっていた重圧から解放されて、九竜の体はまるで深海から浮上したかのような解放感に包まれた。


 逃げ切ったのだと。やり遂げたのだと。九竜は限界に達していた自らの行動が徒労に終わらなかったのだと万感の熱に包まれる。


「ここまで来れば大丈夫だ。あとは…」


 言葉は最後まで出なかった。自分が目の当たりにしていた光景が、とても信じることの出来ないものだったから。


「え…?」


 手だけが、そこにあった。未だに残っている手の温かさは事が為されたのは遠くない出来事だったと示していた。


 参道の石を擦る音が聞こえる。見てはいけないと分かっていたのに、見なければならないと九竜の頭が理解してしまった。


 虚ろな目。九竜は、アレを知っている。死体の顔。


 七伏が首筋に食いついていた。真っ白な肌を伝う赤い血。一際勢いを増して落ちる様が美味と啜っていたことを物語っている。


 もう十分なのか、食べ飽きてしまったのか。食いついていた首筋から顔を離すと狙いを残った九竜に狙いを定めた。


 支えていた足は一気に頽れた。


「鬼ごっこは終わりだ」


 鮮血に染まった口元から鋭い犬歯と舌が覗く。人を殺しておきながら溌剌とした表情は、目の前にいる人型を怪物と定義させるに足りる。殺人鬼なんて言葉では言い表せない。


「どうして…?」


 悪魔に何を問うたところで意味は無い。だとしても、問わなければならない気がした。俯けた顔を上げることは出来なかった。


「豚は自分が食われる理由を知っていると思うか?」


 答えが十分すぎるほどに自分の末路を物語っていた。顔を上げた九竜の目に映り込んだのは残虐さと殺戮を楽しむ悪魔の顔。くちゃくちゃと動く七伏の口が死んだ少年の血肉を弄でいるようで、自分がすぐに食われることになるということを容赦なく突きつける。


「豚は自分が死ぬ理由を聞かないね」


 頬に熱がこもった。右頬の骨が折れていないのは明らかに手を抜いている証拠で、自分を死なない程度に弄ぼうとしている。


 立ち上がろうとして、腕に力が入らない。直後に視界が大きく傾いた。


「というわけで、死んでよ」


 振り上げた右手は赤く染まっている。その手が少年を殺したことを証明していた。


 次は、自分の胸を貫く。


「いや、死ぬのはお前だよ」


 あとは一線を超えるだけだった九竜の耳に届いたのは、殺伐とした世界とは似合わない玲瓏な声。振り下ろされるはずだった鮮血に濡れた手は生命活動を止めない。


 少し視線を上げた。目に入ったのは、革靴の爪先と灰色のスーツの裾。更に顔を少し上げると辛うじてブロンドの髪の先が少しだけ入り込む。声音と容姿からも女性であることは違いない。


 七伏がジタバタと抵抗していることは足の動きから分かった。だが、締め上げられた腕を解こうとして振りほどくことが出来ない。


「貴様…」と問う七伏の声には焦燥が滲んでいる。


「何者か。という切った貼ったのテンプレートな下らない質問は止してくれよ」


 女の声は底の底まで冷静だ。捕食者があっという間に被捕食者の側に転がり落ちた瞬間。


 締め上げていた腕がベキ、ボキと乾いた音へと変わった。腕の骨を女が粉々に砕き捨てたことが音だけで十分に分かる。次に七伏の絶叫が花を添えた。


 知らなければと九竜は顔を上げる。見届けなければという訳の分からない何かに突き動かされ、動けないはずの体が動いていた。


「ま、待て‼」


「ノーだ。そもそも、豚は人語を話さない。命乞いをしない。ブヒブヒと鳴いてさえいればいい。これがお前を細切れにする理由だ」


 跪かされ、喉にナイフを当てられた七伏は必死の形相で命乞い。5分も経過していないうちに全ての状況が逆転していた。勿論、助命を女が受け入れるはずもない。


 女が手にしたナイフは丁寧に、丁寧に。それこそ、芸術品でも作り上げるような慎重さで七伏の喉に横一文字を刻む。


「や、めろ…」


「ジョークならもっと面白いことを言えよ」


 薄っすらと笑いながら女は最後の最後までナイフを引ききった。


 あとに残るのは、死体だけ。七伏だったそれは壊れた蛇口のように喉の傷から鮮血を垂れ流す。石畳の溝が赤く染まっていく。


「クサい台詞を思い出しながら向こうで悶えてな」


 止めと言わんばかりに女は七伏の背中にナイフを刺す。丁度心臓の位置だ。用心のためとはいえ死体に鞭を打つ真似は少し不快だった。


 伏した体がビクン、ビクンと痙攣した。拡大した瞳孔を目の当たりにしたのは初めてで「死」へ、特に見知った顔の「死」に久々に触れた。温かさと冷たさが混じる世界に九竜の理性は臨界を迎えている。


 死体の目が不気味だった。死んでから時間が全く経過していない澄んだ赤い瞳は強く記憶に残って今にも崩れそうな理性を破壊しようとしている。


「さて、無事かな。少年」


 直線状にあった死体との間に女が割って入る。朧気にしか見えていなかった九竜にようやく女の全貌がハッキリと映る。


 金糸と見まがうほどに癖のない綺麗なブロンドの髪、生命力が溢れて力強さを感じさせる翠眼、人間味を感じない白い肌。人間離れした美しさはまるで天使か何かで、本当は死んでしまったのかと思うに十分だった。


 視界を灰色のスーツが覆う。続けて白い指が殴られた箇所に触れる。熱を持ち始めている場所に少し冷たい女の指は心地よかった。


「帰ろうか」


 ふわりと自身の体が浮かび上がる感覚。次に女性特有の匂いが九竜の鼻腔に流れ込む。誰かの背中に身を預けるのは久々で人肌の温かさに自然と涙が溢れる。


 生きていることを、頬を伝う涙が教えてくれた。


「今日はゆっくり休みなよ」


 何でもない、何処にもある変哲のない言葉。擦り切れていた心にじっくり染みわたった。


「…ありがとう」

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