春告魚(はるつげうお)

志乃原七海

第1話:春告魚(はるつげうお)

春告魚


第一話 嵐の予感


春告魚、ニシン。雪解け水が港に流れ込み、海の色が鈍い鉛色から光を孕んだ薄群青へと変わる頃、八戸の海はざわめき始める。漁船のエンジン音が早朝から響き渡り、凍てついていた空気に活気が満ちる。希望の季節。けれども、この町に暮らす誰もが知っている。海の希望は、いつだって危険と背中合わせだということを。


小さな漁港の、最も陸側に近い一角に、場違いなほど静かな木造平屋が建っている。潮風と日差しに晒され続けたのだろう、白いペンキが剥げ落ち、材木が肌荒れのようにささくれている。錆びついたトタン屋根。その壁に、真新しいとは言えない白い木札が掲げられている。達筆とは言えない、しかし丁寧な手書き文字で「片岡裁縫教室」と記されていた。外の騒がしさとは無縁の、ひっそりとした佇まいだ。


扉を開けると、そこは別世界だった。外の冷たい海風は届かない。暖房が効いた室内には、布と糸の優しい匂いが満ちている。そして、規則正しい、リズミカルな音が響いていた。カタカタ、カタカタ。シンガー社製の古いミシンが、力強く針を上下させている。


そのミシンの前に座っているのは、片岡八重子、三十歳。艶やかな黒髪は、首筋で一つにまとめられている。伏し目がちだが、その視線は鋭く、縫い合わせている布に集中している。手は速く、淀みがない。布は彼女の手の中で、生き物のように滑らかに形を変えていく。今日の布は、陽差しのような黄色に、鮮やかな花が咲き乱れる柄だ。春らしいワンピースが、みるみるうちに形作られていく。


八重子は、この裁縫教室を一人で営みながら、一人娘のこずえを育ててきた。夫は、五年前、海で命を落とした。漁師だった夫が追っていたのは、まさに「春告魚」と呼ばれるニシンだった。希望を求めて海に出たきり、彼は二度と、この港へ帰ってこなかった。


「……危ないんだ、漁師なんて。」


針を進める八重子の口から、掠れた呟きが漏れた。ミシンの音に掻き消されそうな小さな声だったが、その言葉には、深い後悔と、拭いきれない悲しみが凝縮されていた。脳裏には、あの日の光景が鮮明に焼き付いている。突如荒れ狂った海の色。港に響き渡る、絶望的なサイレンの音。そして、対面した夫の、変わり果てた、冷たい身体。温かい海を知っていたはずの夫が、あんなにも冷たかったことが、八重子の心をいつまでも凍らせている。


八重子の横で、高校三年生になった娘、こずえが座っている。彼女の手元にも、縫いかけの布と針がある。けれども、その手つきは、どこか覚束ない。布を抑える指はぎこちなく、手に持った針と、それを追う視線がばらばらだ。ピンク色の糸が、すぐに小さな塊になって絡まる。指先がもたつき、ため息が漏れる。


「こずえ、またぼんやりして。針の持ち方もなってないね。」


八重子の声は、静かだが厳しい。ミシンは止めない。娘への指導も、縫い物と同じように、淡々と、しかし的確に行われるべきだという信念があるかのようだ。


「まったく。うちの娘がこんなんじゃ、生徒さんにどう示しがつくんだい。しっかりしなさい。」


こずえは、母親の言葉に肩をすくめる。慣れたやり取りだ。


「ごめんね、お母さん。でも…なんか、集中できなくて。」


こずえの視線は、窓の外へ向かっていた。外の世界。閉じた縫い場とは全く違う、開かれた空間。港。

岸壁で作業する男たちの姿が見える。重い漁具を運び、網を繕い、ロープを引いている。その中に、一際目を引く存在がいた。健太。日に焼けた顔は精悍で、力強い腕に男らしい逞しさが宿っている。時折、仲間と冗談を言い合っているのだろう、豪快な笑い声が聞こえてくるようだ。飾り気のない、無骨な笑顔。


こずえの胸が、高鳴るような、締め付けられるような、複雑な感情でいっぱいになる。それは希望にも似ていて、同時に、胸の奥が軋むような痛みも伴う。


(健太さん…。)


こずえの視線に気づいたのだろうか。健太が、ふと顔を上げ、こちらを見た。目が合う。健太の顔に、明るい笑顔が広がる。彼は、片手を挙げて、軽く振った。


こずえは、ビクッと体を震わせた。顔が熱くなる。慌てて、誰かに見られないように、窓のカーテンの陰に隠れるようにして、小さく手を振り返した。その一瞬、縫い場の閉じた世界と、港の開かれた世界が繋がる。


八重子のミシンの音が止まった。


「また、健太さんのこと見てるんだろう。」


ため息混じりの声だった。八重子の目は、娘の淡い恋心を見抜いている。そして、その恋が向かう先が、自分にとってどれほど受け入れがたいかを知っている。


「ち、違うよ、別に…。」


こずえは、慌てて手元の糸をいじった。糸は、さらに絡まる。


八重子の声のトーンが変わる。静かだった声に、厳しい色が混じる。


「あんたには、何度言ったらわかるんだい。漁師だけはダメだって、言っただろう。」


針と布を置く八重子の手つきに、微かな震えが走る。


「あんな危ない仕事。あんな…いつ命を落とすか分からないような仕事。あんたに、あんな男と関わってほしくないんだ。」


八重子の目は、窓の外ではなく、こずえを強く射抜いている。その瞳の奥には、五年前に失った光が、暗い影となって宿っている。漁師という言葉は、彼女にとって、愛する者を奪った、忌まわしい響きなのだ。


「でも…お母さん…。」


こずえは、反論しようと口を開いたが、言葉を飲み込んだ。母親の顔に浮かぶ、あの日の、そして今日まで続く悲しみ。漁船を失った時。夫を失った時。その痛み。そして、その痛みゆえに歪んでしまった「娘を守りたい」という強い愛情。こずえは、母親のその感情を、誰よりも理解している。だからこそ、その深い悲しみと愛情を前に、強く言い返すことができない。縫い場の空気が、重く張り詰める。春の陽差しも、ここでは凍りついたかのようだった。


その日の夕方。裁縫教室が終わると、こずえは一人、港へと向かった。西日が海面をオレンジ色に染め、空の色が紫に変わり始めている。海風が冷たい。コートの襟を立てながら、健太の姿を探す。港の喧騒は収まり、波が岸壁に打ち付ける音だけが響いている。


健太は、作業着姿で、漁具の手入れをしていた。こずえに気づくと、彼の顔に、一日の疲れを忘れさせるような、真っ直ぐで明るい笑顔が広がる。


「健太さん!」


こずえは、小さく、しかし強い声で呼び止めた。健太が振り向く。


「こずえ!どうしたんだ? こんな遅くに。」


「あの…ちょっと、話したいことがあって。大切なことなの。」


健太は、こずえの真剣な表情を見て、何かを感じ取ったのだろう。彼は、傍らに漁具を置いた。

波の音、遠くの汽笛の音だけが響く。二人の間に、静かな緊張感が流れる。

こずえは、震える手を、ぎゅっと握りしめた。意を決して、健太の目を見る。


「…私、健太さんの…」


言葉を選ぶ。ためらう。しかし、ここで引き返すことはできない。こずえは、絞り出すように、しかし強い決意を込めて、まっすぐ健太に告げた。


「…健太さんの、子どもを…妊娠したの。」


その言葉を聞いた瞬間、健太の顔から、一瞬、全ての感情が消え去る。驚愕。信じられない、という表情。時間が止まったかのようだ。

しかし、次の瞬間、健太の目に強い光が灯った。それは、戸惑いや不安を超えた、責任感と、そして純粋な喜びの光だ。

健太は迷いなく、冷たいこずえの手を、自分の大きな手で、力強く握りしめる。その手は、潮風に晒されて荒れているが、驚くほど温かかった。


「本当か…! ありがとう、こずえ…!」


健太の声は、熱を帯びていた。彼の顔には、喜びと、そして「守る」という強い決意が漲っている。


「俺…俺、絶対に。」


健太は、こずえの手をさらに強く握りしめる。


「絶対に、こずえと、この子を、幸せにする!」


健太の力強い言葉と、その手の温かさに触れ、こずえの目から涙が溢れ出す。安堵。喜び。彼の優しさに触れた安堵感。しかし、同時に、母親の顔が脳裏をよぎり、言いようのない不安と恐れが、その涙に混じる。港の夕闇が、二人を包み込んだ。


その夜。こずえは、家路を急いだ。健太との約束を胸に、しかし、母親にどう告げるかという重圧に、足が竦みそうになる。裁縫教室の明かりが漏れている。手書きの看板が、いつにも増して厳しく見える。


ドアを開け、中へ入る。八重子は、リビングのテーブルで、裁縫道具の手入れをしている。いつもの、静かで、落ち着いた夜の光景。こずえは、張り詰めた空気を感じ、体が強張る。


「…お母さん。」


八重子は、こずえに気づき、顔を上げた。その顔には、いつもの、どこか厳しさを含んだ、しかし娘を気遣う表情が浮かんでいる。


「遅かったね。どこ行ってたんだい。」


こずえは、八重子の目を見ることができない。俯く。


「あのね…話したいことが、あるの。大切な、ことなの。」


八重子の手が一瞬止まる。何かを察知したかのように。八重子は、道具をテーブルに置く。真剣な表情になる。


「…なんだい。改まって。」


こずえは、深呼吸をする。震える声で、絞り出す。


「あのね…私…妊娠したの。」


その言葉を聞いた瞬間、八重子の顔から、全ての表情が消え去った。驚き、怒り、悲しみ…全ての感情が、一瞬で消滅したかのようだ。凍りついたような、無の表情。

そして、ゆっくりと、その顔に、静かな、しかし底知れない怒りと、絶望が湧き上がってくる。目は大きく見開かれ、そこに宿る光は、穏やかなものではなく、嵐の前の海のようだ。


「…何を、言ってるんだい、こずえ。」


八重子の声には、信じがたい現実を突きつけられた者の、拒絶と、激しい感情が宿っている。それは、五年前の嵐の夜のサイレンの音よりも、遥かに冷たく、恐ろしい響きだった。


「…冗談じゃないだろうね?」


こずえは、母親の顔を見て、その尋常でない怒りと、悲しみの深さに、体が硬直した。息ができない。

春告魚が豊漁を告げるはずの八戸の春。

片岡家の、そしてこずえの人生に、予測不能な嵐が、静かに、しかし確実に幕を開けた――。


(第一話 終わり)

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