第3話 メルヘンな女の子がいる

 家ではあまり仕事の話はしなかったけれど、ママの話によると、支店長をやっていたそうだ。わりと大きな店舗だったらしい。


 仕事がつらいわけではなさそうだったけれど、55歳を過ぎたあたりから、しきりに「定年になったら油絵教室にかよってみようかな」「料理のレパートリーも増やしたい」「スポーツをやってみるのもいいな」「まとまった時間もできるから旅行だって行けるな」と、とてもわくわくしているのが伝わってきた。


 それを聞いていて、ゆかこも嬉しかった。


 それなのにパパが選んだのは、それまで一度も定年後の過ごし方の候補として聞いたことのない「雇用契約の延長」だった。


 それも前と違って、きらきらした目をなくしての「働き続ける」選択だった。



 パパをはげましたい一心で、なにかをしなければと思ったゆかこは、学校の帰り、自動車教習所の看板を見た。はっとした。これだ、と思ったのだ。きっとそれまでも同じ場所に掲げられていたのだろうけど、初めてまともに目に留まった。


 免許をとったら、パパを、いろんなところに連れて行ける。そして、お酒が好きなパパに、旅先でおいしいお酒をのんでもらうこともできる。少なくとも、そうしたら今よりパパは、元気になるのではないか。


 ゆかこは、ほかに出来ることも思いつかず、きっと、これしかないのだと、決心し、大学入学当時から四年生の今まで続けていたケーキ屋の給料をはたき、教習所に通うことにした。


 このとき初めてゆかこ、自分の貯金額を知って、びっくりした。これまでたいして散財するような趣味はなかった。実家暮らしのゆかこは、食費も生活費もかからなかったし、なにか出費があるとしたら、それは以前付き合っていた雄大君とデートする時にかかったお金くらいだった。



 雄大君は岡山県から上京してきた社会学部の男の子で、ゆかこのいる文学部とはキャンパスも同じでよく使う教室も同じだったので、どことなく交流があった。


 友達の友達が雄大君で、仲良くなるのにあまり抵抗もなかった。細身で、背は160センチで、声もそこまで低くない。温厚で、いい意味で男性らしくないところが好ましかった。一緒に渓谷に写真を撮りに行ったり、カフェでお喋りしたり。


 一人暮らしをしている雄大君の家にご飯を作りに行ったり、掃除が苦手な雄大君の部屋を片付けに行ったりなどもした。何をしていても、それなりに楽しかった。


 雄大君は、春から大手のIT企業に内定が決まっている。ゆかこと同じN大学なので、そんなに頭のいい学校ではないにも関わらず、そんないいところに内定がもらえたのは、雄大君が英語を喋れるからだろうと思う。


 大学二年生のとき、一年間セブ島に語学留学をしていたらしい。だから雄大君は学年は同じだけれど、年が一個上なのだ。だからか、いつも優しくて余裕があって、とっても頼もしく思えた。そういうところも、好きだった。


 ゆかこはと言うと……英語も喋れなければ、特に就活もせず。ゆかこ、ママとパパといられればそれでいいのだ。「なにも、みんなと一緒に就活しなくたって、いいんじゃないのかな? 就職したくなったら就職するよ」そういうゆかこに、雄大君は「ゆかこちゃんはいつも危機感がないよね」と言った。


 いつも? というのは、性格のことかと思いきや、これはどういうことかというと、実はゆかこ、浮気されていたらしい。


 1年半付き合っていた期間の3分の1ほど。ゆかこはこんなマイペースな性格ながら、一番になれない立ち位置なんて興味がないので、それを知ってすぐ、別れてしまった。まぁ、雄大君のことは、もうどうでもいいんだけど。



 教習所は、ゆかこがパパ、ママと暮らす家から、電車で三駅のところにあった。


 学科試験をなんなく合格し、あとは教習所内のコースを指示通りに運転すれば、仮免許がゲットでき、卒業。この調子! と思っていたものの、なんとここにきて、ゆかこは致命的なほどに運転がヘタだということが明らかになった。


 教習所には熱心に通っているものの、一向にS字カーブが曲がれないのだ。


 来る日も、来る日も、うまくいかない。S字カーブが曲がれない。まわりの子たちがどんどん卒業していくのを見ながら、ゆかこは焦っていた。だって、パパがもしこのまま、光を見ることをやめてしまったら? みんなと同じ目をしているのは、今だけだよね? 


 でも――「こっちの感性で生きた方が、楽だし、いいや」と、社会の闇の目を持つようになってしまったら? 


 それは、ゆかこにとっても、ばーばにとってもきっと、悲しいことだ。ゆかこが早いところ免許を獲得しない限り、パパに、光を思い出させるきっかけは与えられない。この停滞は、だめだ。だめだ、だめだとわかっているのに……。


 さっきはハンドルを切るのがはやいと言われたから、今度は少しゆっくり切ってみよう、と色々ゆかこなりに試しているのに。教習所の先生の評価は「だめ」でしかない。もう時間がない。



 いつものように、ロビーの椅子に座って次の教習時間を待っているとき、「どうしよう困ったな」と考えているのが頭からうっかり漏れていたのか、「技能のコツ、教えてあげよっか」と、男の子に声を掛けられた。顔を上げて見て、びっくりした。


 彼のことは知っていた。岸部くんだった。教習所で、一番目立っていた男の子だ。


 180センチはあって、ガタイがいいので圧倒的な存在感を放っていた(壁みたいだと思った)。そして、まだらに抜けた金髪に、浅黒い肌、地元ヤンキーっぽい着崩したダルダルの服。なんというか、クラブに入り浸っていそうだ。


 見た目も中身もふんわり生きてきたゆかことはこれまで接点のないような人物だった。最初はゆかこ、岸部くんを嫌っていたくらい。だって、そんな人はきっと授業中も先生をからかったり、騒いだりするだろうから。


 他人をバカにする人や、邪魔をする人はゆかこ、嫌いなのだ。今までのゆかこの人生の統計からして、岸部くんはそういうタイプ。


 ところが予想外に、静かに、まじめに授業を受けていたのが印象に残っていた。で、そんな人に、話しかけられてしまったものだから、ゆかこはだいぶ緊張した。しかしこれは、いい機会である。


 ゆかこ、これまでのやり方じゃきっと一生S字カーブが曲がれない。時間がない。身構えながらもゆかこ、「お願いします」と、答えた。



 教習が終わったあと、近くにあるコーヒー屋さんに入った。

 おしゃれなお店だった。やわらかい灯りのペンダントライトが多く吊るされた店内で、落ち着いた雰囲気、とても居心地がよかった。ゆかこたちは窓際の席に座り、岸部くんはブレンドコーヒーを、ゆかこはハニーミルクティーを注文した。


「さっき俺に当たった教官が、昨日ゆかこちゃん担当だったみたいよ」

「へえ」

「で、話聞いてたの。メルヘンな女の子がいるって」

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