胎動する穢れ、目覚める巫女
霧隠九尾稲荷神社の境内は、狐狼山の深奥に抱かれ、常世と現世の狭間のような静寂に満ちていた。だが今宵、その静寂は破られていた。結界の役割を果たす鈴が、狂ったように鋭く鳴り響き、小野瀬藍の操る狐火の揺らめきが一瞬、乱れた。藍の肩にとまっていた管狐が、耳障りな悲鳴を上げる。
「隆之……港の方角から、強い穢れが」
藍の隣に控える小野瀬隆之の右眼が、常人のそれではない石榴色に鈍く輝いた。再生されたその瞳は、物理的な距離を超え、旧海軍病院跡から立ち昇る、粘つくような禍々しい気配を明確に捉えていた。それはまるで、巨大な、見えざるものの胎動のようだった。
「穢れの『胎(はら)』が目覚めたか……あるいは、呼び覚まされたか」
藍の呟きと共に、腰まで届く黒髪が無風にも関わらずふわりと舞い上がり、その背には一瞬、ゆらりと九本の尾の幻影が浮かび上がった。懐に忍ばせた勾玉が、じりじりと熱を帯び始める。
彼女の内に宿る九尾の狐の血が、同質の、しかし遥かに歪んだ力に感応し、肋骨を震わせる。脳裏を、かつて『産女』となり果てた母の、断末魔の叫びにも似た記憶の断片が掠めた。
その頃、廃病院の新生児室では、事態が恐るべき速度で変容していた。美咲の白い首筋には、紫黒色の指の痕が幾重にも浮かび上がり、それは生きた蛇のように脊椎を這い下り、服の下へと消えていく。彼女の身体はもはや、人ならざるものの『憑代』と化していた。
「産ンデ……産ンデヨ……ワタシタチヲ……ココニ……」
美咲の口から溢れ出るのは、もはや単一の声ではない。幾人もの、産まれ落ちることのできなかった嬰児たちの怨嗟と渇望が混濁した合唱。彼女の眼球が、ゆっくりと、しかし確実に180度回転し、白目に転じた硝子体には、蠢く未熟児の握り拳にも似た黒い影が浮かんでいた。
一方、美月は床に蹲り、腹部を庇うように身体を丸めていた。先ほど飛び込んできた腐乱した胎児は、まるで彼女の肉体と融合するかのように、その姿を消していた。代わりに、美月の腹部が、まるで臨月の妊婦のように不自然に膨らみ始めていた。
彼女の臍の奥から、ギリ……ギリ……と、小さな、しかし無数の黒い歯が互いを噛み合わせるような、嫌な音が響いている。
「……すごい……これが……命の……記録……」
美月は、痙攣する指でスマホを握り締め、レンズを自らの膨らんだ腹部に向けていた。液晶画面には、己の胎内で蠢く黒い影と、その周囲にオーブのように乱舞する赤い光点が映し出されている。その瞳は虚ろで、焦点は現世のどこにも結ばれていなかった。
保育器の硝子の蓋が、内側からの力で弾け飛んだ。首吊り胎児が、その異様に長い臍の緒を鞭のようにしならせ、美月のスマホ画面を舐めるように這い回る。それはまるで、これから産まれ落ちるであろう『何か』を祝福するかのように見えた。
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