缶詰は勝利の味

 朝だ。

 希望の朝が来た。

 こんな朝にする事と言えば、散歩、ラジオ体操、太極拳。しかし、そんなものを悠長にやってる時間は俺にはない。今日の俺にはやるべきことがあった。


 人生には、ただ視点を少しずらすだけで、急に意味が変わって見えることがある。ルービックキューブの一面だけが急にそろうような、そんな瞬間だ。
この坊主男も、そんな類の「ズレ」の産物だった。


 噛まれてもゾンビにならない。それだけで、彼はこの世界でかなりのレアキャラだ。
少なくとも、自分の人生で最初に出会った「噛まれても無事な男」。


 ひょっとすると、人類史初かもしれない。


 これは多分、あれだ。抗体。


 彼の中には、ゾンビにならない何かがある。


 ならばそれを――使わない手はない。


 避難所の火浦は絶対欲しがるはずだ。

 これほどまでにゾンビの研究材料にぴったりな存在が他にいるだろうか。

 いや、いない。


「交渉材料」と言えば、少し非情な響きを感じるだろう。


 だが、急いでるときに限って赤が続く信号機くらい信用ならないこの世界では、感情より確実性が大事だ。

 次も大丈夫、という保証はどこにも転がってない。


 坊主男を連れていけば、“卵”が手に入る。


 卵が手に入れば、マヨネーズが作れる。


 そしてマヨネーズがあれば――すべてがうまくいく。はず。


 俺の脳が、そんな計算式を一瞬で弾き出した。

 思考の速度は、空腹と欲望が加速させる。


「ふふっ」


 神名木の口角がうっすらと上がった。

 多分とてつもなく悪い顔をしている。自分でもそう思う。


 神名木は歩き出した。


 背後で坊主男が「ちょっと待て、俺の水筒見てないか?」と騒いでいたが、それは無視。

 未来はいつだって、ちょっと無理めな希望から始まる。

 
そして今日は、その始まりにふさわしい天気だった。


 待っていろ!

 愛しのマヨネーズちゃん!


◇◇◇


 避難所での交渉は、予定通りだった。


 つまり、俺が勝つ脚本で進んだってことだ。


「卵をくれ?」


 火浦は俺たちの顔を見るなり、眉をひとつ跳ね上げた。
やれやれ、という顔だ。実際、そう言ってもいた。

 俺は笑わなかった。けれど、笑いそうにはなった。


「代わりにを持って来たんだ」


 俺は、横にいる坊主男の肩を軽く叩いた。


「こいつ、ゾンビに噛まれて——十二時間以上経過してる」


 火浦の目つきが変わった。


 猫が狭い隙間を見つけたときと同じ目だ。


「まさか……抗体?」

「かもしれない」


 俺は肩をすくめた。確定じゃないけど、疑うには惜しい話だ。

 彼女もきっとそう思っているはず。

 しばし沈黙。

 やがて彼女はため息混じりに立ち上がる。


「卵一つで人類が救える“かもしれない”なら、悪くない話ね」

「だろ?」


 結果として、俺たちは卵を手に入れた。

 坊主男は自尊心を少し失い、俺はちょっとだけ得意になった。悪くない取引だった。


「俺の命が、卵になったってこと?」

「正確には、“かもしれない命”だな」


 神名木は笑って答えた。


「死ぬことはないだろう。お前は人類の希望だ。名誉に思え」

 坊主男の肩をバンバンと叩く。

 彼は何も言わなかった。
でも、足取りは少しだけ軽くなっていた気がする。知らないけど。


◇◇◇


「聖書にもあるようにチャンスは二度訪れない」と、誰かが言っていたのを思い出す。


 箸を持った瞬間、なぜかもう勝った気がした。試合開始のゴングが鳴る前から、勝利は約束されていたのだ。

 この感覚、一度でいい、味わってみたかった。いや、違うな……「噛みしめてみたかった」。


 俺の目の前に対峙するは、「スパム丼・オン・マヨネーズ」。


 実にシンプルで、実に破壊的な構成。
白く盛られた米、その上に整然と並ぶ褐色のスパム。
表面はカリッと焦げ目がつき、脂の光沢がまるでステージのライトのように眩しい。



 そしてその上から、惜しげもなくかけられたマヨネーズ。
それは、セコンドから放られる白いタオル——いや、これはむしろ、勝利のコールを待つ王者の肩にかけられたガウンだ。


 ここで、ひとつ距離を置いて眺める。

 芸術とは、リングサイドからの視点に耐え得るものでなければならない。

 真正面からだけでは見えない、深さと余韻が、そこにある。

 うん。実に良い。


 神名木はゆっくりと息を吸い込むと、落ち着き払った所作で両手を合わせた。

 これはもはや静かなるファイティングポーズ。


「いただきます」


 カーン。

 食堂中に響き渡る甲高い鐘の音。

 戦闘態勢に入った胃袋が静かに唸ったのを、俺は感じ取った。


 では、実食。


 開始早々、狙い定めたスパムの懐に箸を刺すと、一切の無駄なく口へと運ぶ。

 その瞬間、すべてが理屈を超えて飛び込んできた。


 カリリと軽快な歯触り。
その直後、ジュワッと染み出す脂。
焼かれたスパムの表面が微細な膜を作り、その内側に閉じ込められた塩気と旨味が、一瞬の猶予もなく俺の味覚中枢を撃ち抜く。


 すかさず、マヨネーズ。
白く、とろけるような酸味の塊が、スパムの濃厚さをさらに引き立てながら回り込んでくる。


「良いぞ!」


 そして油に油を重ねる暴挙――いや、これは計算されたコンビネーションブローだ!

 まさに、蝶のように舞い、蜂のように刺す!

 塩気と重さが、俺の舌を完膚なきまでに叩きのめしてくる。


「やるな……!」


 そんな塩気に震える舌を、ふっくらと受け止めてくれる、この白米の包容力。


 硬すぎず、柔らかすぎず、絶妙な炊き加減が、全体の攻防を巧みに調整してくる。


 スパム、マヨネーズ、そして白米――
 

 これは、まさに旨さの三冠王トリプルクラウン


 塩と脂と酸が渦を巻き、胃袋の奥深くで狂喜乱舞を始める。

 
俺はただ、その渦に呑まれ、身を委ねることしかできなかった。


「美味い……」


 思わず、声が漏れた。


 誰かに届けたくて出たわけじゃない。ただ、あまりに圧倒されたから、心の中の何かがふっと溢れただけだ。


 ひと口、またひと口。
喉が渇く。唇が脂で光る。


 でも、それすら気にならない。今はただ、目の前のそれに夢中だった。


 箸を止める理由が見つからない。
いや、止めたくない。


 一口ごとに、余計なものがそぎ落とされていく。

 頭の中のノイズも、いつかの苛立ちも、全部――どこかに消えていく。

 気づけば、何も考えていなかった。

 ただ、「美味い」という感覚。
それだけ。

 そこには意味も理由もない。


 静かに、確かに、自分がほどけていくような――そんな感覚だった。

 あぁ、自分でも何を言いているのかわからない。

 これが俗にいう「パンチドランカー」なのだろうか――


 ◇◇◇


「……楽しそうね、彼」


 火浦は頬杖をついたまま、神名木を見ていた。少し距離を置いて、けれど確かに、そこに心は引かれていた。
その視線には呆れがあって、驚きがあって、そして――ほんのわずかな、羨ましさがあった。


 
ほんのわずか。それは自分でも認めたくないくらいの分量で、でも確かに、そこにあった。


 彼は、箸を動かすことに全神経を注いでいた。

 
“生きるために食べる”というより、“食べることが生きる”みたいな表情。


 敵は己の空腹だけ。そんな風にもとれる。


「……美味しそうですよね」


 白峯がぽつりと言った。まるで、自分でも言うとは思ってなかったみたいな声で。

 火浦の眉がぴくりと動く。地震計が震えたような反応だった。


「あなたが?」


「え?」


「あれを……食べたいの?」


 白峯は目を瞬かせて、それから、少し照れたように、けれど素直に頷いた。


 
「……はい。ほんの、少しだけ」


 その“少し”には、今までの価値観を脇に置く、ちょっとした勇気がにじんでいた。
 火浦はしばらく黙り込んで、それから肩を揺らした。

 喉の奥から、くく、と小さな音が漏れる。笑っていた。


「……面白いわね。お嬢様が、あんなジャンクに惹かれるなんて。それとも惹かれてるのは?」

「ち、違います! からかわないでくださいっ!」


 白峯がむっとして頬を膨らませると、火浦はもう一度、笑った。

 今度はほんの少し、心の底から。


 そして再び視線を戻す。


 神名木は変わらず、食べていた。

 まるでそこが世界の中心で、他の何も関係ないように。

彼の“楽しさ”は、誰かと分かち合う類のものではない。
ただ、自分の中にだけ確かにあるもの。そんな気がする。

 火浦は、小さく息をついた。


「……娯楽って、毒にもなるのよ」

「毒、ですか?」白峯が首をかしげる。

「ええ。でもね――毒を知らなければ、薬の意味もわからない。私はそう思うの」


 言葉は穏やかだったが、その裏には、いくつもの選択と後悔が滲んでいた。


「私は、“守る”ことが正しいと信じてきたの。ルールや秩序。それを崩さないことこそ正義。でも……あぁして楽しそうにしてる姿を見ると、少しだけ、揺らぐのよ」


 火浦は一瞬視線を落とす。

 今度は神名木ではなく、白峯の横顔を見ていた。

 少し大人びた顔をして、でもどこか戸惑っている少女の表情。


「もしかしたら、“正しさ”だけじゃ、人間って持たないのかもしれないって」


 火浦は、食堂をゆっくり見渡した。

 必要最低限のものだけがある空間。


 空気は澄んでいる。けれど、それだけ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「たまにはアリかもね」


 そう言って火浦はひとつ、ため息をつく。

 それは諦めでも疲労でもなく、ごく自然な、呼吸の延長線上にあるものだった。


 
「でもあれはちょっと無理」


 ふたりの笑いが重なった。


 空気が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。


 神名木は気づかない。気づかないまま、最後の一口を口へ運ぶ。

 そして彼は立ち上がった。

 まるで、何かの勝利宣言をするかのように。

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