缶詰は試練の味

 緑の匂いを孕んだ春の風が流れる。

 その心地よい青空の下。

 神名木は、コヨーテ色の上着から一つの缶詰を取り出した。


 今日の昼飯は、牛肉缶詰界の王道にして異端。

 その名も「コンビーフ」。


 そして、俺の掌には“鍵”があった。

 この枕型缶詰を開けるためだけに使用する、唯一無二の道具。


 まるでクエスチョンマークのように湾曲した金属の先端、そこに縦長の穴がぽっかりと開いている。


正式名称は、「巻き取り鍵」。


 バカみたいだろ?

「コンビーフ」を開けるためだけに存在する鍵なんて。


 しかし、だ。


 これをただの金属片と侮るなかれ。

 これは運命に挑む者が握る、“試練の鍵”だ。

 この比喩は、決して誇張でもなんでもない。

 開封に失敗すれば、「中途半端に空いてお預け」と言う名の地獄が待っているのだから。


 神名木は缶の切り口の端を、慎重にね上げる。
指先はわずかに震えていた。
その震えを抑えるように、そっと「巻き取り鍵」を近づける。


 が、噛み合わない。

 ぬるりと滑る感触に、胸の奥がざわつく。


 ……落ち着け。呼吸を整えろ。


 再び手に力を込める。

 指先の神経を集中させ――


 ピタリ。鍵が、嵌まった。


「っ……!」


 その瞬間、背筋に冷たい電流が走る。

 
これは、ただの開封ではない。


 天国か地獄か――命運を分かつ分水嶺。


 いつの間にかじっとりと湧き出た、ひたいの汗。

 神名木はそれを袖で拭った。そして、一呼吸。


 初動が大事だ。ここで焦ると全てが狂う。

 細心の注意とともに、手首をゆっくりとひねり始めた――


 キィィ……


 静かに軋む金属音。

 まるで空気が張りつめていくように、周囲の世界が黙り込む。

 
呼吸の一つ一つが、やけに重い。


「くっ……なんてプレッシャー!」


 キィィ……キィィィ……


 軋み、巻き、たゆたう。
金属の帯は、まるで運命の糸のように、少しずつ巻き取られていく。

 ほんのわずかな力加減が、すべてを決める。決して焦ってはならない。

 一心不乱に、ただ巻く。巻いて、巻いて、巻き続ける。


 そして――最後の一巻き。


 パキン!


 鳴り響く甲高い金属音。

 運命は、決まった。


 神名木は流れ出る汗を拭おうともせず、切り離された部分を掴む。

 一瞬の抵抗ののち、全てを受け入れたかのように蓋は持ち上がった。


 パコン――


「おぉっ……!」


 神名木は息を飲む。

 

 なめらかに立ち上がる赤銅色の斜面。

 頂は薄くまとった脂が光を弾き、淡くきらめいていた。

 それは、ひっそりと、ただ静かに在る肉の秘峰。


「なんて、美しい……」


 ここまでの道のりは、まさに登山だった。

 握る手は汗ばみ、心は何度もくじけそうになりながら――

 それでも一歩ずつ、一巻きずつ、慎重に進んできた。
足場は不安定、風は冷たく、視界も心許ない。
だが、諦めなかった。


 そして今――俺は、たどり着いたのだ。

 この、誰も知らぬ山の頂。
それは俺の求めていた肉の楽園エデン


 古来より、美しい山々は世界中で信仰の対象とされてきた。

 その美しさの奥に、神が宿っていると人は信じたからだ。

 そして今、俺の目の前にも――まさに神がかった、美の頂。


 誰かがこう言っていた。

「そこに山があるから」

 ならば俺はこう言おう。

「そこにコンビーフがあるから」


 神名木は陽の光を反射し、褐色に光り輝く缶詰を空高く掲げた。

 堂々と。誇らしく。


 それを祭壇に祀るかのような仕草で木箱に置くと、彼は落ち着き払った所作で両手を合わせた。

 では、実食と行こう。


「いただきます」


 神名木はスプーンを手にした。

 まるで山頂の空気をすくうかのように、ひとすくい。

 そしてゆっくりと口へ運ぶ――


 ……瞬間、神名木の目が見開かれる。


「これは……!」


 口内に広がるのは、肉の奔流。
繊維の一本一本に刻まれた、牛の記憶と旨味。
しっとりとした食感は、長い旅の果てに辿り着いた水源のように、乾いた心を満たしていく。

 だが、その直後――


「……しょっぱ……っ!」


 塩気が、凍てつく吹雪のように鋭く舌を撃ち抜いてきた。まるで標高の高さに比例するかのように、厳しくも圧倒的な塩の主張。
そこに逃げ場はない。ただ真正面から受け止めるしかなかった。


 そして次に押し寄せるのは、脂。
分厚く、重く、舌の上にのしかかるようなコク。
だが不思議と嫌味ではない。
むしろ、ここまで登り詰めた者に与えられる「濃密な洗礼」だった。


「……なるほどな……」


 神名木は小さく呟いた。この味は甘くない。
 楽園とは言え、決してやさしいだけの場所ではないのだ。

 むしろ、過酷さと向き合った者だけが知ることのできる、濃厚な真実。
それが、塩気であり、脂の重さだった。


「これは……休まずに食い続けたら、確実にやられるやつだ」


 思わず一呼吸置いて、木箱の端にスプーンを置く。
味のインパクトに圧倒され、体が自然と間を求めていた。

 けれど――それでも、やめられない。


 強すぎる、だからこそ惹かれる!

 ひと匙ごとに、自分の命が削られるような気さえするのに、それでもこの肉の斜面を、もう一度登りたくなる。


「コンビーフ……お前……本当に、罪深いな」


 神名木は再びスプーンを手に取り、ゆっくりと口へ運んだ。

 この楽園は、決して甘やかしてはくれない。

 だが、その厳しさすらも――愛おしい。


 神名木は目を瞑り、深く、噛み締めた。


 ◇◇◇


「あれ?」


 背後から聞き覚えのある声がして、俺は空の缶をくるりと回しながら振り返った。

 声の主は、坊主男だった。彼の顔を見ると、なんとなくスパムを思い出す。

 が、記憶というものはいつだって曖昧だ。

 食べた缶詰は忘れないのに。


 それよりも、彼が背負っているバックパックの方がインパクトがあった。言われたら信じるだろう。「これからエベレスト登頂だ」って。いや、むしろその格好で登ってきたのかもしれない。


「一人か?」


 坊主男は荷物をどさりと地面に置き、目を細めて周囲を見回した。探しているのは、たぶん白峯だろう。

 俺は缶を指先で弄びながら、面倒くさそうに身体ごと彼に向き直る。


「あいつは避難所に置いてきた」

「放送の避難所に行ったのか!」

「ああ」

「え? じゃあ、お前は……?」


 そう言いながら、彼はバックパックからガチャガチャと何かを取り出し始めた。金属のぶつかる音。次いで、キャンプで使うようなガスバーナー。


「俺の居場所じゃなかった。それだけの話だ」

「何か問題でもあったのか?」


 彼は小さくうなずくような、うなずかないような曖昧な仕草を見せて、手際よく準備を続けた。


「食に、自由がなかった」


 神名木の言葉で、彼の手がふと止まった。だが、それも一瞬のこと。

 すぐにジャガイモを取り出し、皮を剥き、薄く切り出す。


 ――おいおい、一体何が始まる?


 坊主男はスキレットを取り出して、ガスバーナーに火をつけた。

 小さな青い炎が「仕事の時間だ」とでも言っているように燃える。


 神名木はその様子を見ながら、缶の縁を指でなぞっていた。興味がないふりをしつつ、音や匂いを逃すまいと耳と鼻だけが前のめりになっている。自分で自分が滑稽だと思う。でも、仕方がない。


 油の温まる音。ジャガイモが放り込まれてジュワッと鳴く。


「俺は元料理人だ」


 彼の手元には、さっきまで神名木が持っていたのと同じブランドのコンビーフ缶があった。

 それを開ける。


「食の自由がないなら、俺にとってそこは砂漠も同然だな」


 何やら気取ったことを言ってるような気がしたが、神名木の頭の中はそれどころではない。


 ――俺のもあるのか?


 そう期待を抱くのもどうかしてると思いつつ、目だけが勝手に料理の進行を追っていた。

 坊主男は炒めたじゃがいもにコンビーフを加え、木べらでほぐす。塩。胡椒。最後にちょっとだけ、隠し味のように何かを振った。


「食うだろ?」


 と、こちらを見もせずに言いながら、二つに分けた片方を差し出してきた。

 ――言葉はいらない、とはこういうことを言うのかもしれない。

 俺は迷わずそれを受け取る。

 もしかしたら顔が緩んでいたかもしれない。いや、緩んでいた。たぶん。


 ◇◇◇


 立ちのぼる香りは、食欲をそそるには十分すぎた。
油と肉の焼ける匂い、それから胡椒の刺激。


 その隙間から、ジャガイモの素朴な甘みが優しく香る。


 ひと口。


「美味い!」


 思わず出た言葉に、坊主男は歯茎が見えるくらい笑った。
やっぱり料理人は、誰かに作ったものを「うまい」と言われると嬉しいらしい。
生きる理由は、わりとそういうところに転がってる。


 ジャガイモは外がすこし焦げていて、中はちゃんとホクホクしていた。
噛んだらすぐに崩れて、舌の上に静かに着地する。
コンビーフの塩気がそれを拾って、味に深みを加える。
脂のコクが全体を包み込み、胡椒が最後に「行ってこい」と背中を押した。


 決して手の込んだ味じゃない。
だけどそれが、ちゃんとした「答え」だった。

 だからこそ、思い出してしまった。


 ――さっきの俺の、バカみたいな食べ方を。


 味が濃いと思いつつも、一缶まるまる、馬鹿正直に食べきってしまった。


 あれは白米に手をつけず、ふりかけだけを食べるようなものだ。
いや、それよりもっとひどい。
とんかつソースを「とんかつ」にかけず、そのまま飲むレベル。


「何やってんだ、俺……」


 とんかつソースは、とんかつと組んで初めて本領を発揮する。
それを単体で飲んだって、意味がない。
意味がないというか、それはもう単なる奇行!

 俺は、コンビーフという“答え”だけを口に放り込み、“問い”を無視していた。食べるっていうのは、そういうもんじゃない。
……たぶん。


 さすがは料理人だ。
まだ見ぬ美味の頂を目指す、探究者エクスプローラー。


 料理という名の地図を、迷いもせず歩いている。


 そして俺は思った。


 きっとこの料理には――


「マヨネーズだな」


 坊主男がぼそっと呟く。自分でも驚くくらいの速度で、俺は頷いていた。
なんなら、さっきからそのことばかり考えていた。


 マヨネーズ。

 とっくの昔に朽ちているだろう。
しかし、その材料は思いのほかシンプルだ。

 塩、酢、油、卵。それらを混ぜ合わせるだけ。


 未開封の酢や油なら保って二年。塩に至っては、賞味期限がない。すごい奴だ。

 あとは新鮮な卵さえ手にはいれば、どうにかなるかもしれない。

 神名木の脳内に、ぱちんと灯りがついた。


「なぁ、作らないか? マヨネーズ」


 その提案に、坊主男はにやりと笑った。


 またひとつ、今日を越えていけそうな気がした。

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