缶詰は奇跡の味

「ゾンビに侵入された!」


 どこからか叫び声が聞こえた。

 室内の空気が緊迫する。


「みんな避難訓練通りに行動! 見張りメンバーは武器を用意!」

 かすれ声が指示を飛ばす。

「こっちだ! 落ち着いて移動しろ!」

 途端、爆発した様に教室が騒がしくなった。


「行きましょう」


 白峯が立ち上がる。意識して冷静さを装っているが、その指先は微かに震えていた。

 これだけの騒ぎだ。

 落ち着けと言う方が無理に決まっている。


「お前は爺さんと避難しろ。俺は——」


 神名木は周囲を見渡す。

 そして、気づいた。


「……あれ?」


 ヤシロが、いない。


 ◇◇◇


 車椅子の老人は、校舎の廊下をひとり進んでいた。

 ゾンビが迫る通路の奥を睨みつけ、彼は静かに口を開く。


「お嬢様。どうか、ご無事で」


 ヤシロは、己の足では逃げられない。

 ならば、誰かのために時間を稼ぐほうがいい。皆には助けてもらった恩もある。だが、それ以上に——彼は勇気を見せてくれた白峯のために、何かを成したかった。


 ◇◇◇


「ヤシロさんが!」

 白峯の叫び声が響く。

「お前は早く逃げろ!」

 神名木が白峯の腕を引く。

「ヤシロは俺が連れ戻す!」

「いや! 私も行く!」

「ダメだ!」

 短い押し問答の末、神名木は振り返り、他の生存者に言った。

「こいつを頼む!」

「わ、わかった!」


 白峯が叫ぶが、神名木は振り返らない。

 そのまま校舎の奥へと駆けて行った。


 ◇◇◇


 神名木が見つけたのは、転がった車椅子と、床に倒れたヤシロだった。


「……これで終わりってのは、あんまりだろ」


 神名木は呟く。

 まるで独り言みたいな口調だったが、しっかりと彼に向けられていた。

 ヤシロは静かに目を閉じる。

 そのまま眠るように、このまま終わるつもりか。


「白峯が見せたのは、生きる勇気だ」

 神名木の声が少しだけ強くなる。

「だから、お前も、生きる勇気を見せろ」


 遠くから、腐臭が近づくのがわかった。嫌な気配だ。時間がない。

 神名木は手を伸ばす。


「生きたいなら、俺の手を掴め!」


 ヤシロは、その手を見つめる。

 迷う時間は、一瞬だけ。


 そして、彼は——


「ありがとう……」


 神名木の背中で、彼が小さく呟いた。

 聞こえないほどの声で。


 その時、背後から足音が響く。

 荒々しく、迷いのない足音。


 神名木たちと入れ替わるように、武器を持った男たちが駆け込んできた。


「ここは任せろ!」


 力強い喊声。

 すぐさま背後で響く喧噪の音。


 間一髪。

 本当に、ギリギリだったかもしれない。


 ◇◇◇


「ヤシロさん!」

 白峯が駆け寄る。

 彼女の表情は、怒りと安堵が入り混じっていた。

 ヤシロは答えない。ただ、静かに目を細める。


「……お嬢様は、よく成長なさいました」


 彼は、それ以上何も言わなかった。

 言葉を足す必要がないと分かっている人間の沈黙だった。


 白峯は何かを言いかけて、結局やめた。

 感情の整理に時間がかかるタイプなのだ。


 周囲の空気はまだ張り詰めていた。

 誰もが肩で息をし、ただ放心して壁にもたれている者もいる。


「ゾンビは倒した!」


 静寂の中、外から駆け込んできた男が叫ぶ。

 安堵が広がる。

 誰かが小さく笑い、誰かが「ゾンビはマジ勘弁」とぼやいた。


「念のためバリケードの修理が終わるまで、ここで待機だ!」


「俺も手伝おう」


 神名木は短く言った。

 じっとしているのは性に合わない。


「それは助かる! こっちに来てくれ」


 かすれ声の男に促され、神名木は工具を手に取る。

 背後で、白峯がまだヤシロと向き合っていた。


 ◇◇◇


 夕暮れが迫る頃、バリケードの修理をなんとか終えることができた。


「よし、もういいだろう。みんな、ご苦労さん!」


 その号令に神名木は、ひたいの汗をぬぐった。

 雨上がりの爽やかな空を眺める。


 俺は働いた。それはもう働きに働いた。

 これには理由がある。


 神名木は思い出す。

 それは、作業中の一幕だった。


「今日は皆の気も沈んでるだろうし、秘蔵のアレ出すか」

「アレって、まさか! 大事にとっておいた『カップヌードル』?」

「そうだ!」

「よっしゃ! 兄貴太っ腹!」


 カカカカ、カップヌードル?

 たまたま小耳に挟んだ俺は度肝を抜かれた。

 まさか、そんなものがまだ存在しているというのか?

 そんなわけ無い。


 もうすでに世界が崩壊してから二年が経っている。

 それとも賞味期限切れを無理して食うのか?

 いやいや、それはさすがにリスキーすぎるだろ。


 そして、あのかすれ声の男は「兄貴」と呼ばれているのか。

 そんな情報はどうでもいい。


 俺が知りたいのは、『カップヌードル』なのか、だ。


 そもそも本当に、『カップヌードル』なのか?

 それとも隠語的なものか?

 考えても、答えがわからない。


 俺は悶々とした気持ちを誤魔化す為、作業に打ちこむことにした。

 気付けば作業も終わり、今に至ると言うわけだ。


 そして神名木は机に陣取り、目を閉じると、静かに決戦の時を待った。


「晩飯だ!」


 かすれ声が響くと同時に、神名木の眼がクワッと見開かれる。

 戦ののろしは、薬缶の湯気とともに上がった。


 目の前には缶詰。

 そこはことなく、デカい。

 そして「保存缶」の文字とともに、紛れもない『カップヌードル』のロゴがあった。

 ご丁寧にイラスト入りで、内容物と作り方が書いてある。そして「二食入り」の表記。


 神名木は震えた。

 感動からなのか、緊張からなのか。

 正直、自分でもよくわからない。

 本当にこれを食べられるとは。

 これは奇跡。奇跡だ!


「どうしたの?」

「あ、ああ……ちょっと待て」


 白峯の声に現実に戻される。

 ダメだ。いつもの心の余裕が保てない。

 神名木の震える指先が、辛くもプルタブを捉えた。


 ……では、ご開帳と行こう。


 カシュッ——


 缶が開く小気味良い音。無味無臭。

 見えるカップの底面。

 期待感。

 細心の注意を払い、中身を取り出す。


「おぉっ!」


 二重になったおなじみのカップと二個のフォーク。

 これまた二セットの個包装された麺と「かやく」。

 なるほど、これで二人分ということか。

 実によく考えられている。


「缶に作り方が書いてある。わかんなかったらにでも聞け」


 神名木は彼女の分を適当に渡すと、さっさと自分のを完成させる。

 もうここまで来たら、ワクワクが止まらない。


「早く! 早くお湯をくれ!」


 湯を注いだ瞬間、蒸気とともに香りたつ、ほんのりスパイシーな醤油フレーバー。

 これだこれだこれだ!

 匂いがすでに、美味い!


 朝の三分は瞬きするよりも早いのに、この時だけは「三分とはこんなにも長い」と実感させられる不思議。


 それに加え、この保存缶は何故か蓋をしない仕様になっている。

 このビジュアルを見ながら待つ三分!

 嗚呼、なんという拷問!

「時間よ、早く経て」そう願わずにはいられない。


 だが、ここは我慢の見せどころ。

 ベストな状態を味わう為、一旦落ち着こう。


 そして──機は熟した。


 いざ参らん!

 どこからか、勇ましい法螺貝の音が響き渡ったような気がした。


 神名木は両手を合わせる。

 いつもより力が入ってしまう。それも致し方ない。

 こいつを前に、そうならない方がむしろおかしいと言うもの。


「いただきます!」


 付属のフォークで麺を掬い上げ、一口啜る。


 ズルル──


「美味いーーーーーっ!!」


 一瞬で、全身が総毛立つ。

 旨みをしっかり吸い込んだ、ワシワシの細麺。

 この独特の食感がなんとも懐かしい。


 スープはしょうゆ味。

 一見シンプルに思えるが、実際は醤油のコク、動物系の旨み、黒胡椒のスパイシーさが三位一体になった、ガツンと来るクセになる味わい。


 そして、具材。

 忘れてはならない、いわば助演男優賞たちだ。


 その代表的存在である通称「謎肉」。

 誰がそう名付けたのか知らないが、敬意を払いたい。


 見た目は無骨で、四角く、機械的な形をしている。だが噛むと、じわっと肉の旨みが広がる。


これは豚肉と大豆由来の原料に、野菜などを混ぜてミンチ状にし、フリーズドライ加工したものだ。


つまり、科学と技術の結晶である。

おそらく、この世で最も効率的に「旨み」を閉じ込めた物体の一つだろう。少なくとも俺はそう思っている。


 次にエビ。


 小さい。だが、侮るなかれ。

 一口かじれば、しっかりとした食感。波のように押し寄せる、ほんのり磯の風味。いぶし銀な味わいだ。

 そこにスープの塩気が合わさることで、完璧なバランスが生まれる。


 ふわふわの癒し担当、たまごちゃん。


 優しい甘み。暴力的なスープの味を、そっと包み込むような存在。舞台でいえば、ちょっと遅れて登場してきて、全体の空気をふっと和ませる脇役のような、そんな役割。


 醤油ラーメンの永遠の友、青ネギ。

 独特の苦味がスープのコクを引き立て、食べ進める手を止めさせない。まるで、料理全体に爽やかな風を吹かせる扇風機のような役割だ。


 俺はすでにスープの最後の一滴まで飲み干す準備を整えていた。


 だが、その瞬間──

 二度目の奇跡が起こる。


「足りないやつは、おにぎりもあるぞ!」


 かすれ声が響く。ざわつく室内。

 次々と奇跡を起こすお前は神か? 神なのか?


 配られたのは、長期保存可能なパウチ入りのおにぎりだった。

 なるほど、それ単体でも十分美味い。


 だが、俺はそのままスープにぶち込む。

 後悔はない。


 否定するやつがいるなら、むしろ問いたい「他に選択肢があるのか?」と。


 じわりと広がる米。粒がほどけ、スープを吸い込み、しっとりと染み渡る。すでに最高の一品だったそれが、新たな進化を遂げた瞬間だった。


 俺はカップを両手で持ち上げ、豪快に胃へと流し込む。


「はぁぁ……」


 吐く息とともに、全身に染み渡る多幸感。

 感慨無量、飲河満腹、心満意足。

 とにかく。

 今日の俺は満ち足りていた。


 ◇◇◇


 朝靄の中、神名木と白峯は荷をまとめ、次の目的地へと向かう準備をしていた。


「お嬢様、どうかご無事で」


 ヤシロは深く一礼する。

 白峯は僅かに口を開きかけたが、結局、何も言わずに頷いた。


 かすれ声の男は腕を組み、「俺らがそっちの避難所に行った時は、よろしく頼むぜ」と笑う。


「お互い生きてたらな」神名木が肩をすくめる。


 そんな軽口を交わし、二人は歩き出した。

 白峯は一度だけ振り返り、そして前を向いた。

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