桜舞う庭、私の思い出

桜の木の下を後にし、私は体をそっと起こした。もう一つの場所が、私を呼んでいる。老いた体は重いが、足は本能のままに庭の奥へと進む。飼い主の視線が私の背中に温かく触れ、彼女の声が朝の空気に溶ける。「まだ歩くの?」その声は、柔らかな笑みと好奇心を帯びている。私は短く「ニャア」と喉を鳴らし、小さな足跡を草に刻む。


庭の奥には、静かな池がある。私にとって、特別な隠れ家だ。水は苦手だが、池の縁に生える草の匂いは別格だった。朝露に濡れたその草を噛むと、青々とした苦みが舌を刺し、子猫の頃の冒険を呼び起こした。今、草をそっと口に含む。露の甘さは薄れたが、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐり、心の奥を満たす。


池の水面が、朝陽にきらめく。ふと目をやると、老いた私の姿が映る。白と茶の毛並みは白髪に侵され、かつての艶は薄れた。それでも、瞳の奥の光は、若い頃のまま鋭く輝く。風がそよぐたび、桜の花びらが水面に舞い、ゆるやかな波紋を広げる。その儚い動きに、耳がピクリと動き、時間が止まる。記憶が蘇る――池の縁で跳ねた日々、魚の影を追いかけた無邪気な自分。


「ミケ、何を見てるの?」


彼女の声が、そっと耳に触れる。好奇心と愛情が織り交ざったその響きに、私は彼女を見上げ、すぐに水面へ視線を戻す。彼女は私の隣に腰を下ろし、水面を覗き込む。「花びら、きれいね」と囁く。私は小さく「フニャ」と甘える声を漏らし、尻尾の先を揺らす。この瞬間が、まるで永遠のように温かい。


ふと、池の向こうの小道が目に入る。その先には、隣の庭との境界の低い塀。かつて、私はその塀を軽々と越え、冒険の国へ飛び込んだ。今、塀は高くそびえるように見える。体が小さくなったのか、時間が壁を高くしたのか。鼻をひくつかせ、風が運ぶ隣の庭の匂いを捉える――土の湿った香り、咲き始めた花の甘さ、遠くの鳥の羽音。


私は池の縁を離れ、小道を進む。飼い主が「どこ行くの?」と笑いながらついてくる。彼女の足音が、草を踏む軽やかなリズムを刻む。塀の前で立ち止まり、背伸びする。かつてのように覗く力はないが、耳を澄ますと、鳥のさえずりや葉擦れのささやきが、記憶の糸を引く。隣の庭は、私の若さの舞台だった。


飼い主が私の横に立ち、「ここ、好きだったよね」と囁く。彼女の声には、思い出の色が滲む。私は「ミャウ」と短く答え、彼女の足に体を擦りつける。柔らかな毛並みが彼女の肌に触れ、温もりが心に染みる。彼女は笑い、私をそっと抱き上げる。「向こう、見たい?」


彼女の腕に抱かれ、久しぶりに塀の向こうを覗く。隣の庭は変わっていた。大きな木は消え、色鮮やかな花壇が広がる。だが、水飲み場、古いベンチ、鳥の餌台は昔のまま。かつて、私は餌台の下で鳥を狙い、目を輝かせた。今、耳は鳥のさえずりを捉えるが、体は静かに佇む。思い出だけが、心の中で軽やかに跳ねる。


「迷子になったこと、覚えてる?」彼女の声が、過去をそっと撫でる。塀を越えて遊びすぎ、帰れなくなった日々。彼女は夜の庭を呼びながら探し、私を見つけて抱きしめた。その記憶に、私は「クゥ」と小さく鳴き、彼女の腕に頭を寄せる。彼女の笑顔が、朝陽のように顔を照らす。「次はどこ行く?」


地面に下ろされ、彼女の足元で尻尾を振る。風が桜の香りを運び、草の匂いが鼻をくすぐる。彼女の温もりが、私の古びた体を包む。この庭、この瞬間、彼女との絆――すべてが私の宝物だ。言葉はないが、心は満ちている。春の朝の光が、私たちの物語を優しく照らす。

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