稜 第四十話
名前も顔も知らなかったそいつは。
突然、俺たちの前に姿を現した。
年明けすぐの病院に、今、人気絶頂のバンドグループのボーカルと、最近結婚したばかりのモデルの妻が訪れた。
音楽プロデューサーの見舞いらしいが、看護師も職員も医師ですら、どこか浮き足立っている。
櫻井悠馬。
オンナ受けしそうな甘い顔立ち。
長い手足。
天性の声。
ほんの一瞬、遠くから見ただけで、特有のオーラを感じさせる。
芸能人で、妻帯者。
吸い込んだ煙を細く吐く。
久しぶりの煙草は肺に沁みる。
「職員の女の子と揉めてたって」
「師長がとりなしたらしいよ」
「リナが、泣いてたって」
多くの人間が出入りする病院で、ひときわ目立つ芸能人の動向は、あっという間に噂のネタだ。
肺が拒絶気味なのも構わず、もう一度深く煙草を吸い込んだ。
「珍しいわね」
そのまま立ち昇る煙を見ていたら、喫煙ルームに看護師長の北野杏子が入ってきた。
「そうか?」
ちらりと見て、また窓の外に目を向ける。
「今日、特別室のお見舞いで、Yumaが来たわよ」
北野が俺の反応を伺っているのがわかる。
「…そうだな」
動じるそぶりは見せない。
「ゆいちゃんと揉めてた」
含みを持たせる北野に、ため息とともに煙を吐き出してから、向き直る。
「何が言いたい?」
「彼だったんだな、って」
北野が勝ち誇ったような顔を俺に向ける。
北野とは、過去に関係を持ったことがある。俺は最低な人間で、だからこの胸の痛みも当然の報いなのかもしれない。
北野から目をそらして、タバコを深くゆっくりと吸う。
「翔くん、そっくりね」
追い打ちをかけるような北野の言葉。
言われるまでもない。
桜井悠馬の世間を騒がせているルックスは、驚くほど翔と似ていた。
一生、ゆいと翔の前に現れなければよかったのに。
女々しい思いが頭をもたげる。
ゆいじゃなくて。
悠馬がゆいを追いかけたらしい。
妻帯者のくせに。
ゆいに未練があるってことか。
あんな風にぎりぎりまで追い詰められているゆいを見捨てていたくせに。
クリスマスのゆいの涙がよみがえる。
あんなに悲痛に泣いていたのは、あいつが結婚したからだったんだな。
煙草を消して、喫煙室を出た。
もの言いたげな北野の視線が追いかけてきたけれど、無視してドアを閉めた。
自分でもみっともないくらい衝撃を受けているのがわかる。
ゆいの思い人が現れた。
だからといって、あいつにどうすることができる?
携帯電話を取り出して、ゆいにメールする。
『終わったから、一緒に帰ろう』
車で病院から出ると、柵の陰に、櫻井悠馬が立っていた。強い瞳がゆいだけを映す。
とっさに、ゆいを引き寄せて髪を撫でた。
一瞬だけ、悠馬と目があった。
今、ゆいのそばにいるのは俺だ。
俺には、そんな慰めしかなかった。
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