稜 第三十九話
「…なんだ、これは」
完全に面食らっていた。というか、紛れもなく引かれた一線にうろたえた。
次の約束をどう取り付けようか、やはり食事か、いや、翔が喜びそうな場所がいいか、…助手席に座るゆいを盗み見ながら先を夢見てた俺に、ゆいはきっぱり終了を告げたようなもので。
「…だって、だって、このままじゃ私の気が済みません!」
必死に言いつのるゆいを見たら、胸をつかまれた。
ただの患者にこんなことするわけないだろ。
俺の下心に気づいているのか、いないのか。
翔がいるんだから、男性経験はあるだろうし、翔に向ける愛情をみたら、そいつのことを相当想ってたのは明らかだ。
どうして今そいつがそばにいないのか、ゆいのこの初々しさはそれと関係あるのか。
わからない、けれど。
今、そいつがいない、その事実が全てだ。
ゆいの頭に手を乗せる。
俺はお前が欲しいんだよ。
不安そうなゆいをおびえさせないように。
「また連絡する」
柔らかな髪を撫でた。
お金じゃ買えない。
お前と過ごす時間が欲しいんだよ、ゆい。
少しずつでいいから。
俺を受け入れて。
「なんか機嫌いいなぁ」
その夜は、高校時代からの悪友、#草壁湊人__くさかべ みなと__#と飲んだ。
「…好きな子ができた」
「はぁ?お前が? 誰にもなびかない鉄仮面リョウが?」
「その子の子どももまた可愛くて」
「まさかの人妻!?」
「守ってやりたいんだ」
「……」
しばらく黙りこんだ後で、おもむろに口を開いた湊人は、
「…いつかさぁ、会わせてよ。相手が誰でも祝福するよ。稜さぁ、…初めてだろ? 好きになるの」
しんみりと嬉しそうだった。
湊人は俺と違ってちゃんと恋愛して、彼女を大事にしている。
ふらふら定まらない俺に説教するくらい。
湊人と別れて家に向かいながら空を見上げると、細い月が浮かんでいた。
『おやすみ』
ゆいにメールする。
それだけで、満たされた。
『今日は、隣の部屋の友だちと鍋をしました。おいしかった。翔もよく食べてました』
ゆいからのメール音に飛びつくように見ると、そんな微笑ましい内容が並ぶ。
自然と口元が緩む。
自分はどんなにか締まりのない顔をしていることだろう。
ゆいと出会って2週間。
メールしたり、電話したり、家まで送ったり、翔と遊んだり。
ゆいを追い詰めたくない。
でも時々、力の限りあの小さな身体を抱きしめたくなって、代わりにそっと、頬に触れる。
滑らかで柔らかいゆいの温もり。
額に口付けたのは、誓い。
誰よりもゆいを大切にするから。
ゆいは恥じらうような表情ながらも、逃げたりしなかった。
俺に向けるのは、兄に対するような親愛の情だけど、それでいい。
ゆいのそばにいられれば、それで。
ゆいと当たり障りなく一緒にいるようになったクリスマス。
翔におもちゃと、ゆいにはさんざん迷って万能鍋を買った。
本当は指輪やネックレスを贈りたかったけれど、ゆいは喜ばないだろう。
ゆいに枷をかけるつもりはない。
俺の想いは通じているはずだし、最近は俺にも慣れて、だいぶ心を許している気がする。
別れ際に軽くキスする。
甘く柔らかいゆいの唇。
本当はもっと奥まで堪能したい。
触れるたびに欲しくなる。
でも、触れるたびに痛感する。
ゆいは。
今でもずっと、ただ一人だけを想っている。
翔の父親。
ゆいの周りに気配はまるでないけれど、どこまでもゆいの心をつかんで離さない。
至極整った顔をしている翔は、ゆいの可愛らしさとはまた別物だ。
父親に似ているとしたら、相当ハンサムな男なのだろう。
そいつはゆいを、捨てたのだろうか。
だとしたら、もう二度とゆいの前に現れるな。
どこかで一生後悔しているといい。
「会いたい、…です」
自分の耳を疑った。
クリスマスの夜。
まだ勤務が終わらない俺に、ゆいが電話をかけてきた。
頼りない声。
泣きそうな。
泣いているかのような。
医師会をサボって今すぐに飛んで行ってやりたい。
でも、経過観察の患者さんが待っているし、引き継ぎを怠るわけにはいかない。
もともと今日は遅くなるから、会えないことは伝えていた。
クリスマスだろうが会いたいのは俺だけで、ゆいはさして残念そうでもなかったのに。
「待って、…ます」
寂しそうなゆいの声が耳に残る。
気ばかり焦って、何もかも上の空で、
「ゆうきせんせえ、なにか、あったの?」
交通事故で怪我をして入院中の女の子にまで、心配される始末だった。
ゆいの家に着いたのは、日付けが変わってからだった。
ドアを開けたゆいは、泣きはらした赤い目をしていた。
守っているのか、守られているのか、ゆいの足にしがみついている翔を抱き上げる。
ゆいの腫れた瞼をなでた。
…胸が痛い。
抱き寄せると、ゆいは俺の腕の中に頼りなく収まった。
静かに震える身体。
抱きしめていないと、消えてしまいそうな気がした。
その夜、初めてゆいの家に泊まった。
ただ、一晩中ゆいを抱きしめていた。
俺の腕の中で、ゆいが泣いている。
こんなにも、ゆいが傷ついているのは、多分。
たった一人。
ゆいが忘れられないそいつのせい。
どんなに強く抱きしめても、
確かめるようにゆいに触れても、
ゆいはここには居ないような気がした。
ここにいるのはゆいの抜け殻で、
ゆいの心は、ずっと、そいつのもとにあるんだろう。
だけど。
「ゆいが好きだよ」
伝わらなくても届かなくても、
俺はここに居るから。
唯一、ゆいが焦がれて、ゆいを傷つける
名前も知らない男のことが、恨めしくて羨ましかった。
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