おいしい

 私は高所の旅のショックから気を取り直す。塵塚怪王の背を優しく撫でながら店に招き、カウンターの一席に座らせた。ナギ君もさっちゃんも帰ったようで、店には誰もいなかった。私は塵塚怪王のもふもふしたくなる白髪を撫でた。


「いらっしゃいませ、塵塚怪王くん。ここは小さなドーナツ屋さんだよ。ゆっくりしていってね」


 彼の頭を撫でてから、私はキッチンに入って米ぬか油に火を入れた。美味しいドーナツを食べさせてあげると約束したのだ。私は冷蔵庫から取り出したプレーン米粉ドーナツの生地を丸めて、縁ドーナツに成形する。


 私が作業する様子をカウンターに乗り出した塵塚怪王が大きくてまん丸な目で好奇心いっぱいに見つめていた。


「それなに?」

「ドーナツだよ」

「どーなつってなに?」

「おいしいお菓子」

「おいしい、おかし?」


 首をこてんと横に傾けて、まん丸金青の瞳がころんと不思議に揺れる。彼は「おいしい」も「おかし」も知らないのではないだろうか。私は胸がギュッと狭くなった。


 私は彼が美味しいを知ることができるようにと願いを込めて、熱くなった米ぬか油に八つの丸が繋がって縁を為したドーナツを投入する。ジューと耳に優しい音が天井の梁へと響いた。


 カウンターの上に正座した塵塚怪王が、キッチンの方にぐいぐい顔を押し出してドーナツを覗き込もうとするので笑ってしまう。丸い目の中に好奇心に満ちた光が煌いていた。


 じゅわじゅわの美味しい音と香ばしい匂いが漂うと、塵塚怪王はカウンターの上に立ち上がってぴょんぴょん跳ね始めた。彼が跳ねるとひらりひらりと市松模様の着物の袖も跳ねる。


「なにこれ、なにこれ!イイ!イイ!」


 子どもらしく騒ぐ彼に、犬鳴滝の前で見せた歳不相当の冷たく聡明過ぎる言葉はなかった。


「いい匂いだよね」

「いいにおい!おぼえた!これがいい匂い!」


 両手の前で手を揺らして鼻を膨らませ、いい匂いを目一杯吸おうと試みる彼の無垢さに私は頬が緩む。私が可愛いなぁと口にしかけたとき、カウンター最奥からツクモ君の低い声が飛んだ。


「椅子に座れ、餓鬼」

「ぐわぁ!」


 いつもの席に陣取ったツクモ君の蔵面の端っこが、不自然に揺れた。一言命じれば、塵塚怪王の可愛いお尻がカウンター席にピタリとひっつく。お行儀を注意するなんて、ツクモ君は意外と教育熱心なのか。


 私は少し荒っぽいが親子のような微笑ましいやりとりに笑ってしまう。


「むー」


 塵塚怪王はきちんと席に座って唇を突き出してむっとする。ツンとする様子も愛らしい。大人しく椅子に収まった塵塚怪王はカウンターにちょんと顎を乗せて貧乏ゆすりし始めた。


 待ちきれないようだが暴れたり声を荒げる様子はない。圧倒的な力を奮うツクモ君にきちんと従う気が見えた。


「はい、できたよ!ドーナツどうぞ!」


 ドーナツが出来上がるまで、きちんと席で待っていた塵塚怪王に私はにこにこ笑いかける。けれどドーナツを前にしてついに興奮が爆発した。


「ふぁー!これどーなつ?どーなつ?」


 塵塚怪王は椅子の上に裸足で立って、カウンターに両手をついて足をぴょこぴょこ跳ねる。身体中で喜びを表現していた。


 ツクモ君がまたお行儀を注意するかもと思った私は、ツクモ君に顔を向けて口の前で人差し指を立てた。喜んでいるのだから、いっぱい喜んでもらいたい。


 私がシーと内緒で合図を送ってから翡翠の指輪をそっと撫でる。すると、ツクモ君が自分の頭に右手で触れる。私は二人の間で両方のゴキゲンを取った。


「はうー!んがー!」


 ぴょこぴょこ跳ねていた塵塚怪王は、縁ドーナツを全部一口で口の中に入れてしまった。口いっぱいに入ったドーナツで、両頬をリスみたいに大きく膨らませ、金青の瞳も大きく見開いた塵塚怪王のテンションは上昇し続けた。天井に歓喜の雄たけびが響き渡る。


「んーー!」


 モグモグもぐもぐ三個、四個ともっちりドーナツが塵塚怪王のお口に消える。どう見ても美味しいと語っているその様子に私は言葉をつける。


「塵塚怪王くん、ドーナツおいしいね」

「おいしい!これ、おいしい!覚えた!おいしいー!!」


 感情と感覚に適切な言葉を知ることで、子どもは意思表示が明確になっていく。体験と言葉かけ。両輪があることで子どもの情緒は育つのだ。私もお母さんにそうやって育てられた。


 塵塚怪王は「僕がいらない」と「殺される」なんて子どもがまだ知らなくていい感情と感覚だけはきちんと言葉を持っていた。生まれてから、そういう体験と言葉かけを受けた証拠だ。


 お前はいらないと言われ、お前を殺すと言われ、実際に殺されかけた経験。彼からはそんな悲痛な生い立ちが垣間見える。


「お前!ドーナツもっと欲しい!」

「いいよ、いっぱい食べてね。私は結子だよ」

「ゆいこ!おいしい!ドーナツおいしい、ゆいこ!ゆいこ、おいしい!」


 おかわりの縁ドーナツには自家製の苺ジャムを塗ったり、もったり生クリームを添えていると、塵塚怪王はひょいとカウンターを乗り越えてキッチンにふわっと入ってきた。


 キッチンに飛び込んだ塵塚怪王は、私の背中に飛び乗り、首に抱きついて腰に足を絡める。不思議と重さはなく、おんぶ体勢に塵塚怪王は笑う。私もくすくす笑いながらおかわりドーナツを用意し終わると、ツクモ君の声が飛んだ。


「結子に触れるな。餓鬼が」


 ツクモ君の命令が飛べば、おんぶでくっつき虫をしていた塵塚怪王は宙を舞って、カウンター椅子にお尻がひっつく。


「うわぁーーん!ゆいこがいいーー!」


 どうも今日のツクモ君は堪え性がない。塵塚怪王がもぞもぞと腰を揺らしていたがお尻はきっちり椅子にひっついてビクともしない。


「あとで遊ぼうね。まずドーナツを食べなさいってツクモ君は言ってるんだよ」


 座り直された塵塚怪王の前におかわりドーナツを置くと、ものすごい勢いで小さな口の中に消えていく。


「ふぁあーー!おいしい!ゆいこ、ドーナツおいしい!」

「うん、良かったね!」

「……ハァ」


 ツクモ君のこれ見よがしな不満いっぱいのため息が聞こえたが、私は塵塚怪王のもぐもぐを見てずっと笑っていた。十分食べ終わった塵塚怪王はやっと静かになった。


 きちんとカウンターの椅子に座った塵塚怪王にあったかいほうじ茶を出して、私は彼の右隣に座る。今日はすこぶるアクティブなツクモ君が移動して、塵塚怪王の左隣にどんと座った。


 私は塵塚怪王の背中をそっと撫でた。米粉ドーナツをいっぱい食べてもらった。素直になっちゃう現象、発動だ。

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