さっちゃん

 私はさっちゃんが怯えないようにできるかぎり優しい声を意識した。


「私、さっちゃんの気持ち、よくわかるつもりです。私も母が死ぬとき……一緒に死にたいと思っていたので」


 さっちゃんは首を上げて私の顔を見た。千鶴おばあ様も皺の奥で目を丸くしている。


「でも母に言われました。人は忘れられたときに本当に死んじゃうから、それが怖いって。だから、私に生きて母のこと覚えていて欲しいって」

「……」


 さっちゃんは赤紅色のまんまる目で真偽を図るように私を見つめた。


「さっちゃんは、千鶴おばあ様が消えてしまって本当に良いんでしょうか。話し合わないといけないのをわかっていて、素直になれないのではって心配です」

「そんなんじゃ……ないもん」


 私は手土産に持ってきた林檎カスタード米粉ドーナツを袋から取り出して、むっと口を尖らせるさっちゃんに手渡した。さっちゃんは丸めていた体を起こして、前足二本でドーナツを受け取ってくれた。


 さっちゃんの体と米粉ドーナツは同じくらいの大きさだ。私は千鶴おばあ様にもドーナツを手渡す。


「米粉ドーナツは母のために作り始めました。母が喜んでくれた笑顔を忘れません。米粉ドーナツを作るたびに私は母を思い出します。私のドーナツにも……母は生きています」


 さっちゃんは顔を上げて米粉ドーナツを手に持ったまま、私の話を真剣に聞いてくれた。


「一人は辛いです。別れは身を引き裂かれるようでした」


 私は右手の薬指にある翡翠の指輪をするっと撫でた。


「でも私が生きていることを母は喜びます。私は母が喜ぶことを精一杯したかった。だから一緒に死ぬのは、止めました」


 ふわふわ小さな白兎の赤い眼差しが、すでに別れを経験した私を凝視する。


「私の想いがこもり過ぎたからか、この米粉ドーナツには不思議な力が宿るようになりました」


 訝しむように首を傾げたさっちゃんに私は笑いかけた。


「食べたら素直になっちゃうんです。さっちゃん、食べてみてください。素直になってしまうのは全部、ドーナツのせいです。ぜひドーナツを食べて千鶴おばあ様とお話してください」


 私の話を聞いた千鶴おばあ様は、米粉ドーナツを食べ始めた。さっちゃんも千鶴おばあ様の膝の上で、無言で米粉ドーナツを食べきった。ふわふわのドーナツ、とろりとしたカスタード、しゃりっと林檎の果実。


 千鶴おばあ様を見上げて、さっちゃんが呟く。


「千鶴ちゃんは、さっちゃんが一緒に棺桶に入っても嬉しくない?」

「……うん」

「千鶴ちゃんは、さっちゃんに生きて……思い出して欲しいの?」


 千鶴おばあ様の目尻に皺が深く刻まれて、千鶴おばあ様の声が震えた。


「そうなの、そうなのよ、さっちゃん。私ね、こんな歳になっても忘れられるのが怖いの」

「怖い?」

「さっちゃんが私を温めて守ってくれたことや、大人になって二人で色んな所へ出かけたこと、ドーナツを食べて笑ったこと。全部、消えちゃうのが怖い」


 千鶴おばあ様が顔をしわくちゃにして小さな涙を零すと、さっちゃんが千鶴おばあ様のお腹にぎゅっと抱きついた。


「私の人生はさっちゃんのおかげで一人じゃなかった。でも『私を覚えていて欲しい』我儘で、さっちゃんが一人になるのが……何より怖いの!」


 千鶴おばあ様が若い娘のように素直な感情をさらけ出す。さっちゃんの赤紅色の瞳からも大粒の露が滴った。さっちゃんは千鶴おばあ様のお腹に抱きついて大きな声を上げた。


「……千鶴ちゃん、死んじゃヤダよぉ!」


 さっちゃんの心からの叫びが部屋に響いて、私のみぞおちが震える。私の目にまで涙が滲むと、ツクモ君が私の頭にぽんと手を置いてくれた。私は涙を飲み込んで唇を噛んだ。さっちゃんは声を張り続る。


「でも千鶴ちゃんとさっちゃんが一緒にいたことが、消えちゃうのヤダ!千鶴ちゃんが怖いって思うのもダメ!だから!さっちゃんが忘れない!」

「さっちゃん……!」


 千鶴おばあ様はさっちゃんを抱きしめる腕を緩めて、さっちゃんのまんまる目を覗き込んだ。


「千鶴ちゃんの怖いものは全部さっちゃんが壊してあげる!さっちゃんが、千鶴ちゃんを守る!」


 さっちゃんは小さな身体で千鶴おばあ様をずっとあたため、守ってきた。二人はずっと寄り添ってきた。


「さっちゃんは一人にならない!次の持ち主とも仲良くする!だから大丈夫だよ千鶴ちゃん!怖いの全部、さっちゃんがなくしてあげる!」


さっちゃんの大きな声が縮んでか細く現実を受け止める。


「千鶴ちゃんが死んでも……ずっとずっとさっちゃんが千鶴ちゃんを守ってあげるから……!」

「ありがとう……ありがとうね、さっちゃん。私を守ってくれてありがとう、大好きだよ」

「さっちゃんも、千鶴ちゃんが大好きだよ……!」


 千鶴おばあ様とさっちゃんは乙女のように抱き合って瑞々しく気持ちを通じ合わせた。二人が微笑み合うのを見て、私はまた目の奥が熱かった。


 

「結子さん。私が向こうへ行ったら、さっちゃんをお願いするわ」


 ベッドに座ったままの千鶴おばあ様の皺々で皮の余った温かい手を両手で握りしめて、私は強く誓った。


「はい、必ずさっちゃんを大切にしてくれる持ち主を探してみせます」


 さっちゃんは千鶴おばあ様の肩の上にちょこんと乗っている。千鶴おばあ様の亡き後、施設の職員がさっちゃんの実体である土人形を私の店まで運んでくれる手筈を整えた。


「ありがとう、結子さん。思い残すことがないのは気が楽よ。もう何も怖くなくなったから、最期までさっちゃんと楽しく遊ぶわ」


 徐々に死ぬ準備が整う千鶴おばあ様はどんな気持ちだろう。私にはまだ想像がつかない。千鶴おばあ様は肩に乗って涙ぐむさっちゃんに穏やかに笑いかけていた。


 可愛い笑顔だった。

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