林檎


 古民家の自宅側。和室居間の窓辺で私は膝に顔を埋めてお母さんを思い出していた。忘れないと誓ったあの約束を私は守り続けている。


 お母さんと積み上げたハレの日、ケの日の習慣を今はツクモ君が繋いでくれて。小さなドーナツ屋さんを開店させて、お母さんが褒めてくれた米粉ドーナツを売っている。お母さんは私の暮らしの中に如実に生きている。


 お母さんが「お母さんを忘れないって約束の証ね」と私にくれた翡翠の指輪は、今も私の右手にある。


 膝に顔を埋めてスカートに染みをつくっていると、ツクモ君の右手が私の頭をぎこちなく彼の胸に引き寄せた。力のままに従えば、頭を腕に抱きこまれてツクモ君の胸に頬がぴたりとくっついた。胸を貸してくれるらしい。


 ツクモ君が頭を抱いてくれる温かさに人恋しい気持ちが満たされる。ツクモ君は泣かせ上手だ。私は包まれる安心感を得て、お母さんを想う寂しさに存分に浸った。


 時計の長い針が何周したかわからないほどツクモ君の胸で泣いて、やっと決めた。ツクモ君の胸の着物に顔を埋めた私は、くぐもった声で決意を告げる。


「ツクモ君、私さっちゃんの次の持ち主を探す」


 白兎の付喪神さっちゃんが千鶴おばあ様と一緒に死にたい気持ち。誰よりもよくわかるつもりだ。でも、千鶴おばあ様の気持ちは受け取って欲しい。


 だから、私はさっちゃんともう一度話そうと決めた。泣いて泣いてぐるぐるした気持ちが収まったら、すっきり進むべき道が見えてくる。


「結子がそう決めたなら、我は結子と共に在ろう」


 いつだって泣きたいだけ泣ける場所になってくれるツクモ君には感謝が尽きない。


 そう伝えたかったのだけれど、泣き疲れてもう目蓋が開かなかった。ツクモ君が抱き寄せた私の背をトントンと叩くから、私はツクモ君の胸にしがみついたまま眠ってしまった。


 翌朝、私は寝室の布団で寝ていた。ツクモ君が運んでくれたみたいだ。ツクモ君にお礼を言った私は、腫れぼったい目を冷やしてから調理に取り掛かった。


「ツクモ君、見ててね。私がんばるから!」


 店のキッチンでまるいお握り型の米粉ドーナツを揚げた。ふんわりふわふわに揚げたドーナツの中にへ、しゃりっとした食感が嬉しい林檎のコンポートの角切りを混ぜた、アップルカスタードクリームをたっぷり詰める。


 林檎には「選択」の意味がある。


 柔くてとろりと甘いカスタードに包まれた林檎の選択は、酸っぱく感じるだろう。でも、カスタードもさらにそれを包む米粉ドーナツも愛しいくらいにふわふわに。さっちゃんの選択を包むもの全てが優しいことが伝わりますように。


 そんな願いを込めて丁寧に作り上げた。さっちゃんと千鶴おばあ様への手土産だ。

 

 今日は店を臨時休業。私は赤い小さな車に乗って、犬鳴有料老人ホームを目指した。ツクモ君はちゃっかり助手席に座ってシートベルトもつける。和服で蔵面でありつつ現代に馴染んだ行動をとるのでいつもちょっと笑ってしまう。


 古民家を出発して、住宅街を抜け、水田通りを走り過ぎる。店を開店した頃、田植えをしたばかりだった水田の稲はすっかり背を伸ばして穂をつけ始めていた。


 出穂の青田を横目にしばらく行けば、山道へと突入。神ノ郷村の三方を囲むのが犬鳴山だ。


 豊かな力が満ちる犬鳴山の中、コンクリートの道をぐるぐる走れば「不法投棄禁止!」の看板が目に入る。


 犬鳴山はコンクリートの道が走ってはいるが、道のすぐ脇は、野生動物が生きる深い森であり、清流の川だ。交通量が少なく人目がないため、夜にやってきて道の脇に車を停め、森や川へ向かって廃棄物を捨てて帰る人が後を絶たない。


 青い緑と、人の醜い業を垣間見る道を抜けた山の中腹に犬鳴有料老人ホームはあった。


 人里離れてはいるが、景色は抜群の小さな高齢者施設だ。訪ねる前に連絡を入れたので施設の職員に迎えられ、すぐに千鶴おばあ様の個室へと案内された。


「よく来てくれたわね、結子さん。本当にありがとうね」

「失礼します」


 千鶴おばあ様の個室の窓からは犬鳴山の深い森と紺碧の空が見える。


 部屋の中にはベッドと小さな箪笥が一つあるだけ。箪笥の上には施設の職員からの誕生日祝いの寄せ書き、ご友人やご主人と共に映った写真が入った木工の写真立て。


 そしてさっちゃんの実体である土人形が小さな手作り座布団の上に特別に鎮座していた。箪笥の上に、千鶴おばあ様の人生の中で輝いた尊いものだけが、小さく大切に整えられている。


「千鶴おばあ様の大切なものが詰まった素敵なお部屋ですね」

「あらそう?そんなこと言ってもらえて嬉しいわ。死ぬ間際に側に置いておきたい大事な物って、思うより少ないものよね」


 部屋には人格が現れる。千鶴おばあ様の部屋からは、人との繋がりとさっちゃんという物を尊んだ人生が垣間見えた。


 千鶴おばあ様の顔色は悪くなかったが、ベッドから下りる気配はない。今日は歩くのが難しいようだ。私はベッドの横に置かれた丸椅子に座らせてもらう。


 さっちゃんは口を開かず千鶴おばあ様の膝の上に丸まっていた。挨拶をしないさっちゃんに視線を向けて、千鶴おばあ様が声を濁した。


「失礼でごめんなさいね」

「いえ。私、今日はさっちゃんとお話がしたくて来ました」


 さっちゃんがピクリと顔を上げて、赤紅色のまんまる目で鋭く私を見た。次の持ち主を探そうというだろう私へ敵意が丸出しだ。


 だがさっちゃんは、私の後ろをチラリと伺いふいと目を逸らす。私が振り返ると、ツクモ君が着物の袖口に両腕を突っ込んでどっしり立っている。


 さっちゃんはツクモ君に蔵面で睨まれたのかもしれない。無言で蔵面、なのに圧が伝わるツクモ君である。

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