千鶴おばあ様
平日の昼間に来客なんて珍しい。私は慌てて玄関へ迎えに出た。
「いらっしゃいませ」
三和土に現れたのは完全な白髪で、杖をついた高齢のおばあ様だった。
彼女は淡い菜の花色のワンピースを着たハイカラなスタイルで、肩の上には小さくて丸い手のひらサイズの白兎が乗っていた。丸い白兎はぬいぐるみのようにもふっとして、梅が重なったような明るい紅赤色の目をしている。
「お邪魔しますね。さっちゃん、このお店でいいの?」
「うん!あってる!顔ナシ様にやっと挨拶できるよ!」
人間のおばあ様と、彼女の肩の上に乗った白兎が会話を交わす。言葉を話す白兎は付喪神だ。ツクモ君に挨拶に来る付喪神をたくさん見たので、私は動物と付喪神の見分けがつくようになっていた。
私とツクモ君のように、おばあ様と白兎の付喪神は認識しあっている。
「二名様……でしょうか?」
「あらまあ、まあ!貴女、さっちゃんが見えるの?」
白髪のおばあ様は顔をしわくちゃにして目を見開き、さっちゃんと呼ばれる白兎と顔を見合わせた。
「はい。我が家にも付喪神様がいらっしゃるので」
「さっちゃんが見える人に会ったのは初めてよ!死ぬ前にここへ来て良かったわぁ!さっちゃん連れてきてくれてありがとうねぇ!」
「千鶴ちゃんは死んだりしないもん!」
さっちゃんと呼ばれる丸くて小さい白兎は千鶴おばあ様の肩から飛び降りて店に上がり、ツクモ君の足元へと一直線で向かった。ツクモ君はゆるりと立ち上がってツクモ式挨拶、足に額を擦りつけなさいを発動する。
私は杖をついて足が不自由な千鶴おばあ様の補助をして店に上がってもらった。古民家は三和土から部屋への段差がきつい。
ゆったりとソファ席に座ってもらうと、ツクモ君への挨拶を終えたさっちゃんが千鶴おばあ様の膝の上にぴょんと飛び乗った。千鶴おばあ様はすぐにふわふわのさっちゃんの毛並みを撫でた。
「もう挨拶は終わったの?さっちゃん」
「うん、顔ナシ様、怖くなかったよ」
「そう、私もご挨拶できたらと思ったのだけれど、私には見えないみたいね」
「ツクモ君が見えないんですか?」
注文を取りに伺った私は驚いてつい訊ねてしまった。おばあ様にはさっちゃんが見えるのだから、ツクモ君も見えると思っていた。
「見えないわ。どうしてかしら?」
「顔ナシ様が許可してないからだよ」
丸くてふわふわの白兎さっちゃんは、私に紅赤色の目を向けてきっぱり言い切った。
「顔ナシ様は付喪神の頂点のお方だよ。顔ナシ様から許可を与えられた人は全ての付喪神が見える。けど、下級付喪神のさっちゃんが許可を与えただけの千鶴ちゃんには、全部の付喪神が見えるわけじゃない」
ということは、ツクモ君が見える人間はこの世に私だけ。という状況もあり得るわけだ。ツクモ君の許可というものは存外重たいものに感じた。
私はお二人から注文を受け、改良版もっちもちプレーン米粉ドーナツと中深煎りコーヒーのセットを提供した。
「もっちもち!おいしいね、千鶴ちゃん!」
「そうね、こんなにおいしいドーナツ初めてね」
「来て良かったね!」
「一緒だと楽しいね」
二人の会話は年頃の女の子のように若々しく弾み、微笑ましかった。私は静かな店の吹き抜けに響く二人の楽しそうな声に和みながらキッチンで片づけに勤しんだ。
さっちゃんと千鶴おばあ様がのんびりとドーナツとコーヒーを嗜んだあと、手のひらサイズのさっちゃんがカウンターにぴょんと飛び乗った。
「ねぇ、千鶴ちゃんが話したいって」
「私ですか?すぐ伺いますね」
私はすぐにキッチンを出てソファ席へと向かった。千鶴おばあ様に促され、私は喜んで千鶴おばあ様の前、グリーンのソファ席に座る。
さっちゃんはまた千鶴おばあ様の膝の上に乗って丸い体をさらに丸めてわたあめのようになっていた。千鶴おばあ様は米粉ドーナツをお食べになったばかりだ。
素直になっちゃう現象が発動してもおかしくなかった。千鶴おばあ様は口を開いた。
「実は私ね、もうすぐ死ぬのよ」
「千鶴ちゃんは死んだりしない!」
千鶴おばあ様の衝撃発言に、私より先にさっちゃんが叫んだ。さっちゃんの声は悲痛で、わたあめになったさっちゃんはぷるぷる震えていた。千鶴おばあ様は眉尻を下げて皺々の顔にさらに皺を寄せて笑った。
「もう八十歳も過ぎていい年なのだけれど、ガンでね。治療はしないことにしたの。私が決めたのよ」
ひっそりと小さな声で千鶴おばあ様は告げた。私の胃がきゅっと縮まる。ガンで、もう治療はしない。の文脈がお母さんと全く同じだった。胃が痛いくらいに冷え込み、私は膝の上で拳を握り締めた。
さっちゃんはウサギ耳を畳んで聞かないように努めている。現実を受け入れられないあの頃の私と同じ反応。
千鶴おばあ様は巾着の中から楕円形の土人形を取り出した。手の平より小さい土人形は真っ白で、赤い目がちょんちょんと描かれただけの簡素なものだ。
「これがさっちゃんが宿ってる実体のお人形よ」
千鶴おばあ様が土人形を優しく撫でると、さっちゃんがもぞもぞ動いた。くすぐったそうだ。私も右手につけた翡翠の指輪に触れた。ツクモ君もくすぐったそうにしているかもしれない。
「私が生まれた頃は戦争が終わったばかりでね。親は忙しくて遊んでくれなかったの。兄妹もいなくてね」
千鶴おばあ様は土人形を撫で、店に眩い日差しを届ける硝子窓の外を懐かしそうに見上げた。庭の一本桜の木葉の中、黄に色づくものが出始めていた。
「母がさっちゃんをくれたのよ。私の故郷は寒い所でね。一人で寂しくて寒くて震えていた私を見かねたさっちゃんが、姿を見せてくれてね。お人形であっためてくれた。それから私は手が冷えたことが一度もないのが自慢なのよ?」
千鶴おばあ様は手の平に乗せた土人形をずっと撫で続ける。今もその土人形は温かいのだろうか。さっちゃんは発熱して人を温める能力があるのかもしれない。
「さっちゃんはずっと私を守ってきてくれたわ」
千鶴おばあ様のまるい声に包まれて、皺だらけの手に撫でられて。わたあめみたいなさっちゃんはほわほわ揺れていた。
「私が大人になって、結婚して、こんな年になるまでずっと、さっちゃんは私の側にいてくれた。かけがえのない親友よ。だから私がいなくなった後……さっちゃんのことが心配でね」
今までわたあめみたいだったさっちゃんの毛が急にピンと張りつめて、さっちゃんはヒステリックに叫んだ。
「さっちゃんは千鶴ちゃんと一緒に逝く!一緒に棺桶に入って一緒に燃えるよ!なんでダメなの!」
さっちゃんの悲痛な叫び声に私は身が固くなってしまう。さっちゃんがあまりに私と同じで。さっちゃんの想いに共感し過ぎて、翡翠の指輪を握る手に力が入った。
さっちゃんは千鶴おばあ様の膝から飛び出して、ツクモ君の足元に隠れるように逃げ込んだ。ツクモ君はチラリと蔵面を足元に向けただけで、頭に触れていた右手をカウンターの上に置き直した。千鶴おばあ様はため息だ。
「あの様子で、話ができなくて困っているの。私はさっちゃんに生きていてもらいたいのだけど……わかってもらえなくて」
「お察し、します……」
「ここでさっちゃんが見える貴女に出会えたのは、何かの縁だと思って……図々しいお願いであることは承知なのだけど」
千鶴おばあ様の柔和で哀しみを宿した笑みが「縁」を語ると私は身が強張った。
「私が死んだあと、さっちゃんに次の持ち主を探してあげてくれないかしら」
「次の持ち主なんていらない!さっちゃんは、千鶴ちゃんがいいの!千鶴ちゃんと死にたいの!」
さっちゃんはツクモ君の着物の裾に隠れたまま大きな声で抗議した。さっちゃんの声が全て私に刺さる。千鶴おばあさまはさっちゃんの声を受け入れながら、静かに続けた。
「夫は死んで。兄妹、子どもはいなくて。人間の友だちはいるのだけれど、みんなさっちゃんが見えないから。こんなことを頼める人がいなくてね……望むだけお代を支払わせてちょうだい。お金だけはあるから」
千鶴おばあ様の切実な願い。千鶴おばあ様は私の名を訊ね、艶のある瞳で私を見据えた。
「結子さんが作ったドーナツとコーヒーには、優しい気持ちがいっぱい詰まっているのがわかったの。貴女は愛情深い人よ。それにわざわざ年季の入った古民家でお店を開く結子さんは、物を大切にする人だとすぐに伝わってきたわ。八十年も生きていれば感じるだけでわかることもあるの」
千鶴おばあ様が品よく微笑む。
「貴女にだからこそ、大切なさっちゃんを頼みたいのよ」
二人は私の作った米粉ドーナツを美味しく食べてくれた。まーるいドーナツ、まーるいご縁が合言葉だ。このお願いは快く引き受けるべきもの。
でも、私は即答できなかった。
さっちゃんの気持ちが痛くて堪らなかったから。私は声を絞り出した。
「少し、考えさせてください」
「ええ、もちろん。突然なのに考えてくれてありがとうね」
千鶴おばあ様の柔らかい笑みに包まれて、私はまた身が冷えた。さっちゃんは話もせずいつまでも隠れていたが、ツクモ君に首根っこを掴まれて私の手に向かって放り投げられた。
空を舞ったさっちゃんに千鶴おばあ様は目を丸くして笑った。
千鶴おばあ様は犬鳴有料老人ホームにいるからと言い残し、さっちゃんと二人で帰って行った。千鶴おばあ様は何度断っても、多すぎるお代を置いて行かれた。
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