第1話 ハッピーウェディング

 二十二世紀。デッドコピーという人の人格を移植した不死のアンドロイド兵達の登場により、人体改造を施されたサイボーグ兵達がお役御免となって、しばらく。この国には迫害されたサイボーグ達が身を寄せ合うスラムがあった。

 これはその土地での物語。その断片集。


「はい、これで脳内チップの定期メンテナンスはおしまいだよ」


 僕ことハルはこの街で電子除染技師として、電子ドラッグやウイルスによる脳内チップの汚染の治療や、はたまたサイボーグ達へのちょっとした医療行為まで行っていた。他にそういった技術を持つ者がこの街にはいないので、大変繁盛している。

 僕は今日も診療所代わりのガレージで客を一人受け持っていた。

 中肉中背、黒髪ショートカットの綺麗な女の子だ。名前はロゼッタ。僕や知り合いはみんなロゼと呼んでいる。

 この街の娼婦だ。

 僕は男だけれど、意外なことに娼婦と仲がいい。

 恋バナをする仲なのだ。

 と言っても、娼館の女の子達に親しくしてもらえてるのは、僕が同性愛者で既にパートナーがいて、男女の枠組みから外れた部外者であるからでしかないのだけれど。

 帰る身支度を整えながら、ロゼは口を開いた。


「私ね、もうすぐこの街から出ていくんだ」


 それはロゼにとって、そして、ロゼの友人の僕にとっても喜ばしいことだった。

 それはつまり娼婦としての借金を完済した、もしくは目標金額に貯金が達したということだ。


「おめでとう。お金貯まったんだ」


 ロゼは横に首を振った。


「ううん、身請けの話を受けたの」


 身請け。それは端的に言えば、娼館から娼婦を婚約者として買い上げるということだ。詳しいシステムは分からないけれど、かなりの額が必要と聞き及んでいる。


「だから、ハル君ところで電脳メンテナンスされるのもこれでおしまい」

「そっか。寂しくなるけど、幸せになってね」


 頷きながらも、けれど、ロゼは顔に暗い影を落としながら寂しそうに笑った。


「ありがと。……本当はミアもこうして出ていけるはずだったのにね」

「……そうだね。ミアも出ていけたらよかった」


 ああ、と思った。ロゼはミアと親しかった。

 ミア。

 僕とロゼの共通の友達で。彼女もロゼと同じくこの街の娼婦だった。

 彼女はある時、命を落としてしまった。

 この街は治安が悪い。ただでさえ、スラムというのは治安が悪いだろうと思う。それなのに、ここに集まっているのは軍上がりや半グレの戦う力があるサイボーグ達だ。暴力の嵐の桁が違う。

 だから、娼婦が命を落とすのは珍しいことでもなんでもない、ただの日常だった。

 けれど、それが知り合いとなれば話はまた別だ。


「ハル君も早く出て行きなよ。別にお金困ってないでしょ」

「……僕がいないとこの街のみんなが困っちゃうから」


 電子除染技師という医者がこの街からいなくなるのもそうだし、その他にもう一つ、二つと大きな理由がある。けど、それを話すのはまた別の機会に。


「ハル君がそれでいいならいいけど、お人好しも大概にしなね」

「おぅ、もっと言ってやれ言ってやれ」


 ロゼの言葉を囃し立てたのは、壁に寄りかかっているサイボーグ──プルートだ。

 厚みのある体はそのほとんどが人工筋肉で覆われていて、筋骨隆々としており、頭もフルフェイスで機械の強化外骨格に換装されている。

 人工筋肉に簡素なシャツやズボンがパツパツに張っていた。

 この人が僕の世界で一番好きな人。

 折につけて、『この街から出て行け』と僕にとっては意地悪に思える言葉を、僕を想って言うのだ。こんな治安の悪い街、いない方がいいことは確かだから。

 けれど、その随分な口振りに僕は口を尖らせた。


「ちょっと、貴方は僕のこと庇ってくださいよ!」


 貴方を想ってここにいるのに。

 そんな僕達のやりとりにロゼはクスクスと笑う。


「まあ、旦那さんが頼もしくて守ってくれるからハル君はこの街でも平気か」

「えへへ」


 世界で一番好きな人を褒めてもらえるのは世界で一番嬉しい褒め言葉だ。

 ちょっと僕は機嫌を持ち直した。


「じゃね」

「うん」


 そんな軽いやり取りをして、ロゼは会計を済まして診療所がわりのガレージから出て行った。

 僕はロゼの診察データをさっとまとめて、すぐにしまう。

 個人情報の管理はしっかりしないと。


「失礼」


 そうこうしていると、新しい来客があったようだ。診療所の入り口は、一軒家のガレージを診療所にしているものだから、全開のシャッターで。そこに人影が立っていた。

 もう僕も手慣れたもので、営業スマイルと作った声音で出迎えた。


「いらっしゃい。メンテナンスですか?」

「いや……」

「?」


 言い淀まれて、僕は首を傾げてしまう。

 見れば、この街の男だっていうのに、サイボーグじゃなく生身の人間だ。そして、このスラムにいる人間にしては身なりがしっかりとしている。品のいい仕立てのコートだ。髪だってきちんと櫛が通っている。このスラムの人間じゃないんじゃないだろうか。

 けれど、そんな出立 いでたちとは反対に視線の先が定まらず、不安げにキョロキョロとさせ、なんだかもじもじとしている。

 正直言って、挙動不審だ。


「その、さっきの女性についてなんですけど」

「え?」


 口を開いたかと思えば、思いもよらない言葉に僕は面食らってしまう。

 さっきの女性ってロゼのことか?

 その言葉を聞いた瞬間、壁に寄りかかっていたプルート うちの人はツカツカと歩み寄って受付の台をドンと拳で叩いた。プルート うちの人は僕のボディガードのようなことをいつも進んでやってくれていた。


「帰んな。うちは客の個人情報は売らねえんだよ」


 プルート うちの人の凄みに不審な男は慌て始めた。


「あ、いや俺は怪しい者じゃなくて」


 それを自分で言ったらおしまいだと思う。

 つい内心でツッコんでしまう。

 というか、自覚はあるのか。


「あん? ストーカーかなんかだろ? 娼婦に入れ込んで勘違いする野郎はいくらでもどこにでもいるもんだ」


 確かに、プルート うちの人の言葉の通り、ストーカーっぽくは見える。というか、現状見えている情報ではそう類推するのが妥当ではある。


「違くて」

「じゃあ、なんだってんだ!」


 プルート うちの人の怒声に張り合うかのように、不審な男は顔を赤らめ必死の形相で声を張り上げた。


「お、俺は、彼女の身請け人です!」

「え?」


 予想外の言葉に、僕の口がポカンと開いてしまう。

 この人がロゼの身請け人?

 

 ────────

 ────

 ──

 

「とりあえず、そこに座ってください」

「どうも」


 受付を通し、さっきまでロゼが座っていた診察台に身請け人という男を腰掛けさせる。

 名前はフィリップというのらしい。どうやら、彼曰くこの土地の地主の息子なのだとか。

 せっかくなのでフィリップには、脳内チップの電脳メンテナンスということにして、その間話を聞かせてもらうことにした。僕が操作するパソコンのモニターでは、横に伸びたゲージがゆっくりと動いている。これが100%になれば定期メンテナンスは終了。脳内メモリのバグ取り、ウイルススキャン、その他諸々が完了される。


「それでなんでまた、ロゼの見請け人の方がロゼについて他の人に尋ねて来るんです?」


 身請け人なら彼女自身に聞けばいい。身請けを申し込んで受け入れられる仲なら、本人同士の方がよほど詳しいんじゃないだろうか。

 僕達みたいな部外者よりも。

 フィリップはもじもじしながらも話し始めた。


「俺が聞いてもあんまり意味がないっていうか」


 意味がない? どういうことだろう?

 要領の得ない返答にプルート うちの人は苛立っている様子を露骨に おもてに出した。


「ああ? ウジウジしてないで、少しは、はっきり物が言えねえのか」

「ちょっと」


 まだプルート うちの人はフィリップに対しての語気が強い。不審人物に対して、警戒するのはこの街では大切なことなのだけれど、多分、フィリップは大人しいから大丈夫だろう。それに威圧してしまっては、話を聞くのも滞ってしまう。

 大人しい人物が実はヤバいというケースもあるにはあるけど、それを考えていたらキリがない。


「あん? まさかすっかり信用してるわけじゃあねえだろうな?」


 そういうわけではないけれど、最初から疑ってかかっても話は始まらないから。


「一応、話だけでも聞いてあげましょうよ。なにか事情があるのかもしれないですし」


 それに、身なりが整ってる。地主の息子であるというのも全く信憑性がない話ではなかった。それならば、身請けの話も俄然信憑性があるし、そもそもただの不審者に身請けの話が知られるほどロゼや娼婦たちの口は軽くない。

 辛抱強く、フィリップが口を開くのを待っていると、意を決したのか、フィリップは再度おずおずと話を切り出した。


「すいません。いきなりなんですが、恋愛相談に乗ってもらえませんか?」

「恋愛相談だぁ?」

「まあまあ」


 声を荒げるプルート うちの人を宥めながら、アイコンタクトで話を促すとようやくフィリップは本題を話し始めた。


「俺、彼女……ロゼさんの身請けを申し込んでオーケーもらえたんですけど、その、正直、俺って不細工じゃないですか」

「おう」

「ちょっと!?」


 フィリップの言葉に、プルート うちの人が素直に頷いてしまうもんだから僕は慌ててしまう。

 さすがに失礼が過ぎる。

 確かに、フィリップは容姿がいいとは言えないかもしれないが、髪に櫛は通っている。最低限、身だしなみを整えることはできているのだ。

 それに、容姿についてはメガネのもやしでいつも白衣の僕が人のことを言えた義理ではないと思う。


「恋愛相談だろ? 現状認識は大事だろ」

「デリカシーって言葉は知ってます?」


 この人は繊細さというものをサイボーグ化する時にでも一緒に捨ててしまったのかもしれない。

 けれど、プルート うちの人の不躾な言葉にフィリップは寂しそうにではあったが、存外、微笑んでいた。

 あれ? と思ったが、僕は話を傾聴する。


「いえ、いいんです。けど、なぜ身請けの話を受けてもらえたのか分からなくて、俺でいいのかなって、身請けを申し込んでおいてなんですけど。正直、俺と彼女はそんなに仲が深いわけじゃなくて」

「ふぅん、つまり自分に自信がねえってわけだ」

「そう、ですね」

「いや、本人に聞けよ」


 それは正論が過ぎる! 正論なんだけれども! それができないって話をコンコンとしてたんでしょうに!

 多分、仲がいいわけじゃないから、聞いたところでそれが本音か判別つかない、もしくは聞くに聞けないって話なんだろう。


「もう貴方はちょっと黙っててください」


 プルート うちの人に恋バナはまだ早いみたいだ。いや、ざっくばらんな回答はそれはそれで役に立つもので、真の意味で解決するなら正しいのだけれど。

 けど、気持ちの話は気持ちでしか解決できないものだ。

 一応、フォローしておくとプルート うちの人は元軍人だ。軍人が問題解決のためには気持ちや感情なんて優先していられないのだろう。そんなものを優先していたら戦えなくなってしまう。

 ただ、このままでは埒が開かない。脳内チップの電脳メンテナンスのゲージの進捗も、もう八割ってところまで来ていた。なので、僕は話をまとめさせてもらうことにした。


「貴方の気持ちは想像できますよ。マリッジブルーって言いますし」


 そうでなくとも環境が変わるのだから、不安なものだろう。

 僕の言葉にフィリップが俯いていた顔を上げた。話が聞いてもらえる安心、共感。それらがまずないとどんな言葉も届かないものだ。


「ですから、不安になるのもしょうがないと思います」


 僕は、電子除染技師として会得した会話術を総動員していた。

 患者を安心させるのも、一種の医療従事者として必須のスキルだ。


「身請けの話を受ける理由は様々あると思います。けど、やっぱりそれは一緒に生活する中で、少しずつ貴方が探っていくしかないんじゃないかなって思います」


 まぁ多分、仲が良くないのに身請けを受ける理由なんてものは、おそらくお金なんじゃないかとは思うけれど。フィリップは地主の息子なのだし。でも、僕はそれを黙っている。多分、こうして相談しにきてる以上、本人もその可能性には気づいているはずだ。わざわざ憶測を言う必要はない。


「でも、貴方の身請けの話をロゼは受けたんですから、彼女を信頼してあげないと彼女が可哀想ですよ。あくまでこれはロゼの友人である僕としての言葉ですが。安心してください。どんな理由でも彼女が身請けの話を受けたということは、それに足る理由が貴方にあったからです。誇ってください」


 そうして僕は個人的な意見を交えて総評をまとめて話し終えた。

 その間、フィリップはうんうんと頷いていて、心なしか表情も明るくなった気がする。

 現状をまとめて少しポジティブな言葉を添えてあげただけなのだが、力にはなれたようだ。

 ただ、結局、彼の悩みの根本には何も答えていないわけで、僕とプルート うちの人どっちの方が本当に優しいのだろうかと思う。

 フィリップは、話を終えた僕になにやらメモの切れ端を渡してくる。なんだろう? と見てみると連絡先だった。


「もし後でなにか他に分かったこととかあったら、ぜひ教えてください」

「ええ」


 頷きはしたけど、流石にそれはちょっとどうかなと思う。僕は目の前のフィリップとロゼならロゼの方が親しいし、ロゼについてそんなベラベラ勝手に話したいとは思わない。

 話はこれで本当に終わりだった。

 ちょうど、メンテナンスも終わったみたいだ。


「もう起き上がって大丈夫ですよ」

「ありがとうございました」

「いいえ」


 フィリップは立ち上がり帰り支度をして会計を済ませる際にも礼をし、そして、フィリップは診療所のガレージを出る際にも僕達に一礼をしていった。やっぱり地主の息子だと言うのは本当なのだと思う。自信なさげだが、育ちの良さが滲み出ている。

 フィリップが帰った後、プルート うちの人が口を開いた。


「で、どうするんだよ」


 どうするって言うのは、『もし後でなにか他に分かったこととかあったら、ぜひ教えてください』ってフィリップに頼まれたことだろう。


「いや、どうするも何も、個人的なことは踏み込むべきじゃないですし」


 これ以上のことはするべきではないと思う。


「だよな」


 プルート うちの人も僕の言葉に深く頷いた。

 これでこの話は終わったとこの時は思っていた。

 けれど、思いもよらず僕達はロゼとフィリップに深く関わることになる。

 それから数日経った頃だった。

 ロゼから話がしたいと呼び出されたのだ。

 

  ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 

 表通り。このスラムの中でも比較的治安がいい此処は、日当たりも良く、ちょっとした屋台なんかも並んでいる。おすすめは肉を串に刺して焼いたもの。他にはカフェ替わりになる屋台なんかもある。

 この街の中では比較的真っ当な区画だ。

 僕とプルートうちの人は屋台でコーヒーを頼んで、待っている間に辺りを見渡す。

 屋台通りの前に並ぶいくつかの白い丸型テーブル、そこに待ち人の姿を見た。

 ロゼは手を挙げてこっちこっちと手招きをしている。

 僕達はコーヒーを受け取って、ロゼの待つ席に着いた。


「ごめんね、時間貰っちゃって」

「ううん、あのままさよならだったら僕も寂しかったから」


 知り合いが減って行くのは寂しいものだ。とりわけこんないつ誰が死ぬかも分からない街では。慣れるんじゃないかと思われるのかもしれないが、逆で、それだけ身内が貴重なものになるのだ。


「ハル君にそう言われると嬉しいな。街の他の男みたいに下心からのおべっかじゃないって分かるから」

「それはロゼが綺麗だからみんな振り向いて欲しいんだよ」

「あはは、ありがと」


 ロゼは僕の言葉にはにかんだ。

 おべっかじゃない。ロゼは綺麗だと思うし、いつだって堅実だ。いまだって落ち着いた私服を着て身なりを整えていて、娼館の中でも気品のある素敵な女性だと思う。


「ハル君の旦那さんもありがと」

「気にするな。俺はハルのボディガードだ」


 プルート うちの人はロゼの言葉に手をひらひらとさせて応えていた。


「いいね。旦那さんがしっかりボディガードしてくれるの」

「前々から言ってるんだが、別に俺は旦那って訳じゃあ──」

「うん。僕の世界で一番大事な人だよ」

「…………」


 僕のすかさずの言葉にプルート うちの人は二の句が告げなくなってしまったようだ。

 ロゼも揶揄うようにクスクスと笑う。


「ふふ、だって? 旦那さん・・・・?」

「ふん」


 プルート うちの人は臍を曲げて腕を組んで黙り込んでしまった。照れ屋なのだ。

 さて、場も和んだことだしと、僕は本題に入る。


「今日はどうしたの?」


 今日は、ロゼから話がしたいと呼び出されたのだ。

 なにか用があるはずだった。

 先日、フィリップがロゼのことを尋ねてきた件もある。

 ないとは思うが、もしもフィリップがロゼのストーカーだったりして、ロゼに助けて欲しいと言われる可能性も万が一あるとも限らない。


「この街を出る前に、ミアの話、したくて」


 ああ、そっちか。と思った。

 フィリップを欠片でも疑ってしまったことを内心謝っておく。

 ミア。

 僕達の死んでしまった共通の友人。

 ただ、僕からすればミアのことを話せるのはプルート うちの人とロゼくらいなものだけれど、ロゼならば同じ娼館の仲間で話せるのではないかと思った。ミアも娼婦だったから。


「娼館のNo2の──ミアがいなくなっちゃったから今はNo1か。No1の子がね、ミアの悪口言ってるの聞いちゃってさ。なんか悔しくって。ミアがいなくなっただけのNo1のくせにね」


 ああ、それならば同じ娼館の子と話したくないのも分かる。娼館の中の人間関係は僕には分からないけれど、客を取り合うのだ。それこそいざこざはあって然るべきだろうか。恨み辛みも降り積もるのだろうか。

 たとえミアのように死を惜しまれるような人間であっても。


「でも、私いなくなったミアのために怒ったりもできなかった。ミアは庇ってくれたのに。どうせもう店からいなくなるんだから言ってスッキリしちゃえばいいのに。ミアより場の空気を優先しちゃった」

「それはしょうがないよ」


 僕だって、周りの空気に逆らって発言するのは難しい。とりわけ女の子の人間関係は男の僕からするとちょっと複雑な気がする。僕は、「特別枠」として女の子に仲間に入れてもらえることもあるけれど、それはお客様のようなもので本当の仲間というと違うのだ。


「ミア……」


 ロゼは屋台の紙コップの木のマドラーをゆっくりと円を描くように回していた。手をつけられずに温くなっただろうコーヒーの水面が渦を巻いている。そこに何を見出してるんだろうか。在りし日のミアの姿だろうか。


「ミア、いい子だったよね」

「うん、すごく」

「ああ」


 じっと腕組みして黙っていたプルート うちの人も頷くぐらい、ミアはいい子だった。周りを自分より優先する子で、だからいなくなった今も周りから惜しまれている。


「ありがと。ミアのことちゃんと覚えてるの私だけかと思って心細かったの」

「そっか、ロゼ大変だったね」


 友達を失くすっていうのは、それだけでも大変なことだろう。ロゼはそれに加えてこの街の娼婦だ。心の支えの一つが失われてしまってもこの地獄でなお、懸命に生きてきたロゼは賞賛に値すると思う。


「身請けしてこの街を出て行く前にミアのこと話せてよかった」

「うん」


 少しは、ロゼの力になれたんだろうか。なれているといいけれど。

 と、ここまで話してきて、やっとその単語が出てきたなとも僕は思った。

 身請け。


「そういえば、話は変わるけど、どうしてロゼは身請けの話を受けたの? いつの間にいい人できてたの?」


 別に、フィリップの為というわけではないけれど、僕も気になってはいたのだ。

 身請けというと恋仲に落ちた男が娼館から娼婦を買い上げることだけれど、でも、ロゼにそんな浮いた話があったことを僕はついこの間まで知らなかった。そして、フィリップの話振りからして、おそらく恋人関係ではないのも確かだった。


「身請けを受けた理由、か」


 ロゼは一度そこで言葉を切ってフッと笑った。


「そんなの決まってる。こんな地獄から早く出たかったの」


 それはそうだろうなと思った。

 半分、予期はしていた。

 このスラムは生きていても辛いだけ、な奴らも多いから。

 出て行ける機会があるのならそれに飛びつくのは自然なことだった。プルート うちの人も折を見て、幾度も僕に『この街を出ろ』と言うのだから。


「ね、ハル君。こんな地獄から救われたいって思うことは悪いことかな」


 悪くはないと思う。その為になにか悪いことをしたらまた別だろうけれど。

 僕は小さく首を横に振った。


「きっかけは、そう、ミアが殺されちゃったから」


 その言葉を出だしとして、ロゼは滔々と喋り出した。


「ミアはいい子だった。娼婦の中でのいじめもあの子がいれば治った。私も何度庇ってもらったか分からない。だから、あの子が死んじゃって、もうなんか色んなことがね。どうでもよくなっちゃったの。苦しみに耐えて頑張るの馬鹿馬鹿しいって」


 もう我慢の糸が切れてしまったのか。

 ロゼの声に、言葉に疲労が滲んでいた。


「ハル君。好きじゃない人とセックスするってどういう気持ちだと思う?」


 難しい質問が来たなと思った。

 僕は、横にいるプルート うちの人をついふと見てしまう。

 僕は、プルート うちの人としかそういうことはしたことがなかった。そして、そういうことをする時は、した後は、いつも満たされた心地だった。世界で一番好きな人としかそういうことをしたことがない僕が娼婦の彼女に語ってもいい言葉がどこを探しても見当たらなかった。

 問いに答えられず閉口してしまったままの僕を気遣うためか、ロゼが代わりに口を開いた。


「別に、被害者振りたいわけじゃあないよ。私は汚れた女だよ」

「そんなこと、ないよ」


 僕はかぶりを振って、否定する。

 男の情愛の伴わない性欲、その穢れた汚泥を掬い上げるような職業は、聖職者と言ってもいいはずだ。膿の滲む四肢に包帯を巻くようなその職能は確かに穢れに触れることであっても尊いことではあるんじゃないだろうか。

 この街に蔓延る壊れてしまったサイボーグ達の拠り所となった電子ドラッグと同じで、その孤独や傷を慰撫する存在は、僕はどうしても嫌いにはなれない。

 確かに、正しくはない。けれど、世界から正しくない、お前たちはいらないと追いやられたサイボーグ達を慰められるのは、そんな正しくない存在だけだったのだ。

 けれど、彼女たち娼婦や世間の目が僕と同じようには考えていないことも、また確かだとも思う。

 実際、目の前の彼女は自身のことを疎んでいるのだから。

 言葉の応酬は続く。


「あるよ。じゃあ、ハル君に娘がいたとして、大事な娘に私みたいなことさせたい?」

「…………」


 ロゼのその言葉には僕はなにも言えなかった。

 さっきの内心の言葉は別に嘘のつもりじゃない。けれど、自分の身内が娼婦をしようというのならどうにかして止めようとはするだろう。

 結局、娼婦の職能は聖職者と言ってもいいんじゃないかと考えていても、実際は、そのような称賛も敬意も与えられないことは僕も分かっているのだ。


「職業に貴賎はないなんてそんなの嘘っぱちだよ。差別じゃなくて、真っ当な常識。いや別に差別ではあるのかもね。でもハル君は優しいから不当な扱いをしない。それでいいんだよ。それが人間の限界だし、娼婦は立派な職業だなんて綺麗事言われる方が私は鼻について嫌──あ、ハル君のことじゃないよ。さっきのは私が卑下したからハル君に言わせちゃっただけだから」


 さっきからずっと彼女は自嘲してるように笑う。それに言わせてしまっているのは、僕の方だ。ロゼはなにかを刺す言葉であっても、毎回、僕とプルート うちの人だけは例外にしてくれた。誰かを傷つけないように言葉を選ぶ子だった。

 けれども、ロゼはいつも自分を大事にしない。自分のことはいつも容赦なく棘で刺すのだ。


「でも、その末にミアのように殺されて終わってしまうなら、もう頑張れなくなっちゃった」


 それは、本当に、本当に、しょうがないことだと思う。

 仲のいい同僚が殺されたなら、そんな治安の悪い街から離れたいと思うのは極々自然で。


「本当は男なんか大っ嫌い。……ハル君やハル君の旦那じゃなくて、娼館に来るような男達。それにミアみたいな子が死ななきゃいけないこんな街も、全部。全部」


 だから、身請けの話を受けてこの街を出ていくことにした。

 そういうことなのだろう。


「身請けしてくれた人は大丈夫そう?」


 僕は身請け人だと名乗ったフィリップの姿を脳裏に思い浮かべる。

 本人が言うように不男かもしれないけれど、女性を殴るようなそんな男には見えなかった。大人しい臆病な人。


「……正直、私には豚にしか思えない。別に太ってはないけど、不細工な顔をしわくちゃにして必死に腰を振りたくるの」


 僕は、聞いていて、う。となってしまった。ロゼは僕達が知っていることを知らないが僕達はフィリップがロゼの身請け人なのを知っている。

 想像してしまった……。

 ちらっと横を見れば、プルート うちの人も苦々しげな顔をしていた。きっと僕と同じなのだろう。

 ちょっとした知り合いでも、知り合いの赤裸々な姿が脳裏に浮かぶのは堪えるものだ。


「まあでもオドオドしてるし、大人しい人かな。地主の息子だって言ってた。お金もありそう。本人の稼ぎじゃないだろうけど」


 そこは大体僕の見立てと同じようだった。

 そして、フィリップから話を聞いた時のお金が目的なんじゃないかという見立ても。


「好きになれそう?」


 僕の言葉に、ロゼは困ったような顔をした。

 それは、同時に僕の問いかけへの答えでもあった。


「ハル君はちょっと誤解してると思う」


 僕は内心しまったなと思った。地雷を踏んでしまった。


「みんながみんなハル君みたいに素敵な恋愛をして、結婚するんじゃないんだよ」


 そうだった。僕の言葉は全て「持ってる側」の言葉にしかならない。

 僕にはいつもプルート 絶対の味方がいる。

 ロゼのような自分の身一つで地獄を生き抜いてきた人間に語っていい言葉はそんなに多くない。


「色んな事情で男と女は結婚するの」


 そう、なんだろうな。と僕は思った。

 好きじゃなくても結婚するし、家庭を持つし、生活していく。

 それはとても大人な在り方だと思った。プルート うちの人がいる僕には想像もできそうになかった。

 そんな僕にできることは、


「ロゼ、幸せになってね」

「うん、ありがと」


 せいぜい目の前の彼女の幸せを祈るくらいのことだけだった。

 それからの僕達は色々と世間話をして、話題が尽きる頃には夕方になっていた。


「送ってくよ」

「おう」


 解散に、ロゼに続いて立ちあがろうとした僕達を立ちあがったロゼが手で制した。


「ああ、大丈夫。私、これから同伴だから。逆に一緒だとマズいかも。ありがとね」


 同伴。客と一緒に娼館へ行くことだったか。というか、これから仕事なのか。

 ロゼは僕達に小さく手を振って、そのまま夜の街に歩いて行ってしまった。


「身請けが決まっても、最後まで娼館の仕事はあるもんなんだな」

「勤務に空きとかできちゃってダメだったりするんですかね」

「さあ」


 そんな世間話をプルートうちの人としていると、僕達に近づいてくる人影があった。

 フィリップだ。

 近くにいたのか。気づかなかった。でも、彼がここにいるっていうことは──、


「いたんですか。盗み聞きは感心しませんよ」


 釘を刺しておく。いくらロゼの身請け人でパートナーになるとは言え、他人のプライバシーは尊重しなければならない。


「面目ない」


 頭を下げられるが、本来謝るべきは僕達にではなくロゼにだと思う。

 まあ多少は気持ちはわかるので、ロゼに告げ口したり、事を大事にするつもりもないけれど。


「彼女と仲良いんですね、俺なんかよりよっぽど。そりゃそうか。俺はただの娼婦と客だもんな」


 彼も自分のことを自嘲するように、自分にトゲを刺すように笑う。案外ロゼとフィリップは似た者同士の二人なのかもしれなかった。


「身請けするの嫌になっちゃいました?」


 僕は恐る恐る訊いてみる。結構な言われようだったと思う。自分が下手なことを聞いたせいでご破産になってしまったら、ミアにもそしてフィリップにも申し訳が立たない。けれど、思いの ほかフィリップは落ち着いていた。


「いや、元より覚悟してたというのが正直な所かな」


 自分に自信がない故に想定していたと。

 それから、フィリップはトツリトツリと身の内を明かし始めた。


「俺、彼女で女を知ったんです。俺、不細工でこんなだから地主の息子で許嫁もいたのに、逃げられちゃって。父に女を知ってこいって娼館に行かされて、それ以来ずっと彼女に救われてたんです」


 娼館の娼婦たちは、拠り所のなくしたサイボーグ兵達を救っていた。サイボーグ兵達以外にも救われる存在がいたのか。


「勿論、彼女が仕事で俺とそういうことをしてくれていたのも分かっています。ずっと嫌だったんでしょうね。俺も、多分、他の男も。最近は、特にそうで、なんとなく、察せてました」


 ああ、それは多分ミアが亡くなったからじゃないかと思った。ミアが亡くなってロゼは嫌な気持ちを隠し通す気力も失せてしまったんじゃないだろうか。


「だから、助けてあげたかった」


 フィリップは、だから、を重ねた。


「だから、俺は別にいいんです。彼女に嫌われていても。それでも、こんな地獄から彼女を救い出してあげたいんです」


 愛し合う以外の知らなかった男女の形を見せられて僕はなにも言えずにいた。フィリップは、愛されなくても、嫌われていても、それを受け入れて赦す、そしてこの地獄から連れ出すと言っているのだ。

 それは、娼館から娼婦を買い上げるという彼女たちをモノのように扱う行為ではあっても、尊いことのように思えた。


「お前……、漢だな」


 これまでと打って変わってプルート うちの人のフィリップへのきつい当たりは鳴りを潜めていて、その声には感心が籠っていた。プルート うちの人もフィリップを認めたようだ。


「そうであれたらいいんですけど」


 フィリップはプルート うちの人の言葉にはにかむように、けれどやっぱり自嘲するように寂しく笑った。

 

  ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 

 それからまた数日後。

 僕とロゼは娼婦御用達の街のお洋服屋さんにいた。

 ロゼにお洋服選びを手伝って欲しいと頼まれたのだ。

 ロゼに誘われて、お洋服を買いに来るのは初めてだった。

 この街はスラムだけれど、娼館がある。娼館があるということは派手な露出のお洋服が娼婦に、そしてそれを視界に収める男にも需要があった。

 煌びやかなドレスがラックに掛けられて、ずらりと並ぶ姿は絢爛で壮観だ。

 けれど、ロゼはいつも落ち着いた服を着ていたし、娼館ではそういう系統の娼婦として売っている。なんの心境の変化だろうか。


「ねぇねぇ、ハル君。これ似合うかな」


 見せられたお洋服はスパンコールがギラギラとついた露出の多い赤いドレスで、派手でびっくりとしてしまう。それこそ、娼婦が娼館で着るようなお洋服で、身請けを受けた人が嫁ぎ先で着るような服じゃないんじゃないだろうか。


「うーん、どうだろう。綺麗だけど、ロゼはいつも落ち着いた服が好きじゃない?」


 それとも、勝負服みたいなのが必要だったりするのだろうか。イメチェンでもしたいんだろうか。


「そっか、ハル君は好きじゃないか」


 ロゼはいそいそと服をラックに戻すと次は二つドレスを見せてきて、そのどちらも同じように煌びやかで派手な露出の多いドレスだ。


「ねぇ、どっちがいいかな?」

「どっちかっていうと、左……だけど、本当にそのお洋服いるの?」


 二択だから答えたけれど、ロゼに似合う気はしなかった。いや、ロゼのことだから綺麗に着こなせるとは思うんだけど……、なにかが引っ掛かる。


「なんで?」

「だって、身請けするなら娼館をやめるから、そんな派手なお洋服要らないんじゃないかなって」

「分かんないよ? パーティーとかあるかも」


 どうだろう。地主ってパーティーとかってするんだろうか。庶民なので想像がつかない。それに地主がパーティーをするのならもっと気品のあるドレスを着るべきで、ここみたいな娼婦向けのお店で買わなくてもいいんじゃないだろうか。

 思ったことをそのまま口にする。


「必要になった時に買う方がいいんじゃないかなぁ」

「かな。でも、無駄遣いってしてみたいんだよね」


 え? と思った。

 無邪気な言葉に聞こえたけれど、ロゼはそんな浪費をするような子ではなかったはずだった。


「ハル君はこのお店のお洋服好みじゃないみたいだから、買ってから選ぶことにするね」

「買ってから選ぶ……?」


 僕の疑問に答える前にロゼは店員さんを呼んだ。

 そして、ロゼは「ご試着ですか?」と尋ねる店員さんに向かって、


「店員さん。この棚のお洋服、全部ちょうだい!」


 僕はロゼの羽振りが良すぎて、またもや、びっくりとしてしまう。

 店員さんも目を丸くしている。

 僕は慌ててロゼに確認した。


「待って待って、お金大丈夫なの!?」

「ああ、うん、大丈夫。身請け人の相手からお金好きに使っていいって」


 ロゼはしれっと応えるけれど、好きに使っていいと言っても限度があるんじゃないだろうか。それに、多分、ロゼは本当にお洋服が欲しいわけじゃない気がした。だって、いつものロゼのお洋服の趣味と違う。ロゼは今だって品がいい落ち着いた服を綺麗に着こなしていた。

 僕は、「ごめんなさい。今のナシで!」と店員さんに謝って、ロゼの手を引いた。そのまま店の出口へ。


「ちょっと、ハル君! ハル君ってば!」


 ロゼが僕に声をかけているが、今は無視だ。

 頭を冷やさせないといけない。


「ん? もう出てきたのか? いい服なかったか?」


 店を出ると、事情を知らずに店の外で店の壁に腕組みしてもたれかかっていたプルート うちの人に呑気な声をかけられるが、僕は静かに首を横に振って通り過ぎる。横目でプルート うちの人が何かあったのかと腕組みを解くのが見えた。

 そうして店先まで来て、ようやく僕はロゼの手を離した。

 振り返ってみれば、ロゼは襟元をギュッと掴んで俯いている。そんなロゼに僕は話を切り出した。


「ロゼ、急にどうしちゃったの」

「急にって?」

「変だよ。派手なドレスを買おうとするのはともかく、棚の服全部頂戴なんて」


 そんなこと冗談でも言うような子じゃなかった。

 フィリップは、多分、ロゼがお金目当てなことが分かったから、お金を好きに使ってもいいよと言ったのだろう。けれど、だからってこんなのはあんまりじゃないだろうか。


「ロゼが稼いだお金じゃないんだから、もっと大事に使わなきゃダメだよ」


 お金は使い方を誤ったら、身を滅ぼしてしまうものだから。

 ロゼは友達だから、そんな風になって欲しくない一心だった。

 けれど、次の瞬間──。


「ハル君はカッコいい旦那さんがいるくせに正論言わないで!」


 激情が、迸った。

 ロゼは、僕がいままで聞いたことのないような声量で声をあげていた。

 そこで僕は気づいた。


「あ──」


 僕はやってしまったのだ。正論を振りかざしてしまった。

 街を往くサイボーグ達がロゼの声になんだなんだと僕達を見るが、プルート うちの人の姿を見た瞬間、勢いよく目を逸らしていく。プルート うちの人が街往く人達にこっち見るなと睨みを利かせてくれていた。ありがたい。

 けど、今はそんなことよりも、ロゼの事の方が大事だった。


「私って何か悪いの? だって、私の婚約者は地主の息子なんだよ? 生まれがよかっただけ、生まれてからなんにも努力してない! お金だけあって、娼婦の私に勝手に恋して、私は好きでもない男と結婚してやるの! それだけで十分じゃない! なら、私が財産使い潰してやるってだけ!」


 多分、ロゼは必死になっていたのだと思う。自己弁護のための言葉を並べて捲し立てていた。それほどまでに余裕がなかったのだと思う。


「いいじゃない! どうせあいつなんて私が結婚してやらなかったら誰とも結婚できなかったはずだよ? それともずっと私に娼婦をしろって?」


 そういうつもりじゃない。じゃないけれど。

 でも、僕はフィリップの気持ちも知っている。何か、フィリップのために言ってあげたかった。けど、言葉が見つからない。

 何も言葉を絞り出せない僕に向かうロゼの激情はまだ収まる気配はなかった。


「ミアも殺された、あの子はいい子だったのに……」


 ミア? なんでここでミアが出てくるんだろう?

 引っかかりを覚える僕にロゼはぶちまけた。


「ミアはちゃんと生きようとしてたじゃない! なんであの子が死ななきゃいけなかったの? 娼館で稼いで店の資金作ってて、私に夢を語ってくれて、私もいつかあの子の店に行くんだって。ハル君だって覚えてるでしょ? なんで私たちはただ産まれただけなのに親の借金のカタで売られて! 捨てられて! こんなクソみたいな世界で生きて! 殺されて! なのに、あいつはぬくぬく親の金で生きてる!」


 本当は、多分、こっちが本題なんじゃないかと思った。

 ミア。

 僕たちの共通の友人。

 殺されてしまったミアの開けた傷が、こんなにもロゼを苛んでいた。僕が平気なのは、きっと、プルート うちの人がいつも常にそばにいてくれるからだ。でも、ロゼにはプルート 絶対の味方がいない。

 一人で孤独なロゼに正論をぶつけても傷つけるだけだったのに。


「だったら、私は骨の髄までしゃぶり尽くしてやるって決めたの! 誰にも私を否定なんかさせない!」


 ロゼの切実さが迸っていた。それはロゼの心からの叫びだった。

 きっと、本来の趣味に合わない浪費はこの街への復讐でもあったのだ。

 僕は、もう何も言えなかった。何か言葉をかけてあげたいのに、何を言ったとしてもロゼを傷つけてしまうような気がした。

 ロゼの痛みに寄り添いたいのに。

 けれど、それでも、一つだけ、これだけは言わなきゃいけないと思った。


「……ロゼ、せめてロゼが本当に欲しいって思うものだけ買うようにしなよ」


 本当は欲しくないものを買っても、きっと心は満たされないから。


「……うん」


 僕の言葉は届いたんだろうか。ロゼは力無く頷いた。


「私、もう帰るね」

「送るよ」

「ううん、いい」


 それは拒絶の言葉だった。もしかすると、この前の時も同伴するというのは建前だったのかもしれない。

 ロゼは一人、お買い物だったっていうのに、一つも戦利品を持たずに帰っていった。


「やっちまったな」


 僕とロゼのやり取りを遠巻きから見ていたであろうプルート うちの人がいつの間にやら傍にいて僕の肩をポンと叩いた。その声音はいつもより優しい。


「やっちゃいました」


 僕からロゼに言っていい言葉はそんなに多くないのに、正しさをぶつけたってしょうがないのに、ロゼの気持ちを考えずにやってしまった。


「ま、しょうがねぇよ」


 ……しょうがないのかな。どうなんだろう。

 ロゼの小さくなっていく背中を見ながら僕は口にする。


「アレでいいんですかね」

「さあな」


 僕の言葉に、プルート うちの人は肩をすくめてみせる。


「まあでも、お互い割り切ってんならいいんじゃねえの? 愛してなくても金のために結婚して、金目当てだって分かってても身受けして愛する女と一緒にいれて、誰も不幸になってねえし、この町ではハッピーエンドだろ」


 確かに、と思った。

 この街で死ぬ以外の結末を迎えられたのならそれは上出来と言っていいはずだった。

 それに、二人の関係は大人な関係の在り方でもあって、二人がそれを選んだのなら他から文句をつけられる謂れはない。

 けれども、僕にはやっぱり引っかかる。


「ロゼはいつか気付きますかね?」


 フィリップが全てを分かって受け入れていることに。

 彼のロゼを想うその気持ちが報われて欲しいなとも思う。


「さあ? でもよ。あの野郎に取っちゃどっちでもいいんじゃねえか? 気付かれても、気付かれなくても」


 それが本当だとするなら、お互い想い合っている僕達なんかよりも余程愛していることになるんじゃないだろうか。

 見返りを求めないそれは──、


「純愛だな」


 そうに違いなかった。

 

  ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 

 ロゼとフィリップが娼館から出発する日になった。

 僕とプルート うちの人はあんな事があったけれど、見送りに来ていた。

 だって、友達だから。

 娼館の前に車がやってきていた。こういうのは高級車なんじゃないかと思うけれど、このスラムでは高級車だと襲撃されるからか、ある程度頑丈そうで整備がしっかりされている、極東製の車だった。

 これがロゼのカボチャの馬車かと思っていると、娼館の支配人に先導され、フィリップとロゼが娼館の入り口の階段を降りて来ていた。ロゼが僕とプルート うちの人に気づいて駆け寄ってくる。


「ロゼ」

「ハル君」

「この前はごめん」

「ううん、私もごめん」


 僕達はお互いに謝りあっていた。

 僕が謝るのは分かるけど、ロゼはどういった心境の変化なんだろう。


「正直、今もハル君にムカついてるとこある。カッコいい旦那さんに守られてるくせにって」


 さすがにプルート うちの人もこの時は前のように「旦那じゃない」とは口に挟まなかった。

 ロゼは、続ける。


「でも、ハル君が心配してくれたりした気持ちは間違ってないし、それに今日が最後だから。最後だから、ハル君とは笑ってお別れしたい。一緒にミアのこと悲しんでくれてありがとう」


 そうだった。僕達にはもう時間がないのだ。ロゼは、この街を出て行くし、決してこの街に戻るべきではない。

 だから、今日が今生の別れなのだ。


「だから、いいよ。叱ってくれてありがと」


 ゆっくり仲直りする時間もないままに、お別れの時間が強制的に僕達の仲を取り持っていた。


「じゃあ、行ってくるね。この街を離れてもハル君とミアのことはきっとずっと覚えてるよ」


 ロゼはそう僕に言い残して、車に乗り込む。フィリップも僕とプルート うちの人に頭を下げてからそれに続いた。

 車のドアがバタンと閉まって、エンジンがかかり出す。

 なにかを言わなきゃいけないのに、僕はロゼの言葉に頷くばかりで言葉が見つからなかった。

 お別れなのに。

 けれど、そう思った時にはもう車は走り出していて、それと同時に体が勝手に動いて走り出していた。

 僕の足は二人を乗せた車を追いかける。追いつけるわけなんかない。

 でも、それでも。

 自分を傷つけるように笑う二人が幸せになれないなんて、そんなの嫌だった。

 誰かを平気で傷つけるような奴より、誰かを傷つけてしまったと自分を傷つけるような寂しい生き方をする、そんな優しい人達に幸せになってもらいたかった。


「二人とも! 絶対幸せになって!」


 走りながら、あらん限り声を張り上げる。車内に届くかは、分からない。でも、きっと届くように、少しでも大きく。恥も外聞もどうでも良かった。

 二人の幸福以外、今はどうでも良かった。

 別に無理に愛しあわなくたっていい、それぞれの幸福の形を見つけて欲しかった。

 車の後部座席の窓から覗く二つの頭が振り返ってビックリしたような顔をして、二人は顔を見合わせた。それから柔らかくゆっくりと微笑んで僕に向かって頷いた。その微笑みがどういう意味なのかは僕には明確には分からない。分からないけれど、きっと自分を傷つけるだけの自嘲する笑みよりはよほどいいものだと僕は思いたかった。

 車はそしてどんどんとスピードを上げて、その姿を小さくしていった。


「行っちまったな」


 急に走り出した僕を追いかけてきたプルート うちの人は僕と違って息を荒げていない。やっぱり元とは言え軍人は鍛え方が違う。


「ええ」


 もう車の姿は霞んでどこにも見当たらない。

 ロゼは無事にこの地獄から脱出してのけたのだ。

 少しの間、プルート うちの人は僕が息を整えるまでの間、黙ってじっと車が去って行った方を眺めていた。

 なにかプルート うちの人にも思うところがあるんだろうか。

 と思えば、口を開いた。


「お前も司令官と一緒にどっか別の場所に──」


 この人はいつもこんなことを折につけて言う。司令官さんのことはいずれ話す機会があるのでその時に話すとして。

 プルート うちの人の言葉に応える必要があった。けれど、答えはとっくのとうに決まってる。

 司令官さんを選ぶことはこの人を選ばないことだから。

 だから、


「僕は貴方がいないハッピーエンドより、貴方といるバッドエンドがいいです」


 いつものように返し歌を詠むように、心からの想いを述べる。


「言ってろ」


 僕の言葉にプルート うちの人は不機嫌そうにそっぽを向いた。

 けれど、僕はこの人のことをよく知っている。

 プルート うちの人は照れ屋なのだ。

 ロゼに旦那さんと呼ばれるのを恥ずかしがるくらいに。

 そして、僕とプルート うちの人は二人肩を並べて帰路に着いたのだった。

 

 ────Happy ending.

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