第2章 22話 復活
静かな病室に、機械の駆動音だけが響いていた。ポッドの中で眠っていたナナ=ルルフェンズの指先が、わずかに動く。そして、ゆっくりと彼女の瞳が開かれた。彼女の視界に最初に飛び込んできたのは、無機質な天井と、自分の体に繋がれた無数のチューブだった。記憶が途切れ途切れに蘇る。反乱軍のエースパイロット、そして近衛兵団との激闘。
それ以後の記憶は続かなかった。ヨワルテポストリの状態はどうなったのだろうか。まだ、頭痛がする。体を動かそうにも腕があがらないせいで目を擦ることもできない。ただ、自分自身が目覚めたことでそのデータが反映される。デジタルの時計は深夜を示している。
軍医をそんなに大勢、抱えているわけではないためにどこかで休んでいるのだろうか。だんだんと頭がクリアになるにつれて、血の匂いも蘇ってくる。ナナは、その匂いが自分の体から発しているものではないことを理解した。それは、彼女が暴走し、敵を殲滅した際に浴びた、無数の血の匂いだった。その記憶が、彼女の脳内で鮮明に蘇る。
「准将、お目覚めですか。精神の安定を確認次第、器具を外しますね」
声のしたほうに目を向けると、軍医とスガリがそこに立っていた。スガリは、ナナのポッドの隣に座り、脳波データが映し出されたモニターをじっと見つめている。彼の顔には、安堵と、そして深い疲労の色が浮かんでいた。多分、苦労をかけたのだろう。申し訳なく思う。
「スガリ……」
ナナは、掠れた声で彼の名前を呼んだ。その声は、まるで何年も話していなかったかのように、掠れて、弱々しい響きだった。まだ完全に覚醒していない身体から、かろうじて絞り出されたその音は、彼女はただ求めていた。彼女の意識は、まだ朦朧としたまま、ただスガリの存在だけを確かめようとしていた。
「ラズロは、レインレールはどうなった?」
ナナの問いかけに、スガリは静かに答える。安心するにはやっぱり戦果を気にするのは、あまりにも軍人に染まりすぎている気もするせいで、スガリは悲しくもなりながらも笑いそうにもなっていた。
「作戦は成功したよ。レインレールは帝国が占領下に置いた。今は木星に戻っている途中だよ。航行はとても安定している」
スガリの言葉に、ナナは静かに目を閉じた。よく自信家と言われるナナだが、作戦に自信はない。あまりにも細い糸の上を歩いているとわかっているし、それでスガリやリノには多くの苦労をかけている。
ただ、嘘でも自信のない相手の命令で死んでいくなんてそんな命が存在していいわけじゃない。戦地で死ぬために生まれてきた命ではないというのは前提で、それでも満足して死ねないのは悲劇的だ。
「ありがとう、スガリ。大変な指示だったのにね」
ナナは火星での戦闘が始まる直前に、スガリとリノには全てのルートを説明していた。順当にいけば勝利で終わるはずの戦線でも、保険をかけるために近衛兵団が反乱軍に敗れる場合のことまで考えておいた。その状態でも、自分たちの利益につながるルートを確保していた。彼女の策謀は、常に複数の道を同時に見据え、どんな結末にも対応できるよう、幾重にも張り巡らされた網のようだった。
「帝国にはこちらから勝手に報告をあげておいたよ。あの様子なら少なくとも電話口の相手は俺のことを疑ってはいない。まあ、軍にリノがあげた報告書よりはよほど正確だが、それでも嘘があるのにな」
スガリの言葉には、ナナの策謀を理解している者だけが持つ、苦い笑いが含まれていた。彼は、ナナが事前に三枚の報告書を作成するように指示を出していたことを知っている。帝国の軍に提出する正規のもの、そしてスガリに任せたエンデヴァー元帥への直通の報告、そしてもう一枚は、最も重要な相手へと真っ先に提出しておいた。
「評議会議員のアールダイはなんて?」
ナナの問いに、スガリはかすかに口角を上げた。ナナの頭の回転の速さには、いつも感心させられる。彼女はすでに、次の手を打っていた。
「アールダイ評議員は、リノの報告書を読んですぐに意図を理解したらしい。やはり曲者だという噂は本当みたいだな。すぐにこちらの目的が評議会に案件を持ち込むことだと察知して、それを交渉材料にいろいろと言われたよ。無理難題ってわけじゃあないけど、面倒だな」
この火星戦闘において、最も複雑な問題は、中将が殺害されたことの責任の所在だった。一部のノーチラス乗組員が、ナナの作戦が中将の死に繋がったことに感づいているかもしれない。もしこれが正式に認められれば、ナナは反逆罪で死刑は免れない。皇帝から形式上とはいえ近衛兵団の指揮権を委譲された相手に、このような策を弄したのは、帝国にとって極めて不都合な真実だった。
だからこそ、ナナはそれを正式に認めさせる可能性を減らすために、この案件を軍法会議ではなく、評議会のテーブルへとあげたのだ。軍上層部の恣意的な判断に委ねることは、ナナにとって最も危険な選択だった。中将の殺害疑惑は、評議会が最終的な決断を下すべき重大案件であり、彼女が行ったこと自体は、形式上も正当な手順を踏んでいた。
そして、現在の評議会がこの案件に対してナナを反逆罪として死刑にするかは、まさに五分五分といったところだった。ナナの養父とのつながりや、彼女が掲げるイデオロギーに共鳴する評議員が四人。九人体制の評議会の意志を決定するためには、五人の票が必要となる。その一票の行方が、ナナの運命を左右する。彼女は、その一票をアールダイに出させる。そのために彼を動かすための切り札を、既に手中に収めていた。
「ただ、そんな奴でもさすがに戦場を完璧に把握しているわけではないらしいな。いや、知っていてあえて泳がせているのかもしれないがNumberシリーズについては何も聞かれなかったよ」
スガリの声には、わずかな安堵が混じっていた。この火星での戦闘の真の目的の一つは、中将の死の混乱に乗じて、Numberシリーズの確保を隠蔽することにあった。この件は、事前に作成された三枚の報告書のどれにも、一切記載されていなかった。ナナの策謀は、帝国のどの組織にも、その全貌を把握させないように張り巡らされていたのだ。
確保したNumberシリーズの一機であるNumber9と、調査により判明した機体名、フランメル、ポーモーナル、シヴァラーク。それぞれのアンドロマキアは現在はレグルスを始めとしてナナの信頼した人物のみが乗る艦に載せている。まあ、この三機は軍に回収されてもいい。
ただ、Numberシリーズの機体は兵器としても交渉材料としてもすぐれているため、軍に歯向かってでも手元に置いておきたい。戦争終結の鍵になってくれるはずだと信じているから。
「そう、安心したわ」
ナナはそれだけ言って、一旦は目を閉じた。だが、安堵の表情はすぐに消え去る。彼女には、目を背けてはならない、重い現実があった。直接手を下したわけではない。しかし、彼女の策謀が、十万の命を犠牲にした。その事実を、深く噛み締めなければならない。
「この戦闘での戦死者は?」
ナナの静かな問いかけに、スガリは言葉を詰まらせた。彼の顔から、安堵の色が消え、深い悲しみが浮かぶ。スガリは言葉を詰まらせた。彼の顔から、先ほどの安堵の色は完全に消え去り、深い悲しみが浮かぶ。彼は、ナナがこの質問をすることはわかっていた。そして、彼女がその答えを求めることも。
傷つけるとわかっていても、それを答えずにいられなかった。その数字は、ナナの作戦が引き起こした、悲劇の代償だった。スガリは、その数字を口にすることで、ナナの心の傷をさらに深くえぐってしまうだろう。しかし、彼は、ナナの正義が、どれほどの代償を伴うか、彼女自身が一番知るべきだと理解していた。
「……レグルス乗員、近衛兵団、ノーチラス乗組員を含めて、十万与人。反乱軍では若干、この数字が大きくなるだろう」
スガリの声が、微かに震えていた。その数字は、ナナの作戦が引き起こした、悲劇の代償だった。ナナは、その数字を聞いて、静かに目を閉じた。彼女の脳裏には、無数の悲鳴と、血の匂いが蘇る。それは、彼女の命令が作り出した、おびただしい死の光景だった。
旧式戦艦ソーントンを墜落させるのは、苦肉の策ではあった。だが、それ以外の選択肢は、もはや残されていなかった。火星の防衛網を速攻で突破しなければ、戦火が全域に広がり、無辜の市民が犠牲になる可能性があった。そのために、ナナは敢えて、最も非情な手段を選んだ。
ソーントンが墜落した際には、相当な爆発が起こった。その爆発の圏内にいた敵軍は、考える間もなく、一瞬にして蒸発しただろう。彼らに、悲鳴を上げる暇さえ与えなかった。
「そう……」
ナナはそれを聞いて、やはり恐ろしくなる。いったい、どれほどの人がこの戦闘を悲しむのだろうかと思うと、いたたまれない。その瞬間にポッドが開いた。これまでの心細さも相まって、ナナはスガリにそのままで抱き着いた。
生まれたままの姿に、スガリの軍服は固すぎる。硬質な生地は、彼女の裸の肌に冷たく、その感触はナナの恐怖を際立たせた。しかし、その冷たい軍服の下に感じるスガリの体温だけが、彼女を現実へと繋ぎ止める唯一のものだった。十万という数字の重みが、二人の間を支配する。ナナは、それにすがりつくように、スガリの胸に顔を埋めた。
「大丈夫だよ、ナナ。お前は何も間違っていない」
スガリの声は、いつもと同じく静かだった。だが、その言葉には、ナナを否定することなく、彼女の重荷を共に背負うという、強い意志が込められていた。ナナの背中を、スガリの手が優しく撫でる。その温かさが、ナナの心を少しだけ軽くした。
「私は……たくさんの命を犠牲にした」
ナナは、震える声で呟いた。彼女の信じる正義が、十万を超える命の犠牲の上に築かれたことを、彼女自身が一番理解していた。その重圧は、彼女の体を、そして心を押しつぶそうとしていた。
「彼らの死は、決して無駄にはならないよ。無駄にしちゃいけない。その人たちが夢見たはずの平和な世界を、太陽系を作らなくちゃいけない。その人たちに報いるためにも」
スガリは、ナナを抱きしめたまま、静かに語りかける。彼の声は、まるで揺るぎない錨のように、ナナの心を安心させた。絶対的に信頼できる。そんな相手はナナにとってはスガリだけだった。彼は決して裏切らないという確信が、ナナの心に安息をもたらした。
そして、それはスガリも同じだった。自分が役者だというのはよくわかった。エンデヴァーの側近に報告を上げているときは笑いそうになったが、それでもナナのために働こうと思うと気が引きしまった。
スガリは、深く深くナナを愛している。
それはきっと、世間一般で言われるではないけれども。目の前で泣きそうな顔で自分の胸に顔をうずめている少女が愛おしくてたまらない。彼女の狂気も、彼女の正義も、彼女の弱さも、すべてを包み込みたいと思った。
「大丈夫だよ、ナナ。お前は何も間違っていない」
スガリの声は、いつもと同じく静かだった。だが、その言葉には、ナナを否定することなく、彼女の重荷を共に背負うという、強い意志が込められていた。ナナの背中を、スガリの手が優しく撫でる。その温かさが、彼女の心を少しだけ軽くした。
「はいはい、いちゃいちゃするのは構わないけど先にメディカルチェックさせてくださいね。准将、まずは服をきて」
呆れたような声が、二人の間に割って入った。振り返ると、軍医が腕を組み、冷ややかな視線を送っている。その横には、新しい軍服がきちんと畳んで置かれていた。ナナは、恥ずかしさで顔を赤らめ、慌ててスガリから離れた。顔だけでなく、少しだけ白い体も熱い。
「いちゃいちゃって、そんなことしないよ。それに、邪魔になりそうだからそろそろ出ていくよ。ナナ、無理はしなくてもいい。別に木星へ戻るまでは特にお前無しでもやれる。だからゆっくり休んでくれ」
スガリはそう言いながら病室のドアに手をかけた。特に必要ではないが、艦橋に戻ろうかと考える。もう少し、ナナと一緒にいたい気持ちはあったけれどもそれは今じゃない。きっと、平和になった後で二人ゆっくりと過ごせるようになるはずだ。それまでは止まってはいけない。
「じゃあな」
「うん、じゃあね」
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