第2章 14話 美学
「ナナ准将の乗るヨワルテポストリが大気圏に突入しました! 機体の挙動は極めて不安定です!」
レグルスの艦橋に、切迫した報告が響き渡った。その声が伝える事実は、ジガルシアにとって分かりきったことであった。彼女は、ナナの無謀極まる行動に絶句していた。ヨワルテポストリが満身創痍であることは、艦隊の全クルーが知るところだ。宇宙空間での激烈な戦闘、フォボスからの集中砲火を一手に引き受けたその機体は、多重シールドが完全に崩壊し、骨組みが露出していた。もはやあのアンドロマキアに強みなど残されていない。戦闘機ですら大破するような過酷な状況で、あの巨大な機体を火星の重力圏に突入させるなど、自殺行為に等しい。
これまで第九艦隊が遂行してきたアマテラス作戦は、完璧なまでに順調であった。この火星戦闘の肝は、旧式の戦艦ソーントンを敵の防衛システムの中核を担う司令塔にぶつけ、大破させることにあった。その目的は、地上の防衛網を無力化し、ジガルシアたち第九艦隊が火星を制圧するための道を開くことだった。しかし、ラズロ=グリフが築き上げた敵の防衛網は、想定をはるかに上回るほどの厚さであった。
「くそ、もう一機のアンドロマキアがあれば……」
ジガルシアは悔しげに唇を噛みしめて呟いた。もし、もう一機の主力機であるフェノメノウが万全であれば、リノを火星圏へ送り込み、ナナ准将を援護できたはずだ。勝利に必要かはわからなかったが、仲間を守るための確実な一手になっただろう。しかし、第九艦隊が使える戦力は限られていた。手持ちのカードを最大限に活用してもなお、自分たちの求めるものが全て手に入るかはわからない。
レグルスの艦橋の時間表示は、第九艦隊が火星圏へと突入してから二百五十秒が経過したことを示していた。ノーチラスの先端は、すでに火星の空へと突入しようとしていた。火星から放たれる複数の砲撃がノーチラスのシールドに着弾し、爆発を繰り返す。それでもノーチラスは、その巨体を怯むことなく、まっすぐに侵攻していく。
ジガルシアの心は、焦燥と怒りに燃え上がっていた。彼女はモニターに映る火星の空を見据え、ナナの無謀な行動を見守ることしかできない自分の無力さを痛感していた。どうすればいいか考えても、もはや有効な手は見つからない。
ナナに指示を仰ごうにも、最後に聞こえた声は怒りしか含んでおらず、とてもではないが冷静とは言えない状態だった。しかし、今の自分もそんな状態のナナ=ルルフェンズという存在を越える判断ができずにいる。どう動けばいいか、それだけを考える。
「ノーチラスがついに火星圏へ突入しました。アンドロマキアが次々と投入されていきます。このままでは火星が沈みます!」
この報告は、ジガルシアの胸中に、作戦の最終段階、そしてタイムリミットを告げる非情な宣告として響いた。ノーチラスの腹部に格納されていた第九艦隊のアンドロマキアたちが、まるで鉄の雨のように次々と射出されていく。火星の赤い空に一筋の軌跡を残し、地上の激戦区へと降下していくその姿は、勝利を確信しているかのように勇ましい。一糸乱れぬ行軍が、機体制御能力の高さを物語っている。
ジガルシアは、艦橋の指揮官席に座り、冷静に指示を下す。このタイミングで決断しなければ何も決められないだろうという自分への理解があった。彼女の戦場は、このノーチラスの艦橋であり、艦隊を指揮することこそが最大の任務だった。全艦に個別の指示を送り、戦況をリアルタイムで把握しながら、最善の策を模索する。
「我々はもう、引き返せない。ナナ准将の決意を無駄にしないために、我々がこの戦いを終わらせる。残った戦力は、我々の艦隊のみだ」
ジガルシアの声が、全艦隊に響き渡った。その言葉には迷いは一切ない。ただ勝利への確固たる意志と、仲間への揺るぎない信頼が込められていた。ノーチラスが火星の大気圏を突き破り、地上へと降下していく。赤い大地が迫り、遠くにはオースティンとナナの激闘の痕跡が見えていた。第九艦隊のアンドロマキアの群れが、火星の空を支配し、戦況は新たな局面へと突入していく。
ジガルシアは、冷徹な判断力でモニターを見つめ続けた。彼女の心には、勝利への確信と、ナナへの思いが交錯していた。彼女は全てを背負い、火星の地での総力戦に挑もうとしていた。
火星の空は、反乱軍のエースパイロット、オースティンの独壇場と化していた。彼は漆黒の機体、ウォルフライエを駆り、単機で近衛兵団のアンドロマキアの群れへと突撃する。その圧倒的な技量は、まるで黒い弾丸のように迫り来る敵機を次々と撃墜し、近衛兵団のパイロットたちは、彼の超人的な操縦にただ驚愕するしかなかった。
オースティンの視界には、近衛兵団の乗る帝国最新鋭の強襲揚陸艦、ノーチラスが映し出されていた。彼の胸に、戦士としての高揚感が沸き上がる。この巨大な艦を単機で沈めることは、彼の強さを証明する最も美しい偉業となるだろうと、抑えきれない高揚を感じていた。
「帝国近衛兵団、貴様を倒すことが、この戦いの終わりだ!」
オースティンがそう心の中で叫び、ノーチラスに肉薄しようとしたその時だった。
火星の空が一瞬、白く染まった。
オースティンのウォルフライエのセンサーが、異常な熱源を捉えた。それは落下する、燃え盛る巨大な物体であった。その熱源は、オースティンの予測を大きく超える速度で降下してくる。彼は咄嗟に機体を横に滑らせる。直後、彼のいた空間を、ボロボロに損傷した巨大な機体が掠めていった。多重シールドは跡形もなく、装甲は無残に剥がれ落ち、機体の各所から火花を散らしている。
それは、ナナが操るヨワルテポストリであった。
「ヨワルテポストリ……なぜ、ここに!?」
オースティンの冷徹な声に、僅かな動揺が混じった。ヨワルテポストリは火星軌道上でフォボスの集中砲火を受け止め、大破したはずだ。ナナが無事に地上に降り立つなど、ラズロもオースティンも想定していなかった。
ナナのヨワルテポストリは、オースティンの眼前で瓦礫を巻き上げながら、荒々しく着地した。機体から噴き出す蒸気と火花が、彼女の決意を物語っている。瓦礫の山の中で、ヨワルテポストリは怒りに燃える、巨大な鉄の塊のように見えた。
コックピットから、ナナの声が通信機を通して響く。
「あなたがスガリを倒したのね」
その声は、かつての冷静沈着な指揮官のものではなく、怒りと憎悪が凝縮された刃のようだった。ナナの心は、スガリがオースティンによって無力化されたことを知っていた。平和を守るため、犠牲を最小限にするために戦ってきた彼女にとって、大切な仲間が傷つけられたことは何よりも許しがたいことだった。
オースティンの冷徹な視線と、ナナの燃えるような怒りの視線が交錯する。片方は戦士としての美学を貫く者。もう片方は平和を守るために盾となった者。そして、仲間の命が危機に晒された怒りを胸に宿した者。
「ああ、いかにも。帝国軍准将ナナ=ルルフェンズ」
「叩き潰してやるわ。覚悟しなさい」
ナナの操るヨワルテポストリは、オースティンのウォルフライエの眼前で、瓦礫を巻き上げながら荒々しく着地した。その巨体は、宇宙での激戦と大気圏突入の過酷な摩擦によって、見るも無残な姿となっていた。多重シールドは跡形もなく消え失せ、装甲は剥がれ落ち、各所から火花と蒸気が噴き出している。
その満身創痍の機体から、ナナは最後の武器を手に取った。それは、ヨワルテポストリに唯一残されていたビームサーベルであった。
半壊したヨワルテポストリが、その巨大な右腕を動かす。関節部から軋みが響き、シリンダーが悲鳴を上げる。しかし、その動きには、確かな意志と怒りが込められていた。そして、その右手に握られたビームサーベルが、起動する。
唸りを上げて生成された青白い光の刃が、火星の赤い大地と薄暗い空を照らし出す。その神聖で暴力的な光は、平和を守るために作られた機体が、仲間の命が危機に晒された怒りを胸に、破壊の力を振るおうとしていることを物語っていた。
オースティンの冷徹な視線と、ナナの燃え盛る怒りが交錯する。
「スガリを……私の大切な仲間を傷つけた。あなたには償ってもらうわ」
ナナの声が通信機を通して響く。その声には、悲しみや後悔は一切なく、ただ純粋な怒りが込められていた。彼女は、平和のためではない。仲間のために、今、刃を振るおうとしていた。
ビームサーベルの光が揺らめく。それは、ナナの心の激しい怒りを表しているようにも見えた。
ジガルシアが率いる第九艦隊が、火星の空を支配し始めた。ノーチラスから射出されたアンドロマキアたちは、ノーチラスからの的確な指示に従い、蜘蛛の巣のように広がる敵の有人防衛ユニットを次々と撃破していく。ラズロの計算を遥かに上回る速度で第九艦隊が展開し、地上防衛線は徐々にその勢力を失いつつあった。
「司令官、第九艦隊の主力が降下してきました。このままでは防衛線が崩壊します!」
地下指令室のラズロは、モニターに映る光景を睨みつけながら、奥歯を噛みしめた。スガリのトランジスタ、そしてナナのヨワルテポストリ……。ここまでオースティンが足止めをされるとは予期していなかったラズロの作戦は、根本から崩れ去ろうとしていた。
「オースティンは何をしている?」
ラズロの叫びは、通信機を通してオースティンの耳に届いた。しかし、オースティンは応えることなく、目の前に立つヨワルテポストリを見据えていた。その巨体はボロボロでありながら、まるで、不死鳥が燃え盛るかのように威厳を放っている。
「戦士として、貴女と戦うことを誇りに思う。だが、私の信念をかけて、貴女を倒す」
オースティンは自機の全武装を起動させた。ビームライフル、ミサイルランチャー、そして高出力ビームダガー。ウォルフライエの全身から放たれる、凄まじいエネルギーが大気を震わせる。
「それは、私も同じよ。平和を守るため、あなたを止める」
ナナのヨワルテポストリは、損傷した機体から火花を散らしながら、その巨体を構えた。本来の用途である防御を捨て、戦闘態勢に入ったその姿は、まさに戦闘機であった。
二人のエースの戦闘が始まった。オースティンのウォルフライエは、火星の赤い大地を蹴り、音速を超える速度でナナに迫る。ナナのヨワルテポストリは、重い機体を巧みに操り、オースティンの猛攻を紙一重でかわしていく。ウォルフライエの動きには無駄がなく、まるで鍛え上げられた人間のように最短距離で攻撃を繰り返してナナのヨワルテポストリに反撃のタイミングを与えない。しかし、それを予測して的確にナナは交わしていく。適度に放たれるレーザー砲にはビームサーベルで地面を叩き、吹きあがった瓦礫をぶつけて対応する。
その戦いは、技量の応酬であった。オースティンの完璧な攻撃を、ナナは長年の経験と直感でいなしていく。ビームが交錯し、ミサイルが炸裂するたびに、火星の大地は轟音と爆炎に包まれた。
その激闘のさなか、瓦礫に身を潜めていたスガリは、自らの無力さを噛みしめていた。ナナとオースティンの戦いは、彼の想像を遥かに超えた次元であった。彼は、ナナを助けることすらできない。ただ、壊れたトランジスタの中で、二人の戦いを見守ることしかできなかった。そんな自分が情けなく、悔しかった。
「スガリ曹長!」
スガリの通信機から、ジガルシアの声が聞こえてきた。
「聞こえていますか? 全機、ナナ准将の援護を最優先とせよ! 敵の主力機を排除し、ナナ准将を守り抜け! レグルスはトランジスタを回収する」
ジガルシアの声は、戦場全体に響き渡った。彼女は艦橋で、全てを背負い、仲間を導いている。その声に、スガリの心に再び、希望の光が灯った。絶望と無力感に囚われていたスガリの意識が、一気に現実へと引き戻される。そうだ、まだやるべきことは残っている。探査機を見ると、どうやらトラベスは上手く住民たちを避難させているみたいだ。なら存分に戦える。
スガリはナナがオースティンを倒すことは確信していた。なら、あとは近衛兵団を止めるためのカードと、火星の防衛システムを構築して今も近衛兵団と戦う火星防衛の本隊を止めるためのカード。この二枚が必要だ。今の自分にそのカードを見つけ出すことはできるだろうか。血がだらだらと流れていく中で、ぼんやりとする思考の中で一つのアイデアが浮かんだ。ただ、それはナナの思想に反する者だろう。
「リノ、聞こえるか!」
しかし、それをして後でナナに何と言われようとも、仮に遠ざけられるようなことになったとしても自分がやるべきだと思った。この戦場をできるだけ平和に、犠牲を少なく解決するために、命を選ぶことにした。
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