幕間
幕間:いつかの未来。
これは、僕とハティが自身の運命とケリをつけられた後のこと。
「おかえりなさい」
「はい、ただいまです」
いつものようにハティが朝の剣の鍛錬を終えて庭から戻ってくる。
こっそり鍛錬の様子を窓から見ていたのだけれど、鍛錬を終えて、朝の日差しを浴びながら、濡れた布で体を吹き上げていたハティはやはりカッコいいのだなあと思う。布で体を拭うたびに毛皮に包まれたその体の筋肉のあちこちが隆起するのだった。
もう人殺しをしなくていいハティが、血を洗い流していることを不思議がられないように僕にお風呂好きをアピールする必要は無くなったからか、ハティがお風呂に入っている機会はかなり減った。とは言え、相変わらず、僕と一緒にお風呂に入りたがる人なのだけれど。
これも以前とは違うことで。
僕はこういった日々の変化から戦いは終わったんだなと実感する。
僕はぼんやりとハティを眺めていると、ふと、思い当たる。
「君はいつも背がピシッとしてるよね」
ハティはいつも真っ直ぐに凛と背を伸ばして、その立ち振る舞いは流麗なるもので、その所作の一つ一つはいつだって美しいなと思う。
「ああ、マーニ様の従者でしたからね。騎士の姿勢がきちんとしていなければ、主君も軽く見られてしまうものですから」
ハティは事もなげに言うのだが、いつもいつも気を張っているのは大変なんじゃないかと思う。
「でも、疲れない?」
「慣れれば、疲れませんよ」
「そういうものなのかな」
僕なんかは、姿勢を保たずに椅子に座っているだけでも疲れて、すぐ、だらけた姿勢をとってしまうというのに。
「マーニ様はよく本をお読みになられますからあまり姿勢はよくありませんね」
ハティの指摘に、僕は、「う」と思った。
ハティのおっしゃる通り、僕は今だって猫背でソファにくつろいで本を読んでいた。それだけならまだしも、ハティは主君が軽く見られてしまうから、と、いつもきちんとしてくれていたと言うのに。
面目ない……。
「ご、ごめん。君が僕のためにしっかりしてくれてたのに」
「いいえ」
ハティは、気にしない素振りでゆっくりと首を横に振った。
けれど、ハティが気にしなくても、僕が気にするのだ。
僕はいけないいけない、と、姿勢を正して、本を読んでいた姿勢を正す。けれど、次第に腰が辛くなって、背が丸くなってしまう。
正す。丸くなる。正す。丸くなる。
そんなことを短時間で繰り返していたら、ハティが見兼ねたのか声をかけてくれる。
「気になさるのでしたら……一度、きちんとした姿勢の取り方をやってみましょうか」
「うん、そうだね」
「はい、背筋を伸ばして」
「こう?」
言われた通りに『背筋を伸ばして』みる。
けれど、ハティからすぐにダメ出しが入る。
「いいえ、それは反り腰にしているだけです」
「え?」
背筋を伸ばしていると思っていたのだが、どうやら違うのらしい。けど、他に『背筋の伸ばし方』を僕は知らなかった。
僕が戸惑っていると、ハティはマズルの先に手を当てて考え込んだ。
「ふむ、マーニ様は運動音痴ですものね。背筋を伸ばすじゃ分かりませんか……」
「ハティさん!?」
僕は思わず、驚愕の声を上げた。
ハティはいきなり声をあげた僕に向かってキョトンとしている。
「なんでしょう」
「僕のことそういう風に思ってたの……?」
ポロッと溢れ出た『運動音痴』という単語に、ハティの本音が見えていた。
そうか、僕は、ハティに運動音痴と思われていたのか……。
ハティはやっと思い当たったのか「あ……」と口を押さえた。
「あ……、失敬。ですが、幼い頃より病床に着いてたのですから詮なきことですよ」
「もう……」
ハティは今更になって、フォローを入れてくれるが、もう遅い。
まあ、気にしていてもしょうがない。
実際、僕は運動音痴なのだから。……今度、ハティにそっちの方も何かしら指導してもらおうかな……。
気を取り直して、ハティに姿勢の正し方を教えてもらう。
「では、頭から背中に一本の紐を通すイメージをしてください」
「紐……」
言われた通りに頭の中で一本の紐を思い浮かべる。
これを背骨だと思えばいいのかな?
「それをピンと張ったまま上に引っ張り上げる感じです」
「こう?」
言われた通りにやってみる。
これまでと違って、頭の位置が普段より高い気がする。
「ええ、そして、胸を張ってみてください」
「できてる、かな」
丸まっていた背が、急に後ろに引っ張られて、慣れない動作に少し痛むけれど、なんとか胸を張る。
ハティは頷いてくれる。
「ええ、それが『背筋を伸ばす』です」
「なるほど……」
確かに、さっきまでの反り腰というのは、腰を前に引っ張っているだけで、背中になんら作用していなかったのだなということがわかる。
今は、胸が開いて、心なしか背中が伸びていて気持ちがいい気がする。
これが『背筋を伸ばす』なのか。
その言葉の意味を体で実感して感心していると、ハティが「よくできました」の代わりか、小さく拍手をしてくれる。
背筋を伸ばしただけで褒めてもらえるなんて、とも思うが、やっぱり好きな人から褒められると嬉しい。僕はちょっと照れてはにかんだ。
「中々、背筋を伸ばす、一つとってもそれだけじゃ分からないものですよね」
「ハティは言語化上手いね」
これまでわざわざ背筋の伸ばし方なんて誰も説明なんかしてくれなかったもので、みんな当たり前のように使う言葉だけれど。それを言語化できるのはハティ独自のものだろう。
「私は騎士ですから、体を自由自在に動かせなければ貴方を護れませんので」
「騎士ってすごいね、こういうことちゃんと考えてるんだ」
「いえ、戦闘中に一々思考していては遅いです。反射で全ての攻撃を初動で叩き落とさないといけませんので。ただまあ、新しい技術を学ぶときなどは最初に言語化した方が習得が早いですね」
なるほど。武術というのもただ鍛錬を重ねればそれでいいというわけじゃないのらしい。それも当然か。
言われてみれば、体動かすにしたって頭を使えた方が絶対に有利に決まってる。僕は再度素直に感嘆の言葉を口にした。
「武術も勉学なんだねえ。ハティはやっぱりすごいよ」
「お褒めいただき光栄に存じます、よ」
そして、なぜかハティは僕の手を取って、その甲に優しく口づけをした。ハティのマズルの飾りが柔らかな感触をそこに残して。
脈絡のないその行為に、僕は、ブワッと赤面してしまう。
本当にこの騎士は、いつだってキザなことをする!
「な、なんでいま手の甲にキスするの」
「マーニ様がそのまま胸を張って生きていけるといいなと思いまして、──それときっと貴方様は照れてくださるだろうなって」
「ふふふ」とハティは口元に手を当てて笑う。
この人、確信犯だ(誤用だけど気にしないでね!)
「ねぇ、ハティ」
「はい」
「君、恋人になってから僕のことからかうの楽しくなってるでしょ」
「はい」
「もう!」
「はい」じゃないよ! 「はい」じゃ!
悪びれずに頷かれるものだから、僕は憤慨してしまう。
……そう、僕とハティはもう恋人なのだった。
そして恋人になってからというもの、年上のこの恋人はことあるごとに僕を揶揄うのである。
もしかすると、主人と従者ではなく、対等な人間として僕と接するとなれば、こういう風に振る舞うのが本来のハティなのかもしれないし、対等になりたいという僕の切望は叶ったのかもしれないけれど。
それにしたって業腹である。
だって、いつだってハティは僕のことを翻弄してみせるから、好かれてることを逆手に取っていいようにしてしまうのだ。
こんなのは僕が望んだ対等じゃない!
僕はムスッと頬を膨らませた。
「いいじゃないですか、私も貴方に褒められて照れ隠しがしたかったのですよー」
ムクれた僕にハティはからかいの延長なのか間延びした声で応えてのける。
前は、センシティブな話題の時にだけしてたのに。
「なら、素直に照れてよ!」
……僕だって、ハティの照れてるところが見たいのに。僕ばっかりがいいようにされてしまっている。
けど、僕の抗議なんかは受け流して、ハティはしれっと言ってのける。
「恋人のイニシアチブは取っておきたい主義なので」
「もう!」
どうやら僕に照れてるところは見せてくれる気はないようで。
恋人になった銀狼の騎士に僕はもう振り回されっぱなしだった。
そのまま僕がプリプリ怒っていると、フッと急にハティの表情が和らいで。
「こうやって揶揄って貴方が怒ってくれることが切に幸せだと感じます」
そして、柔らかにハティは薄く微笑んで、再度、唇を僕の手の甲に落とした。
僕は、息を呑んで呆気に取られてしまう。
でも違うのだ。
この銀狼は自分の美しさを自覚している。どうすれば、他者を呆気にとれるのか熟知しているのだ。
「……そんなんじゃ、誤魔化されないんだからね!」
「ふふっ、ダメですかー」
僕が怒ると、ハティは残念とでも言いたげに舌をペロっと出してみせて。
本当にもう! この人は悪戯を怒られた子供みたいなことをする。以前までは、こんなことしなかったのに!
「ダメ!」
「ふふふっ」
しばらく、ハティが楽しそうに笑いを溢す声と僕の怒る声がこの空間に響いていた。
……僕だって、ハティとこうしていられるのが幸せだと思うけれど、でも、もっとちゃんと早くしっかりしたいなって思う。
いつかちゃんとハティに手玉に取られるだけじゃなくて、ハティから頼りにされるような、そんな大人になりたい。
でも、今はこのままでもいいかなとも思う。ハティが楽しそうにしてくれるから。
だから、せいぜいを今を大切にしようと思う。
思いの外、早く、やってきてくれた『いつか』を噛み締めながら、また新しい『いつか』を僕は待ち侘びるのだった。
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