大公、そして、王国騎士団
執務室は夜遅くだというのに、煌々と灯りが灯っていた。
卓状ランプを頼りに羽ペンをカリカリと忙しなく動かす音が、先ほどからひっきりなしに執務室で鳴っている。
書類の束が積み上がったその執務室にいるのは、金狼だった。
黄金の毛束がランプの炎の揺れに合わせて、煌めいて、まるで自身も燃えているかのようだった。
顔に刻まれた皺からも、齢を重ねているのは明白だ。
けれど、その翡翠のような瞳は歳に耄碌などはしていない。知性の煌めきをその瞳に讃えていた。
スケラ・ヴェローナ。彼は、このコーレリア大公国を治める君主であるスケラ大公、その人であった。
黙々と書類に何かしらの筆記をし、書名を残し、便箋に封をし、最後に、蝋を垂らしてはシーリングスタンプを押して、家紋を模ったイコンをそこに残す。
もう手慣れているのか、年の功か。着々と書類を片付けていくその手腕は流れるようなものであり、見事なものだった。滞りなく、書類の山が片付いていく。
ふと、スケラ大公は、公務の途中ではあったが、執務卓の書類に紛れている書物を手に取った。
その書物の表紙に書かれている題は、──コーレリア国選名作戯曲集。
戯曲、つまりは、劇の台本のような会話だけで物語を綴る話がそこには集められているのだった。
執務の合間に、戯曲に目を通しては、深く息を吐き、本を置いてはまた執務を進めるということをスケラ大公は繰り返していた。
カリカリカリカリ……と、羽ペンを走らせ続けていると扉からコンコンとノックの音。
「良い、鍵は開いておるよ」
スケラ大公が入ってくるよう促すと扉の前の者は「失礼します」と断りを入れてから、部屋に足を踏み入れた。
男が部屋に入ってくる、キビキビとした足取りで、スケラ大公の座る執務卓の前へ。
そして、立ち止まり、ピッと姿勢を正した。
「召集を受け、参りましたオーディールです」
オーディールと名乗った男は騎士だった。
齢にして三十半ばか、そこらだろうか。
アッシュグレイの髪を刈り上げた短髪の右頬から顎にかけて傷跡がある、目の鋭い男だった。無精髭がかすかに顎にかけて生えており、粗野な見た目ではあったが、凛と伸びた背筋のおかげか、清潔感がないようには見えない。
その男は肩当てやガントレット、要所要所だけを守る鎧を身につけて、その胸に輝く徽章は狼のイコンを中心に讃えていた。
そして、更に特異なところがあるとすれば、脇に狼の頭を模したヘルムを抱えている。
「うむ、いつもすまないの」
「いえ、大公閣下の命とあれば、王国騎士団はいつでも馳せ参じましょうぞ」
「……私は、王国騎士の仕える王ではないぞ?」
「お戯れを」
スケラ大公は愉快そうに笑う。為政者にしては、お茶目なところがあるのかも知れなかった。反面、オーディールは渋い顔をした。その実、嫌味にも聞こえうるからだ。
この国が大公国となってもなお“王国騎士団”と名乗りをあげる、その騎士団は、スケラ大公の懐刀──と見せかけて、実は違うということをスケラ大公はよく分かっていた。
あくまでこの騎士が忠誠を誓っているのは、とっくのとうにいなくなった初代王であり、自分はその代役に過ぎないのだ。
自分に付き従ってくれるのは、あくまで目的、目指す地点が同じで、その実、対等なのだということも。
戯れを続ける。
「薔薇はどんな名前で呼ぼうと甘く香る」
「は?」
突然、スケラ大公の口から放たれた芝居がかった台詞に、オーディールは怪訝そうな声を憚らずに漏らす。実際、その台詞はある有名戯曲の一節だった。素直なリアクションにスケラ大公は「クックッ」と喉を鳴らした。よく笑うお爺様である。
「オーディールは劇は嫌いかね」
「劇、ですか。生憎、鍛錬で忙しく……」
狼を模したヘルムを脇に抱えたその騎士は意図を図りかねながら戸惑うように応えた。その手の話題はどうやら門外漢なのらしい。
このコーレリア大公国において、劇はメインカルチャーであり、国を推して支援する一つの産業でもあった。であるからして、スケラ大公は、「ほぅ」と一つ意外そうに声を漏らした。
「では、同じ戯曲からこれは聞いたことはあるかな。『ロミオ、どうして貴方はロミオなの?』」
「ああ、それでしたら」
オーディールはようやく自分にも分かる台詞があったと、顔を綻ばせた。ずっとムッとしていた顔が少年のように和らいだのを見て、満足そうに顎を擦りながらスケラ大公は頷いた。
「そうかそうか。やはり、そちらは有名なのだな。他国の戯曲ながらこのコーレリアの劇場でもよくよく上演されておるしのぅ」
うんうん、頷くスケラ大公に渋い顔をしながらオーディールは口を開いた。
「して」
「ん?」
「今の会話はなんだったので?」
オーディールからすれば、当然の反応であった。
仕事で呼び出されて、劇の話を振られる。
意味が分からない。
その素振りをオーディールは隠さなかった。
実直な人間である、逆を言えば、嘘をつけないこの男のことをスケラ大公はその実気に入っていた。なにせ打てば素直な反応が返ってくるのだからこんなにも面白い男が他にいるだろうか、いやいない。それに、貴族同士の会話は基本的に腹の探り合いだ。だから、この竹を割ったような男は貴族ならばきっと誰もが気に入った。
「この国には昔からある戯曲があるのだよ。『落陽王』という劇があってな。公務の傍ら、少し思い返していたのだよ」
「はぁ」
その「はぁ」には『だから、なんなのだ』というボヤキが見え隠れしていた。
だいぶ、見えていた。
「して、此度の招集は何故でしょうか」
いつまでも、無駄話を続けていてもしょうがないと思ったのか、辛抱堪えきれなくなったオーディールは本題への話題転換を図った。
そう、オーディールは本来このような会話がしたいのだった。
「貴族が襲撃されていることは、オーディールも存じているところであろう」
「はい、存じております」
オーディールは頷いた。
いま巷では、連続殺人がこのコーレリア大公国で起こっているのだった。中でも、この大公と比べて下の爵位の、男爵や伯爵の位の者ばかりが狙われ、誅殺されていると言った次第であり、中でも騎士団を擁するフォン・ゼッケンシュタイン伯爵の子息が騎士団ごと皆殺しにされていたというのが、大きな話題だった。
「その調査を王国騎士団、その団長であるオーディール、其方に任せたい」
オーディールは頷きながらも、その顔は明らかに難色を示している。
眉間に皺が寄っていた。
「ええ、構いませんが……、十中八九、貴族同士の政争でしょう。でなければ、弱いものいじめに忙しい刑吏共がとうに職務を全うしているでしょうし、馬鹿どもに勝手に殺し合わせておけばいいのでは」
割と、とんでもないことを言った。
それは、放っておけばいいと言っているのだった。
だが、この国ではよくあることなのだ。
コーレリア大公国は強い国である。
他の国からは中々手が出しにくい、理由がある。というのも、コーレリア大公国にはある伝承があるからだ。神話と言ってもいい。そしてそれは真実であるということをコーレリアの外に住む者たちは身を持ってよくよく知っていた。
であるからして、この国でおける問題というのは、身内のものがほとんどで。
その最たるものが、平和を持て余した貴族同士の殺し合い。内輪揉めだった。
それを聞いたスケラ大公は眉を上げながら口を開いた。
「これこれ、オーディールや。たとえ事実であったとしても、言ってよいこととと悪いことがある」
「これは、失敬」
「フォッフォッフォッ」
スケラ大公は穏やかな口調で嗜めながらも肩を揺らして愉快そうに笑った。
老獪になってなお、一つの国の首長を務める者なのだ。腹に一物を抱え、食えないところがあるのも道理だろうか。
一頻り笑った後に、スケラ大公は凛とその眼差しを光らせる。
「じゃがの、大量の死者が出ているのもまた事実。そして、実際に死に行く者は貴族だけではない。戦いでいつも踏み躙られるのは、いつだって弱い立場の者なのだ」
静かに灯ったその光は、知性とその中にわずかに憂い帯びていて、オーディールは今度は納得するように頷いた。
他者が傷つくことを憂うスケラ大公だからこそ、本来の主人ではない大公であっても、オーディールは付き従うことをよしとしているのかもしれなかった。
「分かりました。大公閣下がそのような想いをお抱えなのであれば、このオーディール喜んでお力になりましょう」
「うむ。ありがとう」
スケラ大公も頷き返すのだった。
「では──」
話が終わったと、オーディールが立ち去ろうとした時だ。
「ああ」とスケラ大公が思い出したように声を上げた。
「ああ、そうそう」
「まだ何か?」
踵を返しかけたその歩を止め、オーディールが再度スケラ大公へと向き直る。
スケラ大公は、今度は戯れを挟むことなく、手短に要件を口にする。
「其方に捜査の手伝いをつけようと思っておる」
「手伝い、ですか? 生憎ですが、私には部下がおりますので」
手伝いなど不要なのだ、と。
オーディールは率直に疑問を口にする。
「いやどちらかというと、その者の警護を任せたいというのが肝要かの」
オーディールは得心するように、首を縦に振る。
実際には、こちらが手伝いをするということかとでも言うように。
「ああ、なるほど。それで、その者というのは」
「なに少し事情がある者でな。詳しくは本人から聞くとよい。明日、現場へその者を向かわせよう」
その言葉にオーディールはムッとした。
「お言葉ですが、スケラ大公。貴方のことですからお考えがあるのはわかります。ですが、もう少し腹を割ってお話してくださっても良いのではありませんか?」
事実、スケラ大公の言葉には何者かが合流する以上の具体的な話が何もなかった。なんら説明になってない説明には流石に不平を漏らさずにはいられなかった。
「私は、他人の抱えた秘密や事情を勝手にベラベラと喋りたくはないのじゃよ。分かっておくれ、オーディールや」
「……承服いたしました。では、明日。その者と共に捜査へ」
渋々ながら、申し訳なさそうに頼まれてはしょうがないといった面持ちで、オーディールはスケラ大公の命に応じるのだった。
「すまぬ」
流石に申し訳ないとは思っているのか、スケラ大公は小さく頭を下げた。けれど、オーディールはその謝罪に小さく頭を振った。
「いえ、では、これで」
そして、今度こそ、オーディールは執務室から、入ってきたのと同じようにキビキビとした足取りで去っていった。
その後ろ姿が扉で見えなくなったのを確認した後に、スケラ大公は視線を落とした。
「私の予想であれば……」
そして、手に取るのは、執務中、何度か手に取っていたコーレリア国選名作戯曲集。閉じたそれをそのままパラパラと紐解けば、ある戯曲のページで自然とページが捲れるのが止まった。何度もそこばかりを読んで、本に癖がついてしまったのだろう。
「コルネリウス……、そして、アマビリスの狼血。落陽王──ボゴテンシス」
そこには、落陽王の題を為す戯曲が綴られている。落陽王の字をなぞり、スケラ大公はボゴテンシスと呟いた。
落陽王、それはコーレリアが誇る、恋の、そして悲劇の戯曲だった。
「コーレリア大公国などと、この国をどんな名前で呼ぼうとも、本来は貴方が継ぐべき国であったはずでしょうに。貴方であれば、私も喜んで大公の座を退いたというのに。──ソール殿下……」
オーディールが去った後、ポツリとつぶやかれたスケラ大公のその呟きを拾い上げるものは誰もいなかった。
スケラ大公は静かに瞼を閉じ、何かを思い浮かべた後、ゆっくりと息を吐いた。
いつまでも、こうしてはいられない。
そして、また執務室にカリカリと羽ペンが走る音が鳴り始めた。
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──
スケラ大公も困ったお方だ。大事なことを教えてくださらない。
だが、まあ、構わない。
あの方の知略も謀略も全ては弱者の手を掬い取るためにあるのだから。
だから、きっと、たとえ我儘のように思えても、従えば誰かが救われるのだろう。
ならば、俺は余計なことを考えずに剣を振ればいい。
スケラ大公の意図は、アマビリスが興した俺たち王国騎士団の目指すべき方向と合致している。
この国を守ること。
そして、それこそが最初にして最後の王、ボゴテンシスが俺たち王国騎士団に残した最後の王令なのだから。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
ハティに沢山のことを教えてもらって、僕はようやくコルネリウスの者になれた気がした。
そして、コルネリウスの者になったことで、俄然、僕はこの戦いに身を投じなければならないのだと思うようになった。
たとえ、その道が血まみれの道であったのだとしても。
この国を守るために。
今宵も、ハティと共に“お花摘み”に出かける。
けれど、その前に、僕はいつもやることがあるのだった。
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