ゆっくり歩こう
エマと暮らし始めて三ヶ月になる。
異世界からやって来たエルフ。
信じられないような状況なのに、僕はそれを自然に受け入れている。
その理由は、自分でもはっきり分かっていた。
妻と娘を、自分のせいで死なせた僕。
そんな自分が生きているこの世界は、僕にとってまるで舞台のようだった。
色の抜けた、モノクロームの作り物の舞台。
だから、エマの出現も存在も、どこか現実感が無い。
彼女には、とてもこんな事話せないけど……。
そんな罪悪感もあって、僕は彼女が何であろうと、出来る限りの事はしたいと思っている。
そして彼女が元の世界に帰るなり、別の何かで居なくなったら……
僕も、自分の店じまいを考えてもいいだろう。
いわば、最後のお勤め、ってやつだ。
「ご主人様、この世界って……色が凄い。目に刺さってくるみたい。人って、こんな色彩の洪水を作れるんですね」
隣のエマが、目をぎゅっとつぶっては、大きく開いている。
さっきから、それを何度も繰り返していた。
僕は今、彼女を連れて近所のドラッグストアに来ている。
これまで、彼女への外部からの刺激は、出来るだけ最小限にしようと心がけてきた。
異世界がどんな所なのか、実際に見た事はない。
けれどエマの話を聞く限り、ヨーロッパの郊外の生活を、さらに中世まで戻したような環境だと想像できる。
そんな場所から、いきなり現代の名古屋。
彼女はよく我慢しているが、内心は辛いだろう。
だから、徐々に慣らしてあげたい。
いや、最悪、慣れなくてもいい。
家の中と、時々、山や海に連れて行く。それだけでもいい。
でも、今回はエマの方からの要望だった。
「大丈夫? もしきつかったら、すぐに戻るから」
そう言うと、エマはにっこりと微笑んで首を振った。
「大丈夫です。ご主人様に、あの不思議な石版で学ばせていただきましたから。少しずつ、慣れてきました」
彼女の言う「石版」とは、スマホやタブレットのことだ。
最初に見せた時、想像以上に冷静だったので、逆に僕が驚いた。
後で分かったことだが、エマは元の世界で、神殿に仕える神官であり、同時に王宮魔導師としても働いていたらしい。
神の奇跡や魔法に触れる機会が多かった分、こうした不可思議な現象への耐性はあったようだ。
まあ、これは魔法じゃないけど。
「宮殿みたいな空間。この一帯を照らす光の魔法。貴重品の紙を食料品のために贅沢に使っていて、王侯貴族のような衣服を平民の皆様が普通に着ている……ご主人様の世界って、人が作った到達点みたいです」
「到達点って……大げさだよ。大したものじゃない」
「とんでもありません。外は焼き尽くすような暑さなのに、中は氷室のように冷たい。この世界なら、魔法なんて不要ですね」
そう言って、エマはきょろきょろと店内を見回す。
通り過ぎる人たちが、ちらちらとこちらを見ていた。
エマの言動のせいではない。
耳は帽子で隠し、声も抑えている。
ただ……エルフという種族は、どうやら想像以上に美しいらしい。
近所のドラッグストアを、モデル級の外国人女性が歩いていれば、誰だって見る。
さて……そろそろ帰ろうか、と思った、その時だった。
「ご主人様。この、ぬるぬるする液体は……? いい香り……」
嫌な予感がして振り向くと、エマが化粧水を手に取り、舐めようとしていた。
「ちょっ……!」
反射的に手を伸ばし、化粧水を奪い取る。
そして、彼女の頬を両手で押さえた。
「口に入れてない? 大丈夫?」
エマはぽかんとしたまま、小さく頷いた。
険しい表情の店員さんに、何度も頭を下げて、その化粧水を購入する。
……しまった。
こんな基本的な事を、説明しそびれるなんて。
僕はがっくりしながら駐車場に戻り、車に乗り込んだ。
エマは無言で俯いている。
僕も疲れていて、声をかけられなかった。
家に帰って、落ち着いてから説明しよう。
そう思った、その時。
すすり泣く声が聞こえた。
「……大丈夫?」
エマは肩を震わせて泣いていた。
「すいません……私……馬鹿だから……」
「違う。君は馬鹿じゃない」
「馬鹿なんです……迷惑ばかり……頑張ってるのに……」
そして、叫ぶように言った。
「もう帰る! もうヤダ! こんな世界、居たくない! パパ……ママ……帰りたい……怖いよ!」
泣いている彼女を見て、僕はポカンとして、驚いた。
でも……同時に僕は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
怒りじゃない。
自分への嫌悪だ。
そうだ。
馬鹿なのは、エマじゃない。
……僕だ。
平気なはずがない。
いきなりそれまでの常識が通用しない世界……僕だとしたら数百年後のような世界。
そんなところに来て……平気な理由がないだろ……
エマは一人でずっと我慢してたんだ。
彼女の背中に、そっと手を置く。
振り払われることはなかった。
「ごめん……ごめん」
泣きながら、背中をさする。
「僕は……娘にも同じ事をした。あの子の辛さを、分かってやれなかった……」
涙が、太ももに落ちる。
閉じたまぶたの裏に美也の顔が浮かぶ。
無表情の顔……
その時、背中に温かい感触が返ってきた。
顔を上げると、エマが涙だらけの顔で微笑んでいた。
「私たち……一緒なんですね」
「一緒……?」
「はい。どっちも迷子です。……ふふ、二人で迷子」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
「エマ。一緒に、大人にならないか。この世界での大人に」
「大人……」
僕はエマの目を見てゆっくり話す。
美也に……言ってやりたかった言葉を。
言ってやらなければ行けなかった言葉を。
「子供は失敗していい。怖かったら泣いていい。僕も子供だけど、君より少しだけ先にいる。だから……僕に泣けばいい」
「……頑張らなくて、いい?」
「いい。居てくれるだけでいい」
エマは、声を上げて泣いた。
「……こんな世界、やだ……」
「そうだな。僕も嫌いだよ。でも……二人で歩こう。ゆっくりでいい」
エマは、泣きながら頷いた。
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