14

 気持ちが抑えきれなかった。交渉は途中で打ち切られ、茜は椅子から引き離された。

 あとになって、自分でもわかった。一方的にぶつけてしまった。先生の拒絶を正面から受け止める覚悟もないまま、踏み込みすぎた。交わされないまま残った想いだけが、その場に置き去りにされたようだった。

「俺を追うな」と言われたとき、すべてが届かなかったと知った。それがいちばんつらかった。

 茜は、泣き続けた。目が熱を帯びて膨らみ、しばらく何も見えなくなった。声を詰まらせ、息もままならず、声はやがて枯れた。

 ユメは何も言わなかった。寄り添うような言い回しも、慰める仕草もなかった。ただ、そばにいてくれた。


 時間だけが進んだ。店内の空気がすっかり静まり返っていることに気づいた。

 泣き疲れた体が重たく、ぼんやりとした頭の奥に、現実の時間が戻ってくる。

 そろそろ帰らないといけない。そんな思いが、ようやく意識の表面に浮かんだ。

 茜はゆっくりとスマホを取り出す。画面の上に、十八時ちょうどの数字が表示されていた。

 そのすぐ下に、母からのメッセージが届いている。

『どうしたの?』

 茜は短く指を動かす。

『クラスの子たちとカラオケ行ってた。半までに帰る』

 送信を終え、深く息を吐いてから画面を閉じた。

「迷惑かけてごめんね……十万円……貯金おろさなきゃだから、少しだけ待っててくれる?」

「いりません。交渉不成立ですから」

「……そうなんだ」

「少し、落ち着きましたか?」

 返す言葉が見つからなかった。思考の中に波が立ち、まとまらない。


 奥のほうで沈んでいたものだけが、やけに強く残っている。弾かれるような感触だった。近づきたかったのに、押し返されてしまったような。

「……わたし、帰るね」

 立ち上がると、ユメが歩み寄ってくる。

「送ります。道を間違えれば、危険ですから」

 うなずいた拍子に、背中の力が少しだけ抜けた。

「ありがと」


 外へ出ると、空がやわらかく染まりはじめていた。ユメのあとについて、複雑に入り組んだ路地を歩く。古びた平屋や、看板の色が落ちた商店が静かに並ぶ通りは、ビル街の一画とは思えない。

 行きとはまるで違う、静けさをまとった帰り道。肩を並べて歩くユメの存在が、怖さを遠ざけていた。足音と浅い呼吸だけが、路地の空気に溶けていく。

 

 先生の気持ちは、今の自分には届かない。

 けれど、時が経って、あの人と同じくらいの年になれば、少しは理解できるかもしれない。そう思うしかなかった。

 それでも心の奥に沈んだままのしこりが、どこにも行かずに残っていた。

 この先ずっと付き合っていくことになるのだとしたら、どうにもやりきれない。

 茜は歩きながら、うつむいたままつぶやく。

「……先生は、わたしのこと、嫌いだったのかな……」

 そうだったなら、はっきり線を引いて、「もうこだわらない」と言い切ることもできた。

「……嫌いって言ってほしかったな。ブスでも、ガキでも、ひどいこと言われたほうが、まだよかった。はっきり突き放されたほうが、ましだった」

 そのほうが、ずっと楽だった。

 たとえば、恋をしたことなんてなくても、告白してきっぱり振られたほうが気が楽だって話、少しだけわかる気がする。

「今日だって、先生は、わたしと会うのを断ってくれたらよかった。期待なんて、させないでほしかった……」

 声のあとに続いたのは、長く、鈍い吐息。茜は視線を横に向けず、つぶやく。


「……ねえ、ユメちゃん。先生は、自殺のままなの?」

「はい。交渉が決裂したので」

「じゃあ、また学校で、悪い噂立てられちゃうね……。ううん、横領したって認めたもんね。先生は悪人だよね」

 そう思えたら、少しは楽になれたはずだった。きれいに切り離せるなら、割り切って終わらせられた。

 でも、どれだけ言い聞かせても、否定しても、塗りつぶしても、残ってしまう何かがあった。

 ユメが、ふいに口を開く。

「水無瀬先生は悪人ではありません」

 茜は顔をしかめた。

「……なんで、否定するの? 悪人だって言ってくれればいいのに」

「彼がそうでないと、あなた自身が知っているからです」

「知らないし」

 そっけなく返すと、ユメは淡々と続けた。


「其の五。適用外の依頼。犯罪者の死の美化」


「いきなり、何?」

「それが答えです」

「は……?」

 意味を掴めずにいると、ユメがほんのわずかに口調を和らげた。

「水無瀬先生は、確かに過ちを犯しました。本来なら、法律に委ねられるべきだったのかもしれません。でも、それだけの存在ではありませんでした。もし、本当にすべてが悪でできていたなら、あの場所にすら立てなかったはずです」

 はっきりとした意味まではすぐに理解できなかった。

 それでも、これが彼女なりの励ましなのだと茜は思った。言い回しこそ堅いのに、どこかあたたかさがあった。

「じゃあ……ダメじゃん……本当はいい先生だったのに、またクズだって言われる」

「気にする必要はありません。いずれ忘れられます」

 茜は、黙ったまま耳を傾けた。

「角さんが、水無瀬先生をいい先生だったと感じたのなら、それがすべてです。私も、そう思っています。全員が彼を責めているわけではありません」

 感情をあらわにしない話し方なのに、やっぱりあたたかい。無理やり慰めようとするでもなく、突き放すでもない。

 張りついていたざわつきが、いつのまにかほどけていく。形を失って、奥のほうへ沈んでいく。

「……うん」

 前を向こうと決めた。


 空がやわらかく茜色に染まり、通りの先に自分の住むマンションが見えてきた。

「ユメちゃん、送ってくれてありがとう」

 気づけば、口元がほんの少しゆるんでいた。

「いえ。それでは」

 ユメはあっさりと言って、背を向けかける。茜は思わずその手をつかんだ。

「ねぇ、わたしと友達になってほしい」

 きちんと、伝えておきたかった。ユメの目がわずかに見開かれ、短く間が空く。

 やがて、いつもの表情に戻る。

「はい。構いませんよ」

「じゃあ、ユメって呼ぶね!」

「わかりました、角さん」

「茜って呼んで」

 口にしたあと、自分でも驚いた。普段なら、こんなこと簡単に言えない。

 けれど今は、考える前に体が動いていた。ユメと話していると、そういうことができてしまう。

 ただ、そばにいたいと思った。友達になりたいと願った。それだけは、本物だった。

 ユメは、わずかに息を吸い込むようにしてから、ゆっくり応えた。

「茜」

 名前を呼ばれた瞬間、何かがほどけた気がした。体のどこかが、ゆっくりとゆるんでいく。茜は空に向かって、自然と笑顔をこぼす。


 ――先生。忘れろって言ってたけど、無理だよ。描いてくれた絵も、声も、視線も、ずっと覚えてる。わたしが選ぶ。わたしが決める。

 どうしていなくなったのか、まだわからない。これからもきっと答えは出ない。

 だけど、それでもいい。いつか、少しずつ整理できる日がくる。

 わたしは、この気持ちだけは大切にしていたい。


 先生、ありがとうございました。

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