13

 茜はまぶたを伏せ、ゆっくりと肺に空気を送り込む。

「先生が……クズって、自分でそう思ってても、他の人たちにそう言われても……それでいいです。でも、わたしは、違うから。描いてくれた絵……あれが、本当に好きなんです」

 微かな震えを含みながらも、迷いのない調子で、飾らず、まっすぐに、茜は言った。

 膝の上に置いたスケッチブックを、ゆっくりと開いた。中央に描かれていたのは、自分自身。

 鉛筆の線はやわらかく、まなざしには温かさが宿っていた。見飽きることのない、大切な一枚。

 その絵から、淡い光がにじみ出す。指先に触れた明かりが、ゆっくりとページ全体に広がっていく。


 茜色。

 心の奥にわずかに残る自信のような、やわらかくて優しい光。

 先生の表情が変わった。

 細められていた目が揺れ、大きく開かれる。まるで何かを思い出すように、茫然とスケッチブックを見つめていた。

「先生が、わたしのこと、こんなふうに見えるのって……やっぱり、目が悪いんじゃ……あはは。でも、それでも、この絵が大好きです。先生の目に、こう見えてたって思ったら、すごく嬉しくて」

 笑いながら話すうちに、抑えていた感情が溢れていく。

「だから、パックしたり、まつ毛をばちばちにしてがんばったんです……でも、絵みたいにはなれなくて」

 うまく息が整わない。伝えたいことばかりが先に立ち、言葉が追いつかない。

「それだけじゃなくて……あのとき、先生が描いてるの、ずっと見てました。変わった持ち方でしたけど、大胆に腕を伸ばして」

 茜は立ち上がり、手に絵筆を握っていたときのような動きを再現する。空をなぞるように、静かに腕を動かす。

「その姿が好きでした。先生の絵が好きだったのと同じくらい……描いている姿を見るのも、すごく好きで……」

 それを聞いた先生が顔をしかめた。


「……やめろ」


 短く、鋭く、冷えた声音。

 けれど茜は止まらなかった。

 涙は途切れなかったが、視線は定まっていた。遮られても、遠ざけられても、想いだけは届けたかった。

「わたしにとって、先生は――そうじゃありません。クズなんかじゃないです。こんなふうにしてくれたのは、先生なんです。水無瀬先生は……わたしにとって、大切な人です!」


「やめろっ!」


 刺すような声。視界の中で、先生の表情がこわばる。

 怒鳴られたことよりも、真正面から拒絶された事実が、茜の背を凍らせた。

 視線の先にある顔が歪んで見える。怒りというより、必死に何かを断ち切ろうとしていた。

 肩に触れる気配。ユメがそばにいた。

「角さん、交渉はここで終了です。ルール違反です」

「……え?」

「其の七。その他注意点。交渉の範囲を超える行動や会話をしてはならない。交渉は椅子に座り、落ち着いた状態で行うこと。あなたは、どちらにも抵触しています」

「そんな……まだ、砂……途中なのに……」

 思わず口にすると、ユメは淡々と返す。

「違反は違反です」

 ひとつの迷いも混ざらない声。茜の中に残っていた頼りが、すっと手からすり抜けていく。

「やだ……ユメちゃんまで意地悪言うの? 止めないでよ……」

 肩に置かれた手の重みが、ずしりと響いた。微かな力で振り払う。


 けれど、先生も引かなかった。

「そいつの言ってることが正しい。これ以上、俺を追うな。クズじゃないって思いたいなら、勝手にそう思ってろ。ただな――」

 先生の言葉が詰まった。ただ、すぐに、低く重たい声をかぶせてくる。

「俺の絵を引っ張るな。描き方を拾い上げるな。それはもう、俺の中じゃ終わった。過去にしがみつくな。そんな風に俺を“使う”な」

 茜の視界が揺れた。床の感覚があやふやになる。

「……使ってなんか、ない……そんなつもりじゃ……」

 か細く漏らす声にも、迷いなくかぶせてくる。

「そうだとしても、するなって言ってる。誰にも見せないところで勝手に閉じ込めておけ。表に出すな」

「……どうして……そんなふうに……」

 口をついて出た問いが届く前に、返事のような吐息が重ねられた。

「忘れろ。そんな絵、燃やしちまえ。死因を変えようなんて思うな。十万払うなんて金の無駄だ。俺がやったことよりくだらねえ使い方だ」

 先生の声に鋭さはなかった。ただ、底に沈んだような静けさをまとっていた。


「俺は、尊敬される教師じゃなかった。これから先、もし俺に似た人間に出会っても、近づくな。それが――せめてもの教師らしい忠告だ」

 言い切ったあとの空白に、別の色が混じった。

「わかったか、茜」

 名前を呼んでもらえた。やっと、優しい声が聞けた。なのに、何もかもが遠く感じられた。首を横に振る。強く、大きく。

「いやです! 全部先生の勝手! そんなの知らない! それに、絵はもうわたしのものです! 今さら捨てろなんて、受け入れません!」

 何を背負っていたのか、どれほどの悔いがあったのか。描くことをどれだけ拒んでいたのか。それでも、なぜあの日、わたしを描いたのか。

 問いが消えなかった。結ばれもしなかった。だから、はっきり告げる。


「先生は、うそをついてる。……先生は、絵が、好きなんです!」


 椅子が音を立てた。立ち上がった先生の影が揺れた。

 次の瞬きで、腕をぐっと引かれる。ユメだった。

 小柄な体格からは想像できない力で、背中を扉のほうへと引き寄せていた。

「ユメっ、やめて!」

「やめません。出ます」

 遮断された感情が冷たく響いた。逃げ道は、最初からなかった。


 強く引かれ、茜は立ち上がるしかなかった。視線の先で、先生が歩を進めてくる。

 先生の揺れた瞳に宿る光は鋭さよりも、こらえた熱に近い。怒っているはずなのに、どこか泣きそうに見えた。

「せんせっ!」

 伸ばした手が空を切る。触れたくて、ただそれだけの衝動だった。

 そのとき、遮るようにユメが叫んだ。


「死にたいのですか!」


 張りつめた空気が一気に凍りつく。どこかで、空間そのものが軋んだような感覚。

 茜の身体が、扉のほうへぐいと引き寄せられる。ユメの手が強く絡みつき、離れようとしなかった。

 引っ張られた腕に針のような痛みが走り、足元の感覚が遠のいていく。

 白い霞が視界に広がり、あらゆる形がぼやけていった。

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