第20話 好きを選ぶ難しさ

 そして、セラはアンの手を優しく握り、糸のお店へと向かって歩き出した。


 通りの向こうに建つその店は、控えめながらも温かみのある雰囲気をまとっていた。

 扉には、先ほどカボンのパン屋の入り口にかかっていたのとよく似た、優しい色合いの布が風に揺れている。


 その布を見た瞬間、アンの胸に、先ほどと同じくどこか懐かしい感覚がふっと湧き上がった。


 「これは、お母さんが織ってるんだ!」と、セラが誇らしげに布を指さす。


 「いつも特にお世話になってるお店には、大体かかってる」


 アンは懐かしさの理由を理解し、小さく頷いた。


 セラは扉に手をかける前に、アンの方を向き直る。


 「今日は、最近入った人が店番してるはずだから、きっと気づかれないと思う。そんなに身構えなくて大丈夫だからな」


 そう言って、アンの頭をぽんと撫でた。


 扉が静かに開き、店内に漂うわずかな綿や草木染めの香りが、ふたりをやわらかく迎え入れる。


 店の中は、広くはなかったが、天井近くまで棚がびっしりと積まれ、そこには色とりどりの糸や布が並んでいた。赤から始まり、橙、黄、緑、青、藍、紫……グラデーションのように並んだ糸の棚は、まるで静かな虹の回廊のようだった。


 奥のカウンターには若い男性がひとり座っていて、あまりこちらに注意を向ける様子もなく、「いらっしゃいませ~」と、気の抜けた声で挨拶を寄越した。


 セラとアンは軽く頭を下げると、静かに糸の棚を見て回る。


 「アン、三色くらい気になった糸を選んでくれ!なんでもいいからな!」と、セラが小声で囁く。


 けれど、アンは目を泳がせ、色の海にたじろいでいた。


 “好きな色”――そう聞かれても、まるで何も思い浮かばなかった。


 ――何かを好きになること。何かを選ぶこと。

 

 それはかつての杏奈にとって、苦難だった。

 何を選んでも、どこかで「それは違う」や「センスがない」と顔を曇られ、言葉で押し返されてきた。母の期待に合うかどうかを考えることが、唯一の“正解”だった。


 ふと、反射のように言葉が漏れる。


 「……セ、セラお姉ちゃんは……何が良いと思う?」


 その問いに、セラは一瞬だけ驚き、しかしすぐに少し困ったような、けれど優しい目で言った。


 「私じゃなくて、アンが決めないと!」


 その言葉に、アンの肩が小さくすくむ。表情がぎこちなくなるのを見て、セラはすぐにトーンを和らげた。


 「……ごめんな、そうはいっても選ぶのって、難しいよな」


 セラはアンの手を取り、棚の端へとそっと導いていく。


 「これがいい!って色がなければ……その色を見たとき、一番心が落ち着くやつを選ぶっていうのはどう?」


 アンは一度深く息を吸い、目を閉じて心を整えた。


 ゆっくりと目を開き、糸を順に見ていく。赤、橙、黄……彩り豊かな糸が、静かにアンを迎える。


 「アンは、昔は橙色ばかり着てたんだよな」


 そう呟くセラの言葉に、アンは橙の糸を見つめた。

 けれど、不思議と心が落ち着かない気がする。


 緑、青、そして――紫。


 その色を見た瞬間、ほんの少しだけ、胸の奥に静かな波紋が広がった。

 涼やかで、穏やかで、自分の輪郭をふわりと包み込むような、そんな感覚。


 そのとき、セラの先ほどの言葉が頭に響いた。


 (アンは、昔は橙色ばかり着ていたんだよな)


 揺れ動く指先が、思わず躊躇う。


 「だ……橙色にしようかな」


 アンがそう言ったとたん、セラがにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。


 「はいはい、紫色にしような!」


 「え……?」


 戸惑うアンに、セラはにこにこと続けた。


 「アンはな、家族みんなが“橙色が似合いそうだ”って話してから、橙色ばっかり選ぶようになったっんだ。でもね、お母さんが言ってたの。“アンは本当は、別の色が好きなんじゃないかな”って」


 セラは、少し遠くを見つめるような目で続けた。


 「だから今日は、アンのことをよ~く観察してくるように言われてた!……紫色の糸の前で、アンが少しだけ落ち着いた顔してたの、見逃してないからな?カボンさんほどじゃないけど、お姉ちゃんの目は侮れないぞ?」


 そう言って、誇らしげにアンの肩をぽんと叩いた。


 そして、両肩を軽く掴んで揺さぶるように言う。


 「ほらほら!あと2色はどれにするんだ!?」


 アンは、まだ少し戸惑いながらも、意を決して指を動かした。


 「そ……それじゃ、黒と、青……」


 「りょうかい!」


 セラは笑顔でそう返すと、慣れた手つきで黒と青の糸を取り出し、「ちょっと待っててな」と言ってカウンターへ向かった。


 その背を見つめながら、アンは心の奥でそっとつぶやいていた。


 ――こんなふうに、自分で“好き”や"気になる"を選んだのは、きっと初めてだ。


 指先に残る感覚を、心の奥で確かめるように見つめると、ぞわりと鳥肌が立った。


 これは、自分で選んだ色。自分の意思で触れた感覚。

 胸の奥が熱くなり、じんわりと、なにかが湧きあがってくる。


 ――一歩、進めたんだ。


 その感覚が、ほんの少し、誇らしかった。


 セラが戻ってきて、アンの顔を覗き込む。


 「好きなの、選べてよかったな!さあ、もう行くよ!」


 そう言って、セラはくすっと笑いながらアンの手を引き、扉を開いた。

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