(3)
夜になる度、肖美は震えている。いや、夜だけでは無いかもしれない。常に彼女の心には黒い影がのたうっていた。
それは漠然として、まだ形を表さないが根源的な恐怖である。なぜだかは分からず、だが消えることも、薄れることもない。じわりじわりと這いより、今では彼女の心を満たしている。
いつからだっただろう。
答えは直ぐにわかった。少女と出会った日からだ。だが、少女と出会った日がわかっても、彼女が元から居たという錯覚は変わらない。
矛盾した感覚のなか、何だか分からない恐怖に震えくらすしかない。この苦しみから解放されるためなら、どのような犠牲を払っても良い。
いくら考えようと、少女への疑問は芽生えず、悲しみは凍りつき、ただ、皮膚の下で蠢く冷たい何かが、じわりと肖美の感覚を麻痺させてゆく。体が限界を迎えようとも、精神が限界を迎えようとも、この世に救いなどない。
それを信じたくないが現実は無慈悲に、残酷に事実を突きつけた。
朝が来ても、朝日の明るさと自分との対比にあゆみは絶望するだけであった。どんなに外が明るくても、彼女の心は闇がおおっている。決して抜け出せない。抜け出すためには死しかないが、その気力すらなく、身動きが取れない。ただ少女と、この歪んだ空気の中で生きるしかないのだ。
太陽の光は、部屋に満ちる淀んだ空気を際立たせるだけで、何の希望ももたらさない。明るい音楽も、絶望を掻き立てるだけだ。外の笑い声や話し声も、もはや騒音でしか無かった。
なぜ、自分だけこんなに絶望しなくてはならないのだろうか。
なぜ、自分以外はみな、日常を送ってゆけるのだろうか。
とうとう周りの人の幸せに、恨みすら抱いていた。妬ましい。なぜ自分だけ?許せない。なぜ自分だけ苦しまなくてはならないのだろうか。
全ての人が、幸福に見えて許せない。絶対に復讐する。
何かされたでもない相手への復讐を肖美は誓った。
目覚めるたびに、体は鉛のように重く、手足は意志に反して、粘りつく泥濘に沈む木の根のように動かない。喉の奥にへばりつく焼け付くような痛みは、彼女の呼吸器の一部と化したかのようだ。
食事は、味のない儀式と化した。皿に盛られた料理は、乾いた砂の塊のように舌の上で転がり、腐敗した金属のような後味を残す。肖美は、食物を摂取する意味さえも見出せないまま、ただ機械的に口へ運ぶ。
それだけで体力は消耗されてしまう。復讐の気力はわかず、恨みつらみが心の中で蓄積して言った。
何かをやっても、本当にやったかと確信が持てない。それだけ意識が曖昧だ。
時折意識が飛んでしまい、気づけば意識とは反した場所にいる。
夫の気配も、娘の気配も今では家から完全に消え失せていた。彼の衣類、彼の匂い、彼が残した全ての痕跡が、まるで最初から存在しなかったかのように、虚空へと消え去った。
なぜ無くなったのかに疑問も抱かず、彼の存在を思い出すこともない。娘の衣服は、気がつけば彼女の中で、少女のものとなっていた。娘の隙間に、少女がぴたりと入り込んだのであった。
無論悲しみを抱くことも無く、ただ意味もわからず絶望に駆られる。
梓がしに、病院からの電話が途絶えた途端、記憶から消えた。正確には記憶にあるのだが感情もなく見つめているのだ。忘れているが、思い出そうと努力すれば、他人事のように脳裏に浮かぶ。
二人の骨壷は置かれているが、まるで顔を見た事すらない他人のもののようだ。
勿論肖美は、その骨壺に目を向けることはない。たまたま視線をやったとしても、無機質で特徴のない家具のように、視界に解けてゆく。
少女は、家の中を影のように彷徨っている。彼女の足音は、ほとんど無に近く、あまり聞こえない。ただ、彼女が移動した後に残される、微かな空気の振動だけが、その存在を知らせていた。肖美は、少女の存在を意識すればするほど、自分自身の輪郭が曖昧になり、希薄になるのを感じる。まるで、少女が肖美の存在そのものを、確実に吸い上げているかのようだと、ふと思った。
彼女の現実に安息などないが夜よりは、安心できる昼間は、すぐにすぎてゆく。生命を維持する本能に従い過ごすのが精一杯だ。
夢の中でも、肖美は震えている。
夢で見る、冷たいものが肌を這う感覚は、目覚めても消えず、肖美の身体にへばりつく。部屋の空気は常に冷たく、暖房を入れても、その冷たさは決して消えない。当たり前だ。全てが彼女の幻覚なのである。
外の世界が、肖美の意識から遠ざかってゆく。自分には仕事があることを、あゆみは既に忘れていた。家の外に出ることもなくなった。郵便物が溜まり、電話が鳴っても、肖美は微動だにしない。少女が出ることもあるが、彼女はすぐに怒り、電話を切った。肖美はそれを攻めるでもなく、無関心に見ているだけであった。
肖美の生活はガラス細工のように脆く、崩れ落ちてゆく。彼女の精神は、完全に摩耗し、疲弊し、狂気のいきへ到達していた。常識では考えられない、異質な二人暮らしが数ヶ月も続いていたが、それに誰一人気づくことなく、時は彼女を置き去りにして、無情に過ぎ去ってゆく。
家の空気は廃墟のように澱み果て、腐敗臭が漂っている。空気もどこか濁り、数メートル先は茶色い霧の向こうだ。床はゴミ袋に溢れかえり、その景色の中に変わり果てた肖美が佇んでいた。
肖美は、少女の淀んだ眼窩を見つめた。そこには、かつて人間が宿していた感情の全てが失われ、ただ、深い、深い闇が広がっている。そして、肖美自身の眼窩もまた、同じように、その光を失いつつあることに、彼女は死ぬまで気づかない。
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