(2)
靖人の精神を蝕んでいた目に見えない侵蝕は、ついに臨界点に達した。それは、数ヶ月前から彼を包み込み、もはや引き返すことのできない深淵へと引きずり込んでゆく。
朝目覚めても窓の外に意味を見出せない。時間の概念すら薄れ、デジタル時計の赤い数字は、ただの光の羅列に過ぎない。体の重さは日常となり、指先一本動かすにも、見えない重力に逆らうような疲労がおってくる。喉の奥にへばりつく粘着質な痛みは、彼の呼吸器の一部と化したかのように離れない。
鏡に映る自分は、靖人ではない別人のようだ。顔の輪郭は曖昧にぼやけ、形が分からず、目の奥に光は映らない。まるで死人だ。彼の中では自分が誰であるのか、どこにいるのかさえ、定かではなくなっていた。
少女の存在は異物ではなく、彼の崩壊した世界の、最も安定した要素となっている。彼女の無表情な目が、靖人の狂気を音もなく見つめている。
すうーっと少女の人形のような無機質な目に吸い込まれるように生気がきえてゆき、彼もまた、無表情になる。
外に出てみれば壁に広がる黒い染みが、生命を持つかのように脈動し、廊下の両端からじわじわと忍び寄るように、そして執拗に彼を追い詰める。視覚的な錯覚を超え、実際に壁から冷たい黒い液体が滲み出ているかのように、湿度や温度すら彼に伝う。
「うわぁああああああああああああああああああ!」
理性的な思考を完全に置き去りにしたように、康人は気づけば叫んでいた。
なんだ。なんだ。なんだ。
これは……?
なんだ。なんだ。なんだ。
たすけて……!
こわい、こわい。
おかしい。思考はかき乱され、恐怖に囚われてしまった。この状況は、何だろうか。
考えがまとまらず、ただただ叫ぶしか彼には残されていない。普段気を配ってきた近所の事など全く考えず、あるだけの声量で叫んでいた。続々と人が出てきて、彼の体を揺さぶるが、無意識に振り払ってしまう。
視線は黒いシミに釘付けになった。
しみは脈動し、靖人を嘲笑うようにケタケタと笑っている。
「いやだぁ!!」
廊下に出てから初めて声が言葉になる。
近隣住民の手が、黒く染まっていく。やがて彼らの体まで、黒く覆われ、粘着質になった。そして床のしみと一体化する。
黒く固まった血痕のように固く、だが柔軟で、気味の悪い感覚が、全身を包み込む。
逃げなくては行けない。
本当は気がついている。これは全部自分の幻覚だ。黒く染ってしまった近隣住民も、ただ靖人の様子を見ようと出てきただけだ。黒いシミも幻覚だ。だが脳裏ではそれがわかっていても、信じられない。黒い染みも近隣住民も恐ろしい。暴れる靖人をおさ得ようとする彼らの手を払い除け、鉄扉を開けて室内に駆け込んだ。
足の裏が冷たいフローリングを叩く音、空気の抵抗、迫りくる突き当たり壁の存在────それらの全てが、彼の焦燥感を増幅させるノイズと化している。部屋に逃げ込んでも、全ては彼の幻覚なのだ。消えることは無い。彼が動けば、それは付きまとってくる。染みはすぅーっと床を滑り、部屋に身をよじるように侵入した。
彼の足元まで広がり、靖人の恐怖を楽しんでいる。ケタケタと笑い声が彼の耳をつんざく。ふと、脳裏に少女の笑い声が蘇り、目の前の嘲笑と重なる。
ふたつの声は共鳴し、やがてひとつに纏まった。おなじ声なのだ。染みから聞こえるのは少女の笑い声なのだ。全身の血管を血液が奔流する。視界は揺れ、壁や家具の輪郭が曖昧に滲んで見える。
だが、なぜ。
なぜあの少女の笑い声なのだろうか。
考えていると、嘲笑の音源が、変わっていた。先程までシミから聞こえていたが、今は壁から聞こえる。
笑い声の音源が蜘蛛のように部屋中を駆け巡ると、クローゼットの中に吸い込まれて行った。
全ては虚構。そう自分に言い聞かせるが、クローゼットの中から聞こえる嘲笑は決して止むことがない。
震える体を無理やり動かし、クローゼットの前に立った。足はガクガクと震え、今にでも崩れ落ちそうだ。手も震えてしまい、扉を掴んでもなかなか引けない。しばらくたち尽くした後、やがて扉を開けた。
水色の布が、床を覆っている。髪が放射状に広がっている。手足が力なく床に投げ出されている。
───少女だ。
靖人は、すぐに理解するが、行動には写せなかった。明らかに倒れているため、救急車を呼ばなくてはならない。しかし行動に移せず、やはり嘲笑は彼女から発せられていたのだと納得するだけだった。
「ヤ……スト……ココニイテ」
囁き声も、全て少女のものであったのだ。
靖人は、両手で耳を塞ぎ、床に蹲る。しかし、その声は、彼の頭の中に直接響いているようで、容赦なく追いかけてくる。逃れることはできない。
気がつけば、靖人の意識が色を失っていった。視界の端から忍び寄る灰色が、中心へと向かって拡散し、やがて視界を覆い尽くす。音も、もはや意味を持たない、遠い木霊のように響き、輪郭を失ってゆく。だが声だけは耳元で執拗に囁かれる。彼の全てを囁き声だけが支配したのだ。
思考は、バラバラになったパズルのピースのように散乱し、努力しても繋ぎ合わせることができない。そして努力する意欲もなくなってゆく。過去の記憶の断片が、突然、閃光のように脳裏をよぎるがすぐに飲み込まれ、形を保てない。自分が誰であるか、なぜここにいるのか、といった根源的な問いさえも、無意味なものとして意識から消え去っていった。
ただ、少女が「ここにいて」と囁いている。消えゆく思考のなか「ここにいるよ」声に出さず答えた。
昼夜の区別は消え失せ、窓の外は常に灰色がかった闇に覆われている。遠くから聞こえる車の音や人々のざわめきは、意味を持たないノイズの集合体となり、彼の意識から遠ざかってゆく。世界は、彼の中では崩れさって、そしてもうひとつ、暗い世界がおおっている。
金縛りは、もはや毎夜の事である。
単なる身体的な拘束ではなく、精神を深く穿つ拷問のようで、日に日にすり減ってゆく。暗闇の中で、彼の肌を這う冷たい手は、確実に実体を持つ存在となり、その指先が触れるたびに、彼の精神は深く沈んでゆく。耳元で囁かれる声は甘美な誘惑ではなくなり、彼を支配する絶対的な命令になっていた。その声は、彼の思考を全て奪い去り、残されたのは、従順な傀儡のような意識だけであった。
会社へ向かう電車をみたすのは、満員電車の圧迫感ではない。隣に立つ人々は、顔のない影となり、彼らの会話は、耳障りな雑音へと変わる。彼は、彼らの存在そのものを認識することができなくなった。彼らが動くたびに、体がぶつかる度に、肉体的な痛みではなく、何かが侵食してくるような、粘りつく不快感が付きまとう。
会社での仕事は、意味を持たない記号の羅列を、ただ機械的に入力する作業へと変質した。同僚の顔は認識できず、彼らの呼びかけも、遠い場所で響く音のように聞こえる。靖人は、彼らの存在から完全に切り離され、透明な壁の向こう側に囚われたように、別世界に消えていた。思考はまとまらず、集中力は完全にきえている。些細なことで苛立ったり、逆に感情すら湧かず、ただ無感情に、目の前の光景を認識する、そのどちらかだ。周囲の人間関係は、いつの間にか破綻していた。彼は、完全に孤立していた。
マンションのドアを開けると、冷たい空気が彼を迎え入れる。少女がいるはずなのに、室内は、長きにわたり誰も住んでいない廃墟のように冷え切っていた。
彼は、少女に向かって、一方的に語りかける。しかし、それはもはや、自分の不安や恐怖を吐露する行為ではない。それは、彼の意識を繋ぎ止めるための、最後の、虚しい試みだった。彼女の無表情な顔を見つめながら、彼の言葉は、意味をなさず、ただ音となって虚空に消えていく。少女が何かを言っているようにも見えるが、その言葉は、彼の脳裏に届く前に、音もなく崩れ去る。
無機質な光が部屋を照らし出す中、彼はレトルトの夕食を済ませ、風呂に入り、そしてベッドに潜り込む。その日常の奥には、常にあの囁き声が潜んでいる。靖人の生活は、何事もなかったかのように、平穏に、無事に回り続ける。しかし、その平穏は、ガラス細工のように脆く、すでに崩れ落ちていた。彼の精神は、すでに完全に摩耗し、疲弊し、狂気の淵へと完全に到達していた。常識では考えられない、異質な日常が数ヶ月も続いていたが、それに誰一人気づくことなく、時は彼を置き去りにして、無情に過ぎ去っていく。
あの囁き声は、今日もまた、彼の耳元で甘美に、そして執拗に囁き続ける。
「ヤ…ス…ト…、ココニ…イテ…」
そして、靖人は、もはやその声に抗うことはなかった。彼は、その声に従い、彼の世界へと完全に溶け込んでいく。彼の内側に満ちた異質な何かが、完全に彼の精神を支配し、靖人という存在は、名もなき、形のない闇の一部と化したのだ。
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