(2)
靖人の住む、築年数だけが嵩んだコンクリートの箱は、都心の喧騒から少しだけ隔絶された場所にひっそりと佇んでいた。昼間は生活音に満ちているはずのその場所も、深夜を過ぎると、張り詰めたような静寂に支配される。蛍光灯の微かな唸りだけが、無機質な廊下に反響していた。
新たな異変も、何の前触れもなく、じんわりと輪郭を現し始める。
誰もいないはずの隣室から生活音が聞こえる。大家に聞いても、誰も住んでいないとの一点張りだ。それでも食い下がり、鍵を貰い中を見たが、そこには誰もいない。ねずみだろう、と言われたが、明らかにそれは人間の生活音だ。出勤前に閉め切ったはずの窓が、毎晩帰ると僅かに開いている。
ガムテープで閉じたが、ガムテープはズタズタに切り刻まれ、床に落ちている。少女に見張りを頼んでも、やはり帰るとガムテープは破られている。少女に聞くが、彼女は口を固く閉じたままだった。そして、古びた木造のドアが、夜中に一人でに軋み、眠りを妨げられる。熟眠している少女が妬ましく感じられた。
靖人は、一人暮らしの寂しさからくる、神経質なまでの注意深さが生み出す幻聴や錯覚だと、そう思うように努めていた。だが、その考えは、あまりに無理のあるものだった。彼は、十年以上一人暮らしを謳歌している。そしてここ数ヶ月は少女がいる。今更、寂しくなることなど、彼もありえないと分かっていた。
疲労が蓄積しているのだろうとも思ったが、その頻度は徐々に増し、無視できない領域へと侵食する。
日付が変わる頃に帰った靖人は眠りにつこうとする。薄暗い部屋には、デジタル時計の赤い光だけが浮かんでいた。少女の寝息も聞こえず静寂が耳を劈く中、突然、枕元で微かな囁き声が聞こえてくる。言葉として認識できるものではなく、まるで遠い場所から風に乗って運ばれてきたような、曖昧で不明瞭な音だ。
身を起こし、耳を澄ませたが、音は途絶えていた。
気のせいだろうか。疲れているのだ。
そう言い聞かせ、再び横になろうとしたその時、今度は、部屋の隅から、緩慢な足音が聞こえてきた。
ぺた、ぺた、ぺた
裸足で床を歩くような、忍び寄るような、不気味な足音である。
靖人は息を潜め、目を凝らす。暗闇の中で、何も見えない。しかし、確かに、何かがそこにいる。少女ではない。そう確信させる、冷たい気配が部屋を満たしていた。背筋を嫌な汗が伝い、心臓が早鐘のように打ち始めた。
気づけば彼は金縛りにあっている。全身が鉛のように重く、微動だにできない。
一度瞬きをしたまま、目を開けることもできない。
そんな中、彼の耳元で、再びあの囁き声が聞こえた。今度は、先程よりもはっきりと、近くで聞こえる。子供の声のようだったが、喜びも悲しみも、怒りも何も含んでいない、ただ空虚な響きだ。
少女の声に似ているとぼんやり思う。そして、その声は、ゆっくりと彼の名前を呼んだ。
「ヤ…ス…ト…」
その瞬間、凍りつくような恐怖が靖人の全身を貫いた。必死に声を上げようとするが、喉は締め付けられ、音にならない。暗闇の中で、何か冷たいものが、彼の首筋を這い上がってくるような感覚があった。
金縛りが解けたのは、どれくらいの時間が経ってからだろうか。靖人は、跳ね起き、部屋の隅々を見回したが、そこには少女と自分の他誰もいない。しかし、部屋には、確かに何かが残っていったような、重く、粘りつくような空気が漂っていた。だが出勤時刻は迫っていたため、考える暇はない。
そのまま仕事をこなし、深夜列車で帰ると、直ぐに眠りについた。
目を覚ますと、部屋の空気が異様に冷たくなっている。窓は閉まっているのに、まるで冬の屋外にいるかのような寒さだ。布団から出ると、床に水溜まりができていることに気づく。ただの水ではなく、黒く濁った、粘り気のある液体が水たまりを作っている。
恐怖に駆られ、靖人は部屋を飛び出し、廊下へ出た。廊下は、彼の部屋よりもさらに異様な雰囲気に包まれていた。壁には、黒い染みがいくつも浮かび上がり、微かに腐敗臭が漂っている。隣の部屋からは、すすり泣くような、悲痛な声が聞こえてきた。
「うわぁぁぁ────」
叫び声を上げながら、彼は家を飛び出す。
靖人は、自分のマンションで、確かに何かが起きていることを悟った。それは、彼の神経質な妄想などではない。
彼は、逃げ出すべきだと強く思った。しかし、足は竦み、動かない。まるで、見えない何かに、この場所に留まるようにと、強く引き止められているかのようだった。そして、彼の耳元で、再びあの囁き声が聞こえた。
「ヤ…ス…ト…、ココニ…イテ…」
その声は、以前よりも近く、そして、どこか甘美な誘惑を含んでいた。靖人は、ぞっとするような恐怖と共に、抗うことのできない奇妙な安堵感を覚えていた。
「ああ、ここにいる。永遠に」
得体の知れない声に、そう呟いた。
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