第二章 蝕む───────────
(1)
まるで、自身の輪郭が内側から溶解し、代わりに冷たく、粘りつくような異質な何かが満ちてくるような感覚が、肖美の身体を覆う。毎朝、目覚めると、体の端々まで鉛で満たされたかのように重く、意志とは無関係に、手足は泥濘に沈む木の根のように動かない。皮膚の下では、微細な針が絶えず蠢き、チクチクと痛む。内臓は冷たい石のように体を冷やし、重くしてゆく。
呼吸をするたびに、肺の奥深くが軋み、新鮮な空気が異物と混ざり合い、濁った霧となって意識を覆う。味蕾は麻痺し、舌の上に乗る食物は、乾いた砂、あるいは腐敗した金属のような後味を残す。かつて視界を彩っていたはずの色彩は褪色し、視界は常に薄い灰色がかったヴェールに覆われている。
鏡に映る自身の姿は、日に日に異質な様相を呈し始めた。頬はやつれ、眼窩は深く落ち窪み、そこに宿る光は、消え入りそうに微弱で頼りない。見えない何かが内側から肖美の生命力を吸い上げ、空洞だけを残してゆくかのようだ。自身の身体でありながら、その実感が薄れ、まるで借り物のからだを操っているような、奇妙な疎外感を覚える。
浸食されるように、それらの不気味な感覚は、進行してゆく。目に見えない何かが、肖美の細胞の一つ一つを音もなく異質な物質へと置き換えてゆく。かつて確かに存在した「肖美」という形は、音を立てて崩壊し、その空隙を、冷たく、無機質な何かが満たす。
生きたまま石化していくような感覚である。いや、内側からじわじわと腐敗してゆくような、言いようのない恐怖を伴う感覚なのかもしれない。
全身の血液が泥水に変わったかのように重く、指先ひとつ動かすのにも異様な抵抗を感じる。喉の奥には常に微かな焼けるような痛みがへばりつき、透明な痰が絡みつく。
鏡に映る顔が、日に日に輪郭が曖昧になり、まるで水面に映る像のように、どこか不安定で実体がない。
夫の様子もまた、奇妙な様相を呈し始めていた。彼の皮膚は、内側から色を失うように、透明感を増し、血管が青白い模様となって浮き上がる。不健康とひと目でわかる。会話の途中で言葉が途切れ、虚空の一点を見つめたまま、長い沈黙に陥ることも、増えていく。彼の瞳の奥には、以前のような光は消え、代わりに、底なしの井戸のような、空虚な闇が広がっている。
そして、娘の梓も、例外では無い。彼女の変化は、最も不可解で、肖美の心を深く掻きむしった。梓の身体は、まるで内側から空気が抜けていくように、徐々に萎縮し始めた。服は緩くなり、骨ばった小さな手が、肖美の袖を弱々く掴む。彼女の声は、風に揺れる鈴のようにか細く、時折、意味不明な言葉を囁く。その目は、焦点を結ぶことなく、常に何か見えないものを追いかけているようだ。意味もなく振るえ、その度に目は正気を失う。
少女は、もはや空気の一部というよりも、壁に染み付いた異質な染みのようだ。構えば構うほど、それは広がり、根を張る。家族の体調不良には、淡々と看病するが、表情一つ変えない。不健康な家族の中に、唯一健康である彼女は、異質な空気を抱えていた。肖美は長引く体調不良に気が滅入り、健康な少女に妬みすら抱いた。
三ヶ月がたつとあずさの体調は急速に悪化を遂げる。呼吸は途切れ途切れになり、呼吸と言えば時折、喉の奥から乾いた咳が漏れるだけであった。
やがて意識を失い、救急車で運ばれる。だが、夫婦の体調も悪化し、病院にゆくことは出来なかった。
医師は首を傾げ、あらゆる検査を繰り返すが、梓の病名は依然として霧の中だ。ただ、生命の灯火が、確実に消えようとしていることだけが現実としてそこにある。
少女の存在は、この絶望的な状況の中で、一層際立って異質だ。衰弱と静寂を、当然のこととして受け入れているかのように、表情を崩すことは無い。肖美は彼女の姿が梓の失われた血色の悪さを、より一層際立たせているように感じた。
病室の白い壁、白い床、白い天井、白いベッド、そして、そこに横たわる白い梓。全てが白く溶け合い、境界線を失ってゆく中で、少女だけが、鮮やかな水色の光を放っていた。それは、不吉なまでに鮮烈な、異質な色彩だった。
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